鳥居坂署の御堂さん

その後も酒宴は進み、巧はしたたか酔ったものの、どうにか自力で帰れる状態で料亭を出た。これなら鳥居坂署まで歩けそうだ。

「御堂、さっきの件頼むね」

巧は並んで歩く誉と諸岡の話をふわふわした頭で聞いた。千鳥足にならないように必死にふたりについていく。

「いいですが、生安の少年で扱ってもらう事案かもしれませんよ」

生安の少年とは、生活安全課の少年係のことだ。少年事件を担当している。

「話は通しておくよ。困ったら、御堂が直接話して、協力を要請してくれていいから」
「諸岡課長はいつもそう言いますが、あなたの部下たちは私の話はまったく聞きません。時間の浪費だそうです。クズの老害どもと対等に仕事の話ができると思いますか?」

悪態をつく誉に、諸岡が明るく答える。

「あいつらもプライド高いからなあ。私としては、この件は丸ごと御堂が仕切った方がいいと思うよ」

誉の背中はその言葉に対して何の反応も示さない。巧は酔った頭で考えた。

(御堂さんが捜査するってこと? 犯抑って捜査権ないよなあ)

頭はよく回らず、署の独身寮にたどりついた巧は携帯アラームをセットすることなく、ベッドに沈んだのだった。




「こんにちは、鳥居坂署でーす」
「管内で特殊詐欺が多発していまーす」

スーツに防犯腕章をはめ、巧お手製の『振り込め詐欺に気を付けよう』ビラを手に、鳥居坂署犯罪抑止係の面々は麻布十番駅近辺で活動中である。

午前九時、行き交う人は会社員が多く、ビラを受け取ってくれる人は少ない。遅刻であろう女子高生にぶつかられ、ビラを受け取ってくれたおばあちゃんには「うちの人がこの前騙されちゃってねえ」と被害相談をされ、小一時間ほど捕まる。巧にはいつもの仕事だ。
もちろん同僚の井草も古嶋も参加しているが、井草は女性会社員ばかりを狙って声をかけるし、古嶋は声が小さく、肘を曲げた格好でビラを差し出しているので誰も受け取ってくれない。

「よし、次はATM警戒だ」

誉の号令で、四人は麻布十番の銀行ATMの見回りに入る。ATMを使う高齢者に声掛けをし、不審な振り込みがないか確認するのだ。
これはなかなか効果的な防止策なのだが、残念ながら鳥居坂署犯罪抑止係ではいまだ目に見える成果を残していない。
ビラくばりとATM警戒を実施すると、午前も終わる時刻となっていた。

「御堂係長~、そろそろ帰りませんか~」

井草がうーんと伸びをしながら提案する。
ビルの隙間に差し込む初夏の日差しは強く、午前いっぱい外にいると随分日焼けしたように感じる。私服勤務の犯罪抑止係はかっちりスーツ姿である。背中は汗で気持ち悪いほどだ。
「間もなく正午、昼飯のため外に出てくる者に、もう一度ビラを配って終わろう」
「俺たちのお昼、遅くなっちゃう」

井草が文句なのかふざけているのかわからないことをぶつぶつと言う。巧の目から見て、どこまでもやる気のない年上の同僚(階級だけはひとつ上だ)は、誉の言うことはきちんと聞く。上司を立てるのが処世術なのかもしれない。軋轢を生まず、自身の利益を守れる最良の方法なのだ。
この点だけは、御堂誉も井草を見習ってほしいと思う巧だ。

「井草巡査部長、午後は諸岡課長から仕事があるそうだ。指示に従ってほしい」
「生安の手伝いですよね。面倒くさいな~」

井草のちゃらちゃらした文句は聞き流して、誉が巧の方を見る。

「階、私とおまえは外出だ」
「あ、はい」

外出とは聞いていなかった。作りかけの企画書が、今日の終業までにできあがるか不安に思いつつ、巧に拒否する権利はないのだった。

昼食のカップラーメンをオフィスですすると、乗用車で出発した。パトカーではない。署で持っている覆面パトカーだ。一見してただのセダンタイプの乗用車にしか見えない。
特に何も聞かされないまま向かったのは、先日の懇親会で会った防犯協会の会長・加藤の元だった。
加藤は麻布十番の街中に小さな印刷所を構えている。先祖代々この地域に住んでいるそうだ。ここなら歩きで来られる距離なのに、と巧は思う。

「ご足労いただきありがとうございます。どうぞどうぞ」

印刷所の中、簡易応接で加藤は迎えてくれた。
「お願いしておいた件ですが」
「はい、御堂さん。マンション裏手のコインパーキングはオーナーに一ヶ所確保してもらっています。カラーコーンがあるのですぐわかると思いますよ。カメラ設置の件も御堂さん指定の全戸で了承を得ています」

巧にはなんのことやらわからない。ただ、加藤の元へ来た時点で、先日の相談事案についてなのは察せられた。驚いた。あの場では事務的な受け答えしかしなかった誉が、すでに段取りをつけて動いているとは。

「住民の方の窓口はすべて加藤さんにお願いしたいです。カメラは長期間の設置になりますし、位置を変えたい、やはり外したいなどご要望がありましたら、直接署ではなく加藤さん経由で私へ」
「ええ、ええ、お任せください。署内で御面倒がおこらないようにいたします。よろしくお願いしますね」

加藤は気安く請け負う。巧ひとりがわけもわからず首をひねっていた。

印刷所を出て車に戻り、ようやく巧は誉に尋ねた。

「御堂さん、これってこの前の件ですよね。俺たちが勝手に動いちゃっていいやつですか? 俺たち犯抑には捜査権ないんですよ」

犯罪抑止係に捜査権はない。事件が起こっても、調べて逮捕するために動いていい部署ではないのだ。

「階、おまえにはこれが“捜査”に見えるのか?」

誉が馬鹿にしたような目で見る。巧は焦って言葉を探すが、迷っているうちに誉が畳みかける。

「本件は相談事案だ。地域住民の不安を解消するために、警察官が動くことに理由がいるのか?」
「いえ、理由はいらない……です」
巧は答えながら、はたしてそうだろうかと疑問を覚えた。彼女が時間を割くなら別に理由がありそうだ。
確かに普段は、『これ本当に必要?』というような仕事しか指示されていないが、御堂誉が噂通りの切れ者なら、警察官の責務と親切心だけで動くとは思えない。
巧が言葉にしかねていると、誉はふうとため息をついた。察しの悪い部下に呆れているというような雰囲気だ。

「諸岡課長が私たちに頼んだ理由を考えろ。少年たちが特定の場所にたむろしている。そして、ここに犯抑でまとめた鳥居坂管内と都内全域の特殊詐欺の統計がある」

手渡された資料は、振り込め詐欺の手口をまとめたものだ。

「銀行協会を名乗り、カードを預かるという手口。どこでもある手口だが、ここ半年同じ文言の電話がすべて十五時~十八時の間に来ている。受け子の若者が二十時までにカードと通帳を引き取りにきて、即日現金を引き出しているのも同じ。そして被害者は二十三区内に散らばっているが、表を見ればこの鳥居坂近辺から同心円状に被害が広がっているようにも見える」

巧は言われるままに紙の資料を繰る。統計なのである程度ばらつきがでるのが普通だが、誉の言う通り、同じ犯行グループによるものと思われるものは際立って見える。

「御堂さん、それじゃ」
「電話がかかってくる時間帯と、受け子の少年があまりに若いという証言から、学生グループである可能性を考えていた。今回の情報をもらったときに、合致しているかもしれないと思ってな」

世間話程度の相談だった。しかも、誉は聞き流しているようにも見えた。
そこまで考えていたとは驚きだ。
「でも、待ってください、御堂さん。俺たちの仕事はあくまで防止策ですよね」

巧は確認するように言う。犯罪抑止係は捜査をしない。特殊詐欺がいざ発生してしまえば、捜査をするのは鳥居坂署刑事課の知能犯係になる。犯罪抑止係の仕事はあくまで防犯を呼びかけるだけなのだ。

「疑わしいという段階では、知能犯係も捜査できない。これが警察システムの安全さであり、融通の利かないところだな」

誉が肩をすくめて、嘆息する。

「だから、私たちで動く。なに、集まっている少年たちの身元を確認し、リストを作っておくだけだ。門外秘のリストで証拠としては扱えないが、生安の少年係と、刑事の知能犯係には流してやってもいい。知能犯の連中が真面目に捜査するなら、特殊詐欺グループがひとつ検挙できるかもしれないな」

なるほどと巧は納得した。
誉の言動行動がおおいに気に入らない刑事たちに、恩を売っておくのが今回の仕事の意味らしい。
俄然やる気がでてきた。いつも不当に馬鹿にされている犯罪抑止係が一目をおかれるなら嬉しいことだ。

「御堂さん! 俺、頑張ります! 刑事課のやつらをあっと言わせてやりましょう!」
「事件性がなかった場合は、また遊んでいると揶揄されるがな」
警察の仕事は事件ありきだ。未然に防ぐということは仕事に当たらない。
しかし巧は思った。犯罪の気配を嗅ぎ取り、調査するなら、これこそ『犯罪抑止係』にふさわしい仕事ではないか。目を輝かせて尋ねる。

「それでは、今日はここから張り込みですね!」

意気揚々とした言葉に、誉がくいっと後部座席を指差した。

「階、おまえの仕事はまずアレの設置だ」

巧が運転席からそろりと振り返ると、そこには段ボールいっぱいの監視カメラが置かれてあった。ばさりと地図も手渡される。

「私が指定した場所すべてに九十分以内に設置しろ。民家だ。事前に断りは入れてあるが、必ず住民に声をかけろ。目立つな。そして、角度を考えて設置しろ。一応、設置位置は指定はしてあるが」
「俺ひとりですか……?」

おそるおそる尋ねると、誉は心底呆れたように答えた。

「当然だ。大がかりに動いて目立てない。脚立はあるぞ」

脚立は大事だが、人手がひとりとは……。愕然とする巧に、誉がジャンパーを放り投げてくる。カモフラージュ用だろうか、背中にどこぞの社名の入った代物だ。業者を装って取り付けるのだ。
カメラはどう見ても三十台くらいあり、巧は上司の横暴に泣きそうな気持ちになった。
南麻布の目的地のマンションはごく普通の鉄筋の作りで、建造されたのは昭和の時代だろう。外壁などは直してあるようだが、全体の雰囲気が古めかしい。この辺りは元々こういった古いマンションが多い。
マンションのエントランスから見える位置に陣取れば、確実に出入りする人間がわかるはずだ。しかし出入りする側からもこちらが見えてしまう。
そこで、マンションの裏手のコインパーキングのひとつを借り、車の中から張り込むことにした。
エントランスに入る人間は概ねわかるし、コインパーキングは路地に入ったところにあるため、車にずっと乗っていても目立たない。当然、監視カメラもマンション前の民家の目立たぬ位置に設置させてもらってある。

午後十五時半、張り込みを始めてすぐに、高校の制服を着た男子がマンションに入っていくのが見えた。
早速だ。しかし、まだ該当の少年たちかはわからない。
幼い雰囲気の残る少年である。助手席にいる誉がためらいなくスマホで写真を撮った。

「いいんですか? 撮っちゃって」

勝手に撮影した写真は証拠には使えない。誉は虫でも見るかのように、巧を見た。

「門外秘の資料だと言っているだろう。社内用だと。それとも、おまえはひと目見てすべての人間の顔を覚えられるのか? 私は無理だが、おまえができるというなら、ぜひやってもらいたいものだ」
「すみません。覚えられないです。すみません」

そんなにきつく言わなくてもと思いつつ、反射的に謝ってしまう。
一緒に仕事をしてまだひと月半ほどだが、御堂誉にはどうやっても強く出られない巧だ。
それから夜まで、住人も含めて、出入りする人間はすべて写真に収めた。
チェックしてみると、確かに何人もの若い男がマンションに入っていく。制服の少年もいたが、多くは私服だ。
ざっと十人くらいの若者が十七時くらいまでの間に入っていった。その後、数人同じ顔触れで出入りがあり、二十時頃までには全員がマンションを後にした。念のため、二十二時まで張り込んだが、誰も戻ってこない。
マンションの住人ではないのだろう。やはりなんらかの目的で、このマンションに集まっている。
なお、張り込みはほぼ巧が行い、誉は助手席でずっと仕事をしていた。巧がやるべき企画書は、明日の午前まで猶予をもらったものの、できる時間はこの張り込み後か明日の早朝だ。

(たぶん、しばらく張り込みが続くよな)

巧の予想は当たり、その日から巧は車での張り込みを午後いっぱい担当することとなった。
誉が同行したのは最初の三日だけ。そこからはずっと巧ひとりである。
見張るだけの仕事はきつい。これならオフィスで企画書を作っていたり、ビラ配りをしていた方が建設的なようにも思えてくるが、張り込みは憧れの刑事の仕事の一端でもある。
少し刑事に近づけたような気がする。そんな想いが巧を支えていた。