「…リアン…兄さんにピアノ教わってたのか?」
「…うん」
リアンはスタルスから視線を外し、俯いて答えた。
「…そうか」
眉を痙攣させながらそう言うと、スタルスは食事の途中で勢い良く立ち上がった。そして、そのままリアンを睨み付けたまま、部屋から出て行ってしまった。
「…パパ…どうしたのかな?」
様子がおかしいスタルスを見て、ジュリエが呟いた。
「…さぁ」
ジェニファは静かな声で、そう答える。しかし、ジェニファには思い当たる事があった。
スタルスとジェニファは音楽学校で出会った。そこでスタルスは指揮を、ジェニファはピアノを学んだのだ。
二人がお互いの存在を知らない頃、スタルスはこの学校でピアノを専攻している生徒達を、毛嫌いしていた。
自分がなりたくてもなれなかったピアニストの夢を追い掛ける者達を、単純に妬んでいたのだろう。しかしたまたま居合わせた教室で、ジェニファのピアノ演奏を聴いた時、スタルスの頬には涙が伝わっていた。
ピアノを学ぶ者をどんなに嫌っても、本質ではピアノの音を愛していたのだ。
それを思い出させてくれたジェニファのピアノに、スタルスは夢中になった。そして、スタルスはピアノの音だけではなく、それを奏でるジェニファにも好意を抱くようになっていく。恋をした事のなかったスタルスは、自分の思いを一心にジェニファに伝え続けた。
その真剣な想いを受け入れたジェニファは、スタルスの恋人となったのだ。
付き合い初めてから暫くすると、スタルスはジェニファに、ピアニストになる夢を父親に捨てさせられた事を打ち明けた。そして兄のピアノの才能に、狂いそうな程に嫉妬している事を打ち明けたのだ。
その兄は、父親譲りのピアノの才能がありながら、ピアニストにならなかった。
その事を今でも恨んでいると、ジェニファに洩らした事もある。
フェルドが存在していたから、自分はピアニストになれなかった。スタルスは本気でそう思い、そのやり切れない思いをジェニファにぶつけた事もあった。
そんなひねくれた考えを持つスタルスを、ジェニファはほおっておけなかったのかもしれない。そして音楽学校を卒業した次の年、ジェニファはスタルスと結婚した。
それから二年後、二人の間にジュリエが生まれたのだ。
スタルスは自分の元にジュリエが生まれてきてくれた事を、心から神に感謝した。そして、この子だけには夢を諦めさせたくないと強く思ったのだ。
ジュリエが物心ついた時に、スタルスはジュリエに夢を聞いた。
ジュリエはスタルスの問いに、「ママみたいにピアノが弾きたい」と答えた。
その言葉を聞き、スタルスは涙が出る程喜んだのだ。
自分がなれなかったピアニストの夢を、ジュリエには叶えて欲しかった。
ピアノを弾くジェニファの横には、いつもジュリエがいた。そして自分から望んで、ジェニファにピアノを学ぶようになったのだ。
成長していくジュリエと共に、上達していくピアノの音。スタルスは神に跪き、感謝した。
ジュリエには、自分にはないピアノの才能があると思ったのだ。
この瞬間、スタルスの夢はジュリエが世界一のピアニストになる事に変わった。
リアンがスタルス家の家族となり、五日が経った。
リアンとジュリエは、いつものようにジェニファにピアノを習っている。
家に居たスタルスは、ジュリエのピアノを聴きに、三人がいる部屋を訪れた。そこで初めてリアンのピアノを聴いたのだ。
リアンの奏でるピアノの音は、かつて憎んでいたフェルドのピアノに似ていた。いや、似ているどころではない。スタルスは、まるでフェルドが弾いていると錯覚したのだ。
スタルスの目には、ピアノを弾くリアンの姿がフェルドと重なって見えている。そしてスタルスは、リアンの演奏の途中で何も言わずに部屋を出た。
誰もいない廊下。スタルスは自分の両手に嵌めている白い手袋を見詰める。フェルドに対する憎しみが、昨日の事のように甦ってきた。
その日の夜、夫婦二人きりになる寝室。スタルスはジェニファに、リアンにピアノを弾かせるなと告げた。
ジェニファは困惑した。しかし、ジェニファには何故スタルスがそのような事を言うのか、理由を分かっていた。
スタルスはフェルドのピアノの才能を、今も尚憎んでいるからだ。
リアンのピアノは、フェルドのピアノそのもの。それは間近で聴いているジェニファが、一番分かっている事だ。
しかし、ジェニファはスタルスの願いを拒んだ。
リアンにピアノを教える事は、死んでいったマドルスのたっての願い。
それだけではない。このまま才能溢れるリアンのピアノを廃れさせる事は、ピアノを愛する者としてできなかったのだ。それ故に、ジェニファはリアンにピアノを教え続けた。
それをスタルスが許すはずがない。
ジェニファのその懇願する思いも、時に罵倒し、スタルスは頑なに受け入れなかった。そして、言う事を聞かないジェニファに対し、次第に暴力を振るうようになってしまったのだ。
それは直ぐに、リアンとジュリエの知るところとなる。
自分がピアノを弾く事で争っている二人に気付いたリアンは、ジェニファにピアノを辞めると告げた。しかしジェニファは優しく微笑み、拒むリアンにピアノを教え続けた。
何の罪もないリアンにピアノを弾かせる事は、至極当たり前な事。愛する夫との絆が壊れようとも、その考えは変わらない。
ジェニファはスタルスに毎日罵倒されながらも、リアンには何の罪もないという事を訴え続けた。
そんな生活が続く中、リアンはこの家から出て行く事を決めた。
自分がいなくなれば、争いが無くなると思ったのだ。そして両手に持てるだけの荷物を鞄に詰め、夜が開ける前に、リアンは誰にも気付かれないようにスタルス家を後にした。
歩いて駅に辿り着いたリアンは、ホームに置かれたベンチに腰を降ろす。
始発列車がくるまでにはまだ早い。そして、リアンはこれからの事を考えた。しかし、考えても身寄りのないリアンには、この先どうすればいいのか答えがでない。
「…ジャンは元気かな」
思い出さない日がないジャンの顔が浮かんだ。
スタルス家に来てからは、手紙を出す事はなくなってしまったが、行く宛のないリアンは、ジャンに会いに行く事を決めた。
リアンは揺れる列車の中から、移り行く景色を眺める。
しかし、遠くを見るような目をして見ているリアンの頭には、視界に広がる美しい自然とは別に、ジャンと暮らした楽しかった懐かしの酒場が浮かんでいる。
リアンが様々な思いを抱き、車窓の景色を眺めながら列車に揺られていると、懐かしの駅へと到着した。この駅のホームに立つのは、マドルスと旅立った日以来だ。
リアンは懐かしむ気持ちで、夕焼けに染まるホームからの景色を眺めた。
改札を出たリアンは、真っ先にジャンの酒場がある商店街へと向かう。しかし商店街を歩いていても、見知った顔に誰一人出会わなかった。
それもそのはずだ。
商店街に入ってからは、見知った人は疎か、人の姿さえ見ていないのだ。
商店街は道を挟むようにして店が連なっている。しかしその多くが、店のシャッターが閉められている。まだ店を閉めるには、時間は早過ぎる。きっと元から営業していないのだろう。
リアンが最後に見たこの商店街の風景より、明らかに寂れてしまっているようだ。
リアンの足がぴたりと止まった。
目の前に佇む古びた酒場の看板を見上げ、リアンは物思いに耽る。そしてリアンは、酒場のドアの前に歩み寄った。
木製のドアは、昔よりも古びて見える。ただ握り、引くだけ。そんな簡単な動作で開くドアを、リアンは躊躇したまま触れられずにいる。
マドルスの家で暮らす間、ジャンに出した手紙は、一度も返事がなかった。
ジャンの最後の言葉が、頭を過ぎる。
「お前は、邪魔なんだ」
病室で聞いたこの時の言葉は、自分を思い遣る為の優しい嘘だと分かっている。しかし、酒場のドアの前でこのジャンの言葉が頭を過ぎり、リアンは店に入る事を躊躇っているのだ。
視線はドアの隣の窓に移った。中から青いカーテンが閉められている窓からは、店の様子は分からない。
視線が再びドアへと移る。ただじっとドアノブを見詰め、リアンは時を止められたように動かなくなった。しかし、不意にリアンの右手が動いた。
僅かに震えるその手は、見詰めるドアノブへと近付く。そして、辿り着いた右手がドアノブを掴んだ。
溜め息を一つ。深く息を吐いたリアンは、ドアノブを回した。しかし、リアンの決意とは裏腹に、鍵の掛けられたドアは開くことはなかった。
今日は日曜日ではない。ジャンは定休日である日曜日以外は、どんなに体調の優れない日でも、必ず店を開けていた。
力無くドアノブを離したリアンは、再び視線を窓へと移す。
先程は気付かなかったが、店を開けているのならば、カーテンは開かれている筈だ。
あの日、店を閉めて旅に出ると言ったジャンの言葉が頭を駆け巡る。
本当にジャンは旅に出てしまったのかもしれない。そう考えると、手紙の返事が来なかったのも、辻褄が合う。
リアンの中で、それが答えとなった。
空は夕暮れから夜へと変わろうとしている。
途方に暮れたリアンは、ドアを背にしゃがみ込んだ。
もう二度とジャンに会えない気がした。
空の色が移り変わるのを、ただ呆然と眺めていると、頭上から声が聞こえてきた。
「…リアンじゃないか?」
リアンは声のする方へと視線を向けた。
その視線の先には、数年ぶりに見る酒場の常連客のジョアンが立っていた。
「…いや…でかくなったな!」
ジョアンはリアンに近付き、うっすらと涙を浮かべると、昔のようにリアンの頭を優しく撫でた。
「おじさん…おじさん元気だった?」
リアンは懐かしい顔を見れて、心の暗がりが少しずつ晴れていった。
「俺はいつでも元気だぞ!」
ジョアンは服の裾を捲り、力こぶを作って、にっこりと笑いながらリアンに見せ付けた。
「おじさん、元気そうだね」
「あぁ、元気だぞ…リアン、店を見に来たのか?」
「…ジャンに会いに来たんだ」
リアンは潤んだ瞳でそう言うと、ジョアンから視線を外した。
「…お前知らないのか?」
そう言ったジョアンは、とても悲しそうな表情を浮かべている。
「えっ?…何が?」
その悲しげな表情に、リアンは心が張り裂けそうな程、不安になった。
「…ジャンは……亡くなったよ」
「…えっ!?……何て言ったの?」
リアンは、聞き間違えであって欲しいと願った。
「…ジャンは崖から落ちて…二年前に亡くなったんだ」
ジョアンは悲しそうに呟いた。
「……嘘だよね?」
リアンは嘘であって欲しいと願った。
「…本当だよ」
ジョアンはリアンを抱き締めながら呟いた。
「…………」
言葉を失ったリアンの思考は、受け入れられない現実から逃避するように、止まってしまった。
ジョアンは優しくリアンを包み込んだまま、語り始めた。
「…二年前に山に登ったジャンは、崖から落ちて亡くなったんだ…ジャンの墓はリアンの両親の墓の隣に立ってるよ」
ジョアンの温もりが、これが現実である事を思い出させた。
リアンはジョアンの言葉を聞きながら、楽しかったジャンとの日々を思い出している。
その楽しかった日々を共に過ごしたジャンに、二度と会う事が出来ないと気付くと、リアンの瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。
余程、受け入れ難い事実なのだろう。
リアンは咽び泣き、体を震わせた。
長い時間、ジョアンに抱かれたまま泣いていたリアンは、ようやく顔を上げジョアンから離れた。
「…おじさん…ありがとう」
涙を拭きながら、リアンはお礼を言った。
「…あぁ」
ジョアンの瞳からも、涙が流れている。
「…お墓に行ってみるね」
リアンはそう言い残し、重くなった足を無理矢理に動かした。
「リアン、一緒に行くか?」
ジョアンは歩き出したリアンの腕を掴み、呼び止めた。
「大丈夫、一人で行けるよ」
強がりではない。
何故か分からないが、一人で墓に行きたいと思ったのだ。
「今日は何処に泊まるんだ?あのじいちゃんと来たのか?」
「…うん、駅で待ってるんだ。墓に寄ったら一緒に帰る…じゃあ、行くね」