前のページを表示する
「御堂、階、お疲れ」
陣馬がひと言だけ声をかけ、誉が頷く。
巧は頭を下げ、乗用車に戻っていく陣馬を見送った。雪緒を乗せ、パトカーは走り去っていく。
「御堂さん」
最後、雪緒に対して見せた凶暴なまでの空気はすでにない。誉は空を仰ぎ、暑そうに額を拭っている。
「御堂さんはいつから、雪緒くんが犯人だとわかっていたんですか?」
「最初の最初。振り込め詐欺の主犯であることは察しがついていたけれど、殺人については、公園で遺体を見たときだ」
本当にスタートの瞬間からわかっていたのかと思うと背筋が寒くなる。ミステリー小説じゃあるまいし、あの時点で、友人のか弱い少年を思い浮かべる者がいるだろうか。
「深夜の公園に被害者を呼び出すには相当信頼されていないと無理だろう。争う物音がなかったこと、背中と首の傷から、油断したところを背後から襲撃したと想定した。そうなると、犯人は被害者より体格、腕力的に劣っている可能性が出てくる。凶器が被害者の私物であり、その場で奪ったのでなければ、事前に凶器を盗み出せる人間も限られてくる」
「泳がせて罠にかけるなんて」
犯人が誰であるか、巧も途中から見当はついていた。しかし、誉が最初から疑いを持って、陣馬と共謀して罠を張っていたことは少々驚いた。わざと捜査情報を漏らすようにしたのも、雪緒を誘導するためだったのだ。そのことに胸がざわつくような感覚を味わっている。
幸井雪緒は、確かに親友を殺していたが、十六歳の少年だったのだ。罠を仕掛け、完敗させ、精神的に叩きのめす必要はあったのだろうか。
「問題があるのか?」
「……いえ」
問題はない。しかし、どこかすっきりとしない。そして、淡々と事件を解決していった誉に一瞬見えた火のような感情を判じかねている。
「幸井雪緒は知らなかっただろうが、香西永太も彼といたかったのだと思う」
低い声で誉が言う。
「どういうことですか?」
「幸井雪緒は中学三年生時で、全国模試一位だ。IQは百六十。国内外の最高学府で学び、おそらくは彼の父親と同じ省庁官僚を目指すだろう。もしくは非凡な才能が花開けば、特定の分野のスペシャリストになれる逸材だ。最初こそ競っていた香西永太は、いつしか自分が幸井雪緒と肩を並べ、同じ環境に身を置ける想像ができなくなっていた」
「だから、雪緒くんを自分と同等に引きずり降ろそうと特殊詐欺を始めたっていうんですか?」
「おそらくな。ふたりそろってCrackzの幹部になるつもりだった。そうすればずっと一緒に同じものを見ていられる。香西永太は幸井雪緒を馬鹿みたいに信頼していたんだよ、最後まで」
そのことを雪緒が知っていたら、こんな事件は起こらなかっただろうか。いや、ふたりの失敗は、友情を保つために犯罪に手を染めたことだ。
「同じ秘密を共有しても、同じ環境に身を置いても壊れるものは壊れる。彼らに必要だったのは、道を分かつ覚悟だったんだ。離れても自分たちの友情と思い出は変わらないと、信じるべきだった。それだけだ」
誉の言葉は冷たくは響かない。ただ、巧の抱えるやるせなさと同種のものが、その横顔には宿っていた。
巧は額の汗を拭い、うんと伸びをした。
「御堂さん、ひとまずお疲れ様でした! ラーメン食べて帰りませんか?」
「ああ、ものすごく腹が減った」
「冷やし中華、始まったみたいですよ、向来」
「それはいいな」
誉は首をぱきっと鳴らし、背筋を伸ばした。あの炎のような感情の揺らぎも、切なくなるような表情も、すでに彼女からはかき消えている。いつもの御堂誉だ。そのことに安心したような気持ちになった。
「ところで、階、今後私とおまえは署内からも捜査一課からも相当にらまれるから覚悟しておけ」
「え! あ、いや、そんな気はしてましたけど」
なにしろ、ここ二日、誉の指導のもと、ありとあらゆる裏付け捜査に奔走してきた。詐欺グループの少年たちに幸井雪緒の顔を確認しに行ったときは鳥居坂署の刑事課とかち合っているし、銀行や雪緒宅周辺の防犯カメラのチェック、帝旺学院内の学生カードデータ照合などは、一課より先に依頼をしてしまった。被害者宅の二度にわたる指紋検出くらいは陣馬がかばってくれるだろうが、他は相当なバッシングが予想される。捜査権限のない犯罪抑止係が、出しゃばって犯人検挙に動いていたのだから。
「気が重いです……」
「まあ、頑張れ」
「御堂さんも怒られるんじゃないんですか?」
「言わせておけばいいからな。あまり関係ない」
ふたりは馴染みの中華料理店に向かい、ぶらぶらと歩きだした。太陽は重々しく暑く、巧の頬を汗が伝った。誉がメガネを取り、ハンカチで無造作に顔を拭いていた。
「チャーハンは自分で作れた方がいいと思いますよ」
「不要だ。冷凍チャーハンのクオリティを知らないのか」
「いや、うまいですけどね、冷凍。でも御堂さん、食べっぱなしで食器洗わないじゃないですか。皿洗うのもフライパン洗うのも一緒ですよ」
「最近は冷凍パックのビニールから直接食べるという技を編み出した」
「無駄な努力しないでください。チャーハン程度なら自分でも美味しく作れますから」
麻布十番のスーパーで買い物をする巧と誉の会話だ。スーツ姿の若い男女がひとつの買い物カゴを手に並んで買い物をしている。その光景だけ見ればカップルの買い物風景だ。
しかし、ふたりの間に流れる上下関係は、間近で数分会話を聞いていればすぐにわかることだろう。
「おい、卵を入れるな。使いきれないからいらない。持ち帰る前に全部割るぞ、私は」
「普通に持って歩いたら割れませんよ。卵なんて、御堂さんの好きなカップラーメンにひとつ割り入れればいいんです。そしたら、何回かで終わりですから。チャーハンは卵と油が命なんです。絶対買います」
「階の主義主張はどうでもいい。それなら、チャーシューとネギも入れろ」
誉の希望というより命令のもと、巧はチャーシューのかたまりをカゴに入れる。
どうしても大盛のチャーハンが食べたい誉が、巧に作成を命じたのが始まりである。さすがに何度も上司の家に行くのは憚られるので、今日は署の上にある独身寮の共同炊事場で調理する予定だ。匂いを嗅ぎつけてくる寮員もいそうなので、五合炊きの炊飯器いっぱいに米を炊いて買い出しに来ている。米以外の材料費は誉持ちなので、残った食材は持ち帰ってもらう予定なのだが、自炊をまったくしない彼女が腐らせてしまわないように、買うものは選ばないといけない。
「ええと、その、独身寮は寮員しか入れないんですが、上司が入るのは問題ないと思います。御堂さん、前入ってるし。俺が簡単なチャーハンの作り方をご教授しますから、覚えて家で作ってみてくださいね」
「面倒くさい。そういえば、ムサシに小松菜とオクラを買うんだった。カゴに入れろ」
提案を一蹴し、自分勝手に野菜コーナーに戻ろうとする誉に巧はため息をつく。いつものことだが。
署に戻り、上階の寮に向かうと米は無事炊けていた。
誰でも通りかかる位置に炊事場があるので、米の炊ける香りがし、巧が調理を始めれば、独身寮の住人が室内を覗く。しかし、ダイニングテーブルに腕組みした御堂誉がいるので、誰もがさっと消えてしまう。なぜ、独身寮に鳥居坂署の有名人がいるのかわからないのだろう。この調子では、米は五合炊かなくてもよかったかもしれない。
「腹が減っている。たくさん食べたい」
「わかりました。フライパンの限界量で作りますから。っていうか、こっち来て見てくださいよ。お教えしますから」
「ここからで見える。あとは、材料と作り方をメモして渡せ」
「全然覚える気ないじゃないですか」
文句を言いながらも、巧は材料を刻む。誉は椅子に腰かけたっきりだ。絶対に見ていない。
「はい、油を引いて溶き卵を入れますからね。ここでご飯を用意しておかなきゃ駄目なんですよ」
仕方ないので、大きな声で説明しながら油を熱し卵を落とした。
ここからはすべて早回しだ。フライパンを揺すりながら炊き立ての米を入れる。
「卵が固まってしまう前に米と混ぜて炒めてしまうんです。聞いてますか」
「うるさい。聞こえている」
ちらりと背後を見ると、誉はあくびをしていた。やはり絶対覚える気がない。
先週、鳥居坂署管内で起こった特殊詐欺と高校生殺人事件は、主犯の少年・幸井雪緒の逮捕で幕を閉じた。自宅からは証拠のPCと被害者のカード類が見つかり、自供の信憑性も高く、幸井雪緒は逮捕起訴された。被害者の香西永太も、特殊詐欺の主犯として被疑者死亡のまま送検されている。
本件のスピード解決により、捜査一課では責任者の村中警部をはじめ、担当捜査官は皆おおいに評価された。鳥居坂署も未成年特殊詐欺グループ検挙、Crackz代表・梶本を風営法違反で在宅起訴と功績は大きかった。クラブ・サラスバティは一部で従業員による接待が行われていたそうで、立ち入り検査時にこのことが判明した。この先、詐欺グループからの金銭の授受についても調べが進む予定だ。
しかし、本件の功労者である犯罪抑止係は、徹底的に責められた。一課からは捜査妨害とそしりを受け、村中警部は犯罪抑止係のオフィスで小一時間怒鳴り散らしてから本庁に撤収していった。本庁刑事部からは正式に鳥居坂署に苦情申し立てがきた。捜査を混乱させたという理由で。
鳥居坂署刑事課の面々も生活安全課の面々も、裏で動いていた誉と巧には怒り心頭といった様子で、呼び出されて事情聴取をされることそれぞれ数回。『犯罪抑止係が事件を解決した』ではなく『犯罪抑止係が出しゃばって捜査妨害をした』という不名誉な噂が鳥居坂署内を駆け巡り、あれから一週間以上経つが犯罪抑止係は針の筵(むしろ)状態だ。片脚を突っ込んでいた井草と古嶋も同様なのだが、彼らはあまり人目を気にしないので『勘弁してよ~』という井草の文句程度で済んだ。
巧にとって、この事態は非常に凹むものだった。本件には最初の最初から関わっていたし、最後の二日は裏付け捜査のため、ふたりで何時間も防犯カメラを見つめ、方々手回しして証拠を集めた結果、捜査一課より先に結論にたどりついたのだ。これほど頑張ったのに、署内の誰も認めてくれないどころかバッシングの嵐。どれほどメンタルが丈夫な巧でも、心が折れそうになる。
なにより、憧れの捜査一課がまた遠のいた。どころか道が閉ざされたと言ってもいいかもしれない。鳥居坂署にいるうちは刑事課には呼んでもらえないだろうし、本件を知っている人間が多い以上は捜査一課に呼ばれる日はこないだろう。
『そうでもない。あの御堂誉の下で、補佐をしたということは評価に値する』
陣馬遼がフォローなのか言ってくれた。先日後片付けに鳥居坂署を訪れ、大西とともにオフィスに寄っての言葉だ。
『御堂は人格が残念だが、刑事としては一流だ。それを評価し、信頼している者は捜査一課にもそれ以外にもいる。今回、階は、御堂の圧力下でよくやった』
『私の人格が残念とはどういうことだ。階に圧力などかけていないぞ』
このやりとりが誉の前なので、本人が聞き捨てならない点に突っ込みを入れてくる。陣馬は『え?』という顔で誉を見返すのだから、おそらく意識して罵倒していない。やはりエース刑事は少々天然気味だ。
『階、これで刑事部に名前を売れたんだよ! プラス思考で行こうぜ!』
明るく元気な同期・大西に肩を抱かれ、情けないような嬉しいような苦笑いをしてしまう巧である。そうかもしれないが、悪い意味で売れても困るのだ。
『御堂』
陣馬が言った。
『今回は一課に手柄を譲ってくれありがとう』
『おまえたちじゃないと処理できないからな。それに陣馬と大西には協力してもらった』
雪緒の前で証拠をつきつけ自供を促したのは誉たちだが、実際の逮捕送致は捜査一課の仕事となった。誉と巧がそろえた証拠は丸々一課に渡している。
『御堂警部補が動いたから解決したことは公になっていませんが、多くの人間が知っています』
大西も誇らしげに付け加える。
『御堂、今は耐えろ』
陣馬が告げた。元相棒をまっすぐに見つめて。
『いずれ、またおまえが一課に戻るチャンスはやってくる。おまえを疎ましく思う者は多いが、刑事部はいずれ御堂誉の能力に頼らざるを得なくなる』
『……別に私は戻らなくてもいいと思ってる』
誉がぼそりと呟いたとき、表情が曇ったのを巧は見ていた。
『それが本心なら、俺はこんなことは言いに来ない』
『私はおまえらとは違う。事件を捜査して解決するのが警察官のすべてとは思っていない。私は、犯罪抑止係でいい』
誉が感情を差し挟まない口調で言い、陣馬もそれ以上口を開かなかった。
大西を伴い出ていく陣馬を見て、巧はまた胸のざわつきを感じた。御堂誉について、自分には知らないなにかを彼は知っているのだ。しかし、それを問いただすことが巧にはできなかった。はたして〝誉の秘密〟のようなものが実在するのかすら曖昧だったからだ。こんなことを気にしている自分もまた少々変だとは思う。
そして、本日巧は微妙な気持ちを引きずったまま、上司にチャーハンを作っている。
「できました!」
大声を張り、誉の前に大盛のチャーハンを置く。
フライパンの限界に挑戦した結果、炊飯器の三分の二が消費された大ボリュームだ。巧は自身の前にも誉の半分くらいのサイズのチャーハンを置いた。
「うまそうだな! ん? 階、おまえの分、量が少なくないか?」
「いや、作ってたらあんまり腹が減ってないことに気づきました」
本当は事件後のやりきれない扱いや、陣馬と誉の会話が気になって、ここ数日食欲がなかった。メンタルは弱くない方だとは思っていたが、案外繊細なところがあるのだと実感する。
「馬鹿か、おまえは」
誉がため息をつき、自分の皿からスプーンでチャーハンを取り、どさどさと巧の皿に移し始める。
「御堂さん、お腹空いてるんですよね。俺はいいんで食べてください」
「うるさい。しっかり食べろ。食べることも鍛練だ。習わなかったか?」
大食の御堂誉が食べ物を分けてくれるとは、なかなかレアケースだ。作ったのは巧本人とはいえ。
「食べて働け。命令だ」
同じような量に均されたふたつの皿。誉は両手を合わせていただきますと呟き、猛然と食べ始めた。
「うん、うまい。とてもうまい。メシのセンスだけは階を評価する」
「あ、ありがとうございます。メシのセンスだけでも嬉しいです」
黙々と食べ進めながら、さりげなく誉が言った。
「今回のおまえはまあまあ役に立った」
「え」
誉の真摯な瞳が巧に向けられる。
「ありがとう」
それは、チャーハンの件ではなく、おそらくは事件についての言葉。誉の口から、真面目に御礼の言葉が出て、巧は狼狽した。
「いえ、もったいないお言葉です」
「まあ、食べろ」
黙々とチャーハンを食べ、誉は帰っていった。余った食材は小松菜とオクラ以外持ち帰らなかったので、明日の巧の食事になる予定だ。