「…リアン」
マドルスがリアンを呼んだ。
リアンはマドルスの元へ駆け寄った。
マドルスはベッドから体を起こし、リアンの頭を優しく撫でる。
「…リアン…お前には言ってなかったが、フェルドには弟がいる…そこにいるスタルスだ…そしてスタルスの妻の…ジェニファと娘の…ジュリエだ」
マドルスはスタルス達に優しげな視線を送りながら、リアンに告げた。
リアンはスタルス達を見て、未だ戸惑っている様子だ。
初めて親戚がいると聞かされたこともそうだが、特にスタルスの自分を睨み付けている目を見て、困惑しているのだ。
「…はじめまして」
リアンはスタルス達に頭を下げた。
「はじめまして」
ジェニファとジュリエは柔やかに挨拶を返した。しかし、スタルスだけはまだリアンを睨み付けている。
「…リアン…スタルス達に話があるから…自分の部屋で待ってて…くれるか」
マドルスは苦しそうにして、言葉を詰まらせながら言った。
「…うん」
リアンは、マドルスに言われた通りに自分の部屋へと向かった。
リアンが出て行くと、部屋の中は静まり返った。しかし、その沈黙を破るようにマドルスは口を開いた。
「…フェルドはもう…この世にはいない」
マドルスの言葉を聞いて、スタルス達は驚いている様子だ。
ただスタルスだけは、悲しむ二人を余所に、どこか嬉しそうな表情に変わっている。
「…兄さん、死んだんだ」
スタルスは、どこか嬉しそうに言った。
「…あぁ…リアンが小さい頃にな…リアンは母親も幼い頃に亡くしていて、今までずっと…フェルドの親友の方が…育ててくれてたんだ」
そう言ったマドルスは、どこか苦しそうだ。
「…まぁ」
ジェニファとジュリエは、悲しそうにマドルスの話を聞いている。
「…わしが死んだら…リアンを育ててくれんか?」
マドルスは、許しを請うような視線を、スタルスへと向けている。
「…兄さんの親友の方に返せばいいじゃないですか」
スタルスは冷たい視線をぶつけ、物を返すような軽々とした言葉を吐いた。
「…その親友の方も、お亡くなりになった」
マドルスの苦しそうな表情の中に、涙が混じり始めた。
「…困りましたね、育てると言われましても」
冷たい視線を送り続けているスタルスは、とても困っているようには見えない。
マドルスは両手を付いて、ベッドから降りようとした。しかし、マドルスはベッドから転がり落ち、床に体を叩き付けてしまった。
「お義父様!」
ジェニファとジュリエは、マドルスに駆け寄った。
「…ありがとう」
マドルスは、体を支えてくれているジェニファとジュリエにお礼を言った。そして二人に支えられながら、スタルスの前で跪いた。
「…この通りだ…リアンにはもう…身内は…お前しかいないんだ」
マドルスは支える二人の体を押し退け、頭を床に付け、スタルスの前で土下座をした。
スタルスはその姿を見ながら、口角を歪めた。
そんなスタルスの口から、微かに笑い声が聞こえてくる。
「あなた!」
ジェニファは非難するような視線を、スタルスへと向けた。
「…まぁいいでしょう…父さんから頼み事されるのは初めてですからね」
スタルスはマドルスを見下ろしながら言った。
「ありがとう」
マドルスはスタルスの足にしがみつき、心からお礼を言った。
自分の足に纏わり付く父親を見下ろし、スタルスはたまらずに笑い声を上げる。
ジェニファとジュリエは、その光景を困惑した表情で見詰めている。
「…もう1つ…頼みがある」
「…なんですか?」
スタルスは足にしがみつくマドルスを、見下ろしながら尋ねた。
「…リアンに…ピアノを教えてあげてくれんか?」
「…ピアノ!?」
スタルスは声を荒げ、足にしがみつくマドルスを振り払った。
マドルスは床に体を打ち付けてしまった。
「あなた!」
たまらずジェニファが叫んだ。
「ピアノですか!?…あなたが、私にピアノを教えろと言うんですか!?」
眉間に浮き彫りになる皺をより深くしながら、スタルスは叫んだ。
「…お願いだ…この通りだ」
マドルスは体を起こし、床に何度も頭を叩き付け土下座をした。
マドルスの額は、見る間に血で染まっていく。
ジェニファとジュリエは困惑して、黙ってマドルスの行動を見ている。
「…それはできない!」
スタルスは怒鳴り声をあげた。
「…あなた、私からもお願いします」
ジェニファはそう言うと、マドルスと一緒に土下座をして頼んだ。
「…パパ、お願い」
ジュリエも涙を浮かべ、スタルスを見詰めている。
「…まぁいいでしょう…父さんの頼みじゃなくて、二人の頼みを聞くんですからね」
スタルスはそう言うと、窓辺に近付き、窓に写る自分の怒りに歪む顔を見詰めた。
「…ありがとう」
マドルスはスタルスの背中を見詰め、心から感謝した。
スタルスは幼い頃、父親のマドルスのようなピアニストになる事を夢見ていた。
その頃のマドルスはピアノ演奏をする為、世界中を飛び回っていた。
普段あまり家にいないマドルスが、家にいる時だけは、幼いスタルスが甘えたかったのは仕方がない事だろう。しかしマドルスには、まるで構ってもらえなかった。スタルスはフェルドに付きっ切りでピアノを教えていたのだ。
スタルスもピアノをマドルスに習いたかった。しかし、マドルスはスタルスにピアノを教える事はなかった。
スタルスとフェルドは、年齢が二歳離れている。
その頃のスタルスの歳の時には、フェルドのピアノの才能は、早々と開花していた。しかし、スタルスはフェルドに比べ、遥かにピアノの才能が劣っている。スタルスは、そう感じていた。
そう感じたからこそ、フェルドにしかピアノを教えなかったのだ。
スタルスは専属のピアノ教師にピアノをずっと習っていた。そして小学校に上がる頃には、フェルドに対して憎悪にも近い嫉妬心を抱き始めるようになった。
それを感じながらも、フェルドはスタルスを何かと気にかけていた。
二人は幼い頃に母親を亡くしている。
父親は留守がちで、周りの世話をしてくれる執事はいたが、フェルドは弟を気にかけていたのだ。しかし、スタルスはそれを煙たがっていた。
スタルスは学校以外の時間は自分の部屋に引き籠もり、睡眠時間を削ってまでもピアノを弾き続けた。
フェルドを追い越して、マドルスに認めてもらいたかったのだろう。しかし、その血の滲むような努力も実らなかった。
スタルスが十五才の時、部屋でピアノを弾いていると、それは起きた。
家に居たマドルスが、スタルスの部屋の前を通り掛かったのだ。
部屋から漏れ聞こえてくるピアノのメロディー。
マドルスは部屋の前で足を止めると、スタルスのピアノの音に耳を傾ける。そして暫くすると、スタルスの部屋へと入って行った。
スタルスは入ってきた人物に驚き、ピアノを弾く手を止めた。
自分の部屋にマドルスが入った事は、スタルスの記憶には一度もない。
ノックも無しに入ってきた予期せぬ人物の訪問に、戸惑いよりも喜びがスタルスの体を支配していく。そしてスタルスは、マドルスに聴かせるように、心を込めて再びピアノを弾き始めた。
『父さん聴いて…こんなに上達したんだよ』
スタルスはそんな思いを込め、目を閉じピアノを弾いている。しかし、マドルスは直ぐにピアニストらしからぬ行動を取り始めた。
演奏を遮るように、喋りだしたのである。
「…お前は明日から、ピアノのレッスンをしなくていい」
スタルスの軽やかに動いていた指先が、ぴたりと止まった。
「…なんで?…なんでだよ!?」
わなわなと震えるスタルスは、それを確かめるように叫んだ。
「お前には才能がない」
そう言ったマドルスは、冷たい目をしている。
スタルスは、ピアノの鍵盤を叩き付けた。
部屋の中に、メロディーにならないピアノの音が響き渡った。
「明日からバイオリンのレッスンでも始めるか?…いや、お前には楽器を演奏する才能がないんだな…指揮者のレッスンを始めるんだ」
マドルスはそう言い残し、直ぐに部屋から出て行った。
怒り、悲しみ、悔しさ。
様々な感情に体を支配されていくスタルスは、豆ができ、それが潰れ、固くなるまで練習した指先を見詰める。
誰よりも認めてもらいたい者に、努力した全てを否定された。
スタルスの心は、その瞬間から壊れ始めた。
それからのスタルスは、ピアノに触れなかった。そして、父親の言い付け通りに指揮者のレッスンを開始したのだ。しかし、時たま微かに聞こえてくるフェルドのピアノの音を聞く度、スタルスは発狂しそうになっていた。
自分は認めてもらえなかったピアノの才能が、フェルドにはある。
その事実に、スタルスの心は大きくねじ曲がってしまったのだ。そして、フェルドの事を兄としてではなく、歪んだ感情で見るようになってしまった。
フェルドが家を出て行ってからも、スタルスはピアノに触れる事はなかった。
ただマドルスの言い付け通りに、指揮者としてのレッスンを、一生懸命励んでいたのだ。
自分の才能を認めてくれなかったという、恨み以上の気持ちを持ちながらも、スタルスは休む暇もなく、日々レッスンに明け暮れた。
全ては、自分の全てを否定したマドルスに、自分という存在を認めさせる為だけに。しかし、そんなスタルスの指揮者のレッスンを、マドルスは一度も見ることはなかった。
フェルドが出て行ってからのマドルスは、家にいる間は、自分の部屋に篭もっていた。
スタルスには、まるで興味を示さなかったのだ。
スタルスはマドルスに認めてもらいたい一身で、タクトを振り続けた。しかし、マドルスはやはり、スタルスに興味をもたなかったようだ。
スタルスは二十五歳の時、マドルスの手を借りる事なく、自分だけの力で指揮者として初めて舞台に立った。しかしそんな門出の日さえ、我が子の初ステージをマドルスは見ようとはしなかった。
スタルスの初舞台は観客を沸かせた。
皮肉なものだ。スタルスには、指揮者としての才能があったようだ。そしてスタルスはその後、世界的に有名な指揮者へと変貌して行く。しかしマドルスは、未だ一度もスタルスの舞台を見たことがない。
スタルスはピアノを辞めてから今までずっと、白い手袋を付けている。
それはピアニストにとって手は命が故。
ピアニストになる夢を捨てさせられたマドルスに対する、せめてもの反抗心なのかもしれない。
マドルスの葬儀は、親族だけでしめやかに行われた。
リアンは棺の中で眠るマドルスを見て、涙が止まらなかった。
リアンに見守られながら死んでいったマドルスは、最後までジャンの死を言えないままこの世を去った。
最後の最後まで、リアンに嫌われる事を恐れたのだ。
『リアン、生まれてきてくれてありがとう』
この言葉を最後に、マドルスは息をひきとった。
葬儀が終わった。
葬儀を終えた次の日。
荷物を纏め終えたリアンの元に、スタルス家の遣いの者が訪れた。そしてリアンは、その者と共に、スタルス家へと向かった。
スタルス家に着いたリアンを出迎える者は、誰もいなかった。しかしそれは、意図的にやっているのではない。屋敷が広すぎる為、ジェニファもジュリエも、リアンが来た事に気付かなかったのだ。
「今日からこちらが、リアン様のお部屋になります」
執事は荷物を部屋に置きそう言うと、部屋から直ぐに出て行った。
一人残されたリアンは、部屋の中を見回す。
広さはマドルスの家にいた時の部屋と比べても、大差ない程、一人には十分過ぎる程広い。
部屋の中には、机やソファー、ベッドなどはあったが、ピアノはなかった。
リアンは荷物を床に置き、いかにもフカフカなベッドに腰掛けた。そしてマドルスの形見となった、首に掛けている銀色のネックレスを手に取り、何かを思うように眺めた。
あんなに流した涙は渇れることなく、流れ落ちていく。
暫くベッドに腰掛けて涙を流していると、執事が呼びに来た。
リアンは涙を洋服の裾で拭った。そして部屋を出ると、執事の後を静かに付いて行った。
執事が案内した部屋の中では、三人が長テーブルの前に座っていた。スタルスとジェニファとジュリエだ。
長テーブルの上には、食器やパンが並んでいる。そして、リアンは執事に案内された席に座った。
「…今日からお世話になります…よろしくお願いします」
リアンはスタルス達に向け、緊張した面持ちで頭を下げた。
「ごめんね出迎えられなくて。リアンはもう我が家の一員なんだから、本当の家族だと思って接してね」
ジェニファは、にこやかな笑顔を浮かべている。
「よろしくね」
リアンと同い年のジュリエは、恥ずかしそうに言った。
スタルスはリアンをちらりと見るだけで、返事はしなかった。
そして夕食が始まった。
リアンは食事をしていても、悲しみのせいであまり味を感じなかった。
ついこの間までマドルスと会話をしていた事を思い出し、自然と涙が込み上げてくる。
ぽとりと落ちた涙で、スープはしょっぱくなった。
「食事中に泣くな!」
泣き声を上げていた訳ではないが、頬に伝う涙を見て、スタルスは叱り付けた。