鳥居坂署の御堂さん

「よォし、階を胴上げだ!」
同僚たちがわっと駆け寄り、巧の身体を持ち上げ高々と放る。

「階、最高だぜ!」
「警視庁捜査一課の期待の星!」

わっしょいわっしょいとリーグ優勝したチーム監督みたいに宙を舞う巧。
顔がにやける。警視庁捜査一課の若手エース・階巧。なんと素晴らしい響きだろう。
どんな難事件も粘り強い捜査力と類いまれなる身体能力で切り抜ける。誰もが認める逸材……そんなものに……。

『……はし……きざはし』

どこからともなく声が聞こえ、宙を舞いながら巧は首をひねった。
上司の声ではない。同僚たちからでもない。声は天から降ってきて、地下道に反響する。

『……くみ、……階巧、目覚めろ』

声はどんどん大きくなる。わんわんとハウリングして響き渡る。目覚めろとはなんだ。自分は充分目覚めている。それとも、勇者として目覚めよという、アニメやライトノベル的な展開だろうか。そういったファンタジーがいち警察官の階巧に舞い降りるのだろうか。そんな、馬鹿な。

『いい加減にしろよ、階』

声がはっきりしてくる。それと同時にぞわぞわと背筋が寒くなってきた。底冷えするような女の声だ。雪山で会ったら即死しそうな冷たい声音。

『階、目を覚ませ』

ようやく巧は気づいた。その声が誰のものであるか。

「起きろと言っているのがわからないのか! この大馬鹿者が!」
「……ッ、はいっ! すみませんでした!」

叫びながら目を開けた巧の視界には見慣れた天井があった。そして、自分を見下ろすブリザード級の冷たい視線。

「御堂(みどう)……警部補……」

ベッドの上、巧の胴体をまたいで立ち、見下ろしているのは上司・御堂誉(ほまれ)であった。独身寮は鳥居坂(とりいざか)警察署の七~九階にあるとはいえ、女性上司に乗り込まれて迎える朝とは、なかなか刺激的な目覚めである。
「やっと起きたか、この怠け者。始業時間を十五分オーバーでいまだ布団の中とは何事だ。救いようのない穀潰しだな。恥を知れ」

御堂誉はメガネの奥の氷点下の瞳をさらに冷たく凍りつかせ、巧を見下ろしていた。
寝坊した部下をわざわざ起こしにきた上司の言葉に、巧はようやく頭の回路が繋がった。がばっと上半身を起こし時間を確認する。

「十五分オーバー……。わああ! 本当だ!」

壁時計は八時四十五分を指し、始業時間はとっくに過ぎていた。誉は巧の上から退いたが、いまだベッドの上で仁王立ちしている。狼狽と混乱の中にいる部下を、見下げ果てたという表情で眺めているのだ。
巧は慌てて身体を起こし、ジャージ姿のままベッドの上で上司に土下座した。

「誠に申し訳ありませんでした!」
「私の部下になってから三回目の遅刻だ。たるんでいるというより舐められているのではと不安になってきてな。今日は迎えにきてやった」

怒りを押し殺しているのではなく、本当に使えない人材を哀れんでいると言いたげな冷え切った声だ。巧は頭を下げるばかりだ。

「昨夜、生活安全課の野方(のがた)さんと卯木(うつぎ)さんに飲みに連れて行ってもらいまして、気づけば深夜を回っていました。いえ、けして言い訳をするわけではないんですが」
「そうだな。飲むのはコミュニケ―ション上悪くないが、それを遅刻の理由にするのは警察官失格、いや社会人失格だな。恥じろ」
「その通りでございます。以後、気を付けます」

へへえとプライドゼロで頭を下げる巧に冷たすぎる一瞥をくれ、御堂誉はひらりとベッドから飛び降りた。小柄な上司が軽快に動いていると小学生みたいに見えた。口が裂けても言えないことだが。
玄関でローヒールのパンプスを引っ掛ける御堂誉は、パンプスと同じチャコールグレーの地味なパンツスーツをまとっている。いつものスタイルだ。こちらを振り返って圧力満点の視線をくれる。

「五分で出社準備を整え、七分後にはオフィスに姿を見せろ」
「はい!」
「それと、相当楽しい夢を見ていたようだな」
「え?」

驚いて顔を上げる巧に、上司はにいっと笑って見せた。それは優しい女性的な笑顔とは百八十度違う酷薄とした悪魔の笑みだ。

「夢は捜査一課か。……覚えておこう」

巧は背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
どうやら、最強に格好いい夢の内容は、寝言で筒抜けだったらしい。
狭い玄関から出て行く御堂誉の背を見送り、巧はへなへなとベッドに崩れ落ち、うつ伏せに突っ伏した。

「恥ずかしすぎて死ねる……」

落ち込んでいる暇などないことに、巧が気付くのは数秒後。





警視庁鳥居坂署は麻布署と三田署、高輪署に挟まれた都心のど真ん中にある。
港区の一番華やかな商業地域からは少しずれた地区を担当し、最寄り駅は麻布十番駅。
各国の大使館と古い住宅が建ち並び、長くこの土地に住む者と海外からの居住者が暮らす街。
そんな地域に鳥居坂署はある。

階巧は鳥居坂署犯罪抑止係に先月配属された。
警視庁はおおよそ五年程度で部署の異動がある。巧は昨年鳥居坂署の地域課に異動し、念願の刑事講習を受け、ようやく交番ではなく署の内勤に抜擢された。これで私服刑事の仲間入りかと思いきや、巧の配属先は希望の鳥居坂署刑事課ではなく、犯罪抑止係だった。
巧は少なからず、いや激しく失望した。なぜなら犯罪抑止係には捜査権限がない。そして、“犯抑(はんよく)”は鳥居坂署のお荷物と呼ばれる部署だったからだ。

「遅いぞ、階」
「寝坊して、御堂が迎えに行ったって?」
「だらしねえなあ」

署の廊下をネクタイを締めながら走る巧を、生活安全課の刑事たちがからかう。

「すんません、ホント。すんません」

巧は頭を下げつつ走った。
昨夜巧を潰したのは生活安全課の年嵩の刑事たちで、酒の誘いを断れなかった。しかし、隣の部署であり仕事を頼んだり頼まれたりという関係性の生活安全課とは、仲良くしておかなければならない。

「申し訳ありません! 遅くなりましたっ!」

犯罪抑止係のオフィスに到着したのは上司の指示時刻から一分過ぎだった。すかさず、御堂誉の怒声が飛んできた。

「遅い!」
「すみませんでした!」

条件反射のように最敬礼をする巧は、この女上司が苦手だ。苦手というより、恐れている。
「階、ゆうべ飲んでたんだろ~。飲んでてこれじゃ怒られるよ~」

間延びした声を向かいの席からかけてくるのは井草(いぐさ)耕三(こうぞう)巡査部長だ。五十代の男性で、仕事にはすこぶるやる気がない。だらしない無精ひげにぼさぼさの頭は、一見して刑事にはとても見えない。

「おまえが来なきゃ、俺と古嶋(こじま)が出られないじゃない」

本当は外出が遅れてこれ幸いと思ってるくせに。井草の心中を考えながら、巧は頭を下げた。

「井草さん、すみませんでした」
「若いのに弱っちいなあ。徹夜で酒飲んでも出社は基本でしょ~。階って体育会系出身だよね。それとも、最近の部活ってそういうしきたり的なの無いの~?」
「本当にすみません。たるんでいました」

自分では何もしないのにねちねち文句言うこの先輩が、巧はやっぱり苦手だ。どこの部署にいても、やる気がなくのらりくらりと仕事を避ける井草は、鳥居坂署一のタダ飯食らいと呼ばれている。本人もその悪名は知っているはずなのに、一向に態度を変えようとしないあたりたちが悪い。

「な、古嶋」

話を振られたのは、井草の隣のデスクにいる古嶋侑史(ゆうじ)巡査だ。犯抑では先輩だが、階級年齢的に巧より下である。
古嶋はパソコンの陰に大きな身を竦め、短く吐息のような相槌を打った。高卒で入庁しているので、まだ二十歳だったはずだが、巧の目から見て若々しさも気概もない青年に感じられる。百八十五センチの身長を猫背気味に丸め、前髪を長くし周囲と壁を作っている古嶋は、地域課で仕事がまったくできずに犯罪抑止係に回されたと聞いている。
確かにコミュニケーション能力に難ありのようで、話しかけても真っ当な返事は返ってこない。かといって黙々と仕事に打ち込むタイプでもない。いつも、井草と組んで、最低限の与えられた仕事をこなしているに過ぎない。
「井草巡査部長、説諭は私の仕事だからもう結構。古嶋と出かけてくれ」

凛とした声で言う御堂誉に巧はそろりと視線を向ける。
御堂誉警部補。年齢は巧のふたつ上で二十八歳。ちなみに階級もふたつ上。
チャコールグレーのパンツスーツ。同じ色のパンプス。
身長は女性警察官の採用基準である百五十四センチとのことだが、もう少し低そうに見える。
化粧っけはほぼなく、乱視があるそうで仕事の時は細い銀縁のメガネ。髪型は時代ドラマに出てくるメイドを彷彿とさせる、ひっつめお団子スタイルだ。
この地味極まりない女性警部補は鳥居坂署でも有名人で、配属される前から名前と凄まじい経歴は聞いていた。
しかし、巧は自分がその直属の部下になるとは思いも寄らなかったのだ。

「はーい。じゃ、御堂係長、あとよろです~。古嶋、行くよ~」

井草は年下上司に声をかけ立ち上がり、背広を肩に引っ掛けた。のっそりと古嶋が後に続く。立ち上がっても背中は丸いままだ。

「階、準備をしろ。私たちも出るぞ」
「はい!」

誉に急かされ、巧は慌てて、自分のデスクに仕事鞄を置いた。
階巧、二十六歳。階級、巡査長。大卒で警視庁に入庁し、現在勤務四年目である。
得意なのは運動全般で、所謂スポーツ少年だった自負がある。小学校はサッカー、中学校は剣道、高校はハンドボール、大学は空手と、とにかく身体を動かして生きてきた。
何をやらせてもだいたいできるし、レギュラーに選ばれる。ただし一番にはなれない器用貧乏タイプで、本番に弱いのも玉に瑕。試合で活躍できないので、人気者にはなれないし、女子にはモテない青春時代だった。
そんな巧には夢があった。
『警察官、その中でも刑事になりたい』というものだ。
きっかけは単純にも小学生の頃見た刑事ドラマだ。大人気のシリーズ物で、ドラマも劇場版も見た。
あんな格好いい刑事になりたい。弱きを助け悪を挫く、正義の執行者になりたい。
運動神経と体力には自信がある。筆記試験さえクリアすれば、きっと受かるだろうと思って挑んだ警視庁採用試験。巧は見事合格した。
警察学校を出て池袋(いけぶくろ)署、機動隊を経て、現在鳥居坂署に配属となった。巡査部長試験にはなかなか受からないが、熱心なアピールの甲斐あって刑事講習に行かせてもらえることになったのは昨年のことだ。この講習で成績が良ければ、署でも私服の刑事として使ってもらえる。さらにキャリアを重ね、ゆくゆくは本庁の刑事になれたらいい。憧れの捜査一課だって夢じゃない。
しかし、講習後の異動で巧が配属されたのは悪名高き犯罪抑止係だった。
犯罪抑止係は副署長直属でありとあらゆる防犯の企画を立てる部署だ。そう言えば聞こえはいいが、鳥居坂署での扱いは姥捨て山だった。使えない&面倒くさい人材の墓場、それが犯罪抑止係である。そんな部署になぜ若手のホープである自分が配属されなければならないのか。
このあたりで巧は気づいた。
もしかして、『気力体力折り紙付き』『仕事ができる』『期待の星』という評価は自分の中だけのものだったのではないだろうか。
プラス思考と大きな夢に阻害されて見えなくなっていた自身への評価を洗い直してみる。
警察学校時代の成績は真ん中。しかし、教官に叱責されることは多かった。
体力があっても不器用なところのある巧は、真面目にこなしているつもりでも小さなミスが多い。ひとりだけ装備を忘れる。右を向くべきところで左を向く。
同期は巧をおっちょこちょいの面白いヤツと見てくれたが、巧のミスで教場全員が連帯責任のランニングなどをさせられれば、いつしか『あいつが足を引っ張っている』とみなされる。
巧の明るくさっぱりした性格から嫌われることはなかったものの、困ったヤツくらいには思われていたかもしれない。
そういえば、今だに飲み会の度に、教場時代の失敗をネタに笑われる。もしかして、自分はいじられキャラなのではとすら思えてくる。
卒業配置されたのが池袋署という大きな駅と繁華街を持つ忙しい署だったが、ここでもまた上司に怒鳴られる回数は新人で一番だった。
体力も根性も負けない。しかし、巧自身が一生懸命やればやるほど空回りする。巧としては正しいことをしているつもりでも、周りから浮いてしまう。『やる気があるのはわかるんだけどさあ』苦笑いで言われるのは怒鳴られるよりきつかった。
しかし、長く体育会系に身を置いてきた巧は愚直に思った。
上司の叱責がなんだ。犯罪者と渡り合う警察官がパワハラなどと感じるのは馬鹿らしい。今の立場は組織でも手足。叱られ、指導されるのは誰しも通る道なのだ。
ここで不貞腐れては、大いなる夢は叶わない。
配属二年目で機動隊に異動してからは、心身を鍛える訓練の毎日だった。
その後鳥居坂署に異動し、念願の刑事講習もそこそこの成績で突破したつもりだった。
やっと努力を認めてもらえると思ったのだ。

『どうして俺が犯抑なんですか?』

内示を聞くや否や、巧は生活安全課の諸岡(もろおか)警視に直談判に出た。
犯罪抑止係は副署長直轄だが、普段の決済や監督は生活安全課の課長が一緒に見ている。
諸岡は言った。

『犯抑じゃ不満かい?』
『俺は捜査がしたいんです!』
『ははあ、なるほど』