マドルスによるピアノのレッスンも、毎日行われている。
ピアノのレッスンは楽しいが、家庭教師の授業だけはリアンにとって苦痛の種だった。しかし、家庭教師のおかげで、学校の授業にもついて行けるようになっている。
そんな生活が三ヶ月続いた。
夕食を終えたリアンは、自室に戻り、前から出したかった、ジャンに宛てた手紙を書き始めた。
『ジャン。もう足の怪我よくなったかな。僕は新しい学校で友達がいっぱいできたよ。おじいちゃんにピアノ教えてもらってるんだ。楽譜も読めるようになったよ。ジャンに会いたいな。』
このような文章を、便箋五通に渡って書き綴った。
手紙を書き終えたリアンは、マドルスの部屋に向かった。
「おじいちゃん、封筒と切手ない?」
「…うん、どうしてだ?」
マドルスは不思議そうな顔で尋ねた。
「ジャンに手紙書いたんだ」
リアンは便箋を振り回しながら、嬉しそうにしている。
「…じいちゃんが出しといてやるよ」
一瞬、顔色を曇らせたマドルスはそう言うと、リアンに向け右手を差し伸ばした。
「うん!頼んだよ!」
その表情に気付かなかったリアンは、便箋を渡すと、嬉しそうに部屋に戻って行った。
一人きりになったマドルスは溜め息を付くと、テーブルの上にあるベルを鳴らし、執事を呼んだ。
「封筒と切手を持ってきてくれ」
執事が戻ってくる間、マドルスはいけないと知りながらも、リアンが書いた手紙を読んだ。
『ジャンに会いたいな…』
この一文を読んで、マドルスは困惑した。そして、マドルスはリアンから受け取った便箋を、自分の机の引き出しにしまってしまった。
マドルスは、リアンがジャンの所に戻ってしまうかもしれないと思ったのだ。その証拠に、顔をしわくちゃにして、頭を抱えている。
「持って参りました」
封筒と切手を持ってきた執事が戻ってきた。
「…もう、いらん」
マドルスは、ぽつりとそう呟いた。
朝になり、リアンはマドルスと共に車で学校に向かっている。
「おじいちゃん!手紙出しといてね!」
リアンはそう言うと、車から降り、校内に向かって今日も元気に駆けて行った。
マドルスは返事をする事なく、車窓からリアンの遠離る姿を見詰め、頭を抱えた。
それから数時間後。
マドルスはいつものように、運転手付きの車に乗り、リアンを迎えに行った。
帰りの車の中、リアンはマドルスに笑顔で尋ねた。
「手紙出しといてくれた?」
「…あぁ」
しばらくの沈黙の後、マドルスはそう答えた。
マドルスの額には、うっすらと汗が滲んでいる。その表情から見ても分かるように、マドルスは嘘を吐いているのだ。
リアンが書いた便箋は、マドルスの引き出しの中にあるまま。マドルスはどうしても手紙を出すことができなかったようだ。
リアンがジャンの所に行ってしまうのが怖かったのだろう。リアンを失うことが辛かったのだろう。そして、それを隠す為に吐いた嘘で、より罪悪感を深めて行った。
幸いな事に、一番嘘が見抜かれたくない相手であるリアンには、マドルスの変化を気付かれていない様子だ。
家に着いたリアンを、いつものように家庭教師の授業が待ち受けていた。
元から頭は悪くないリアンは、授業をそつなくこなしていく。そして授業が終わると、楽しみであるマドルスのピアノレッスンが始まった。
「お願いします」
リアンはいつものように、マドルスに挨拶をした。
数日前からリアンは、楽譜を見ながらピアノを弾く楽しみを、覚え始めていたのだ。楽譜を見ないで弾く方が心踊るものがあったが、楽譜を見ながらの演奏は、リアンにとって何かゲームをやっているような感覚だった。そのせいだろうか、楽譜を見ながら弾くピアノの音は、リアンらしくからぬ、どこか感情の込もっていない機械的なメロディーばかりだ。
「そこはもっと感情を込めろ!」
いつも優しいレッスンをするマドルスは、珍しくリアンを叱りつけた。
「……」
リアンは叱られたショックで、ピアノを弾く指を止めてしまった。
「なんで止めるんだ!」
またマドルスは叱った。
戸惑いながらも、リアンは涙を堪えてピアノを再び弾き始めた。
「違うそうじゃない!」
何度もマドルスは叱った。
そして、とうとうマドルスはリアンのピアノを弾く手を叩いてしまった。
「…もう、いいよ!」
リアンは泣きながら、部屋を飛び出した。
去り行くリアンの姿を見詰め、怒りに支配されていたマドルスの顔に、悲しみが訪れる。そして、しわくちゃな顔をして、頭を抱え跪いた。
「…ごめんな」
そうぽつりと呟いたマドルスの脳裏に、フェルドの昔の姿が浮かび上がる。
「なんで、そこで間違える!」
「お前は、本当にわしの血を受け継いでいるのか!?」
マドルスは昔、幼かったフェルドに厳しくピアノを教えていた。
自分のピアノの才能を受け継いでいる。将来、自分を越えるピアニストにしたい。そんな思いに駆られ、マドルスはフェルドに厳しく接したのだ。それはピアノに関しての事だけではない。
何事に関してもマドルスはフェルドに対して、厳しく接した。それがフェルドの為になると思い込んでいた。それが将来ピアニストになるフェルドの為に、するべきことだと思い込んでいたのだ。しかし、マドルスの思いとは裏腹に、フェルドはピアニストにはならなかった。
フェルドはピアノを弾く事は大好きだったが、ピアノよりも大好きなものがあったのだ。
それは絵を描く事だ。
世界的に有名なマドルスは、演奏の為、海外を飛び回っていた。
マドルスが家にいない間は、代わりの者がフェルドのピアノを教えていた。そんな中、フェルドは勉強とピアノレッスンの息抜きに、よく絵を描いていたのだ。絵を描いている間は、自由になれた気がしていた。
そんなフェルドは、幼い頃に亡くした母親のシェリエルの絵ばかり描いていた。シェリエルを描いている間は、優しかった母親と一緒に居られる気がしていたのだ。そして、次第にフェルドは寝る間を惜しんで、夢中でノートにシェリエルの絵を描くようになった。
フェルドが幼かった頃に亡くなった為、シェリエルとの思い出は数少なかったが、優しかった母親の顔を思い浮かべて絵を描き続けた。そして、気付けばフェルドの夢は、マドルスに埋め込まれたピアニストになる夢から、自分で決めた画家へと代わっていたのだ。
そんな息子の思いに気付いていないマドルスは、フェルドの部屋に入る事はなかった。
躾は厳しくしていたものの、息子のピアノの才能以外には、それ程興味がなかったのかも知れない。
フェルドは十九才の時に、マドルスを自分の部屋に呼んだ。部屋にマドルスを呼ぶのは初めての事だった。
マドルスもフェルドの部屋に入るのは、フェルドが幼かった時以来だ。
「何だ話って?」
マドルスは、フェルドの部屋に入るなり尋ねた。その顔は怒っているように見える。立場が下の者が呼び寄せた事に、苛立っているようだ。
「…父さん見てよ」
フェルドはそう言いながら両手を広げた。
壁には埋め尽くす程の絵が飾り付けてある。その殆どが、ノートのような薄い紙である。
「父さんにはずっと言えなかたっけど…僕画家になりたいんだ」
フェルドは胸を張って、自分の夢を父親に語った。
「…何を馬鹿なことを言ってるんだ!」
マドルスは、壁に貼られている絵をよく見もしないで叫んだ。
「…見てよ父さん…僕は絵が好きなんだ!」
「お前は、わしを越えるピアニストになるんだぞ!」
二人の叫び声を聞き付けた執事達が、フェルドの部屋に駆け付けてきた。
「おい!この部屋に飾ってある絵を、全て燃やしてしまえ!」
執事達は苦い顔をして、マドルスの言う通りに絵を壁から剥がし始めた。
「止めてよ!」
フェルドは執事達の服を掴みながら懇願した。
「…すいません、フェルド様」
執事達はフェルドの手を振りほどきながら、絵を剥がしていく。
「ねぇ!父さん止めてよ!」
「うるさい!お前は、わしの言う通りにしとけばいいんだ!」
マドルスは顔を真っ赤にして憤慨している。
「…やめてよ…母さんの絵もあるんだよ」
しかし、その言葉はマドルスには響かなかった。
「…全部、剥がし終わりました」
執事達は、剥がしたグシャグシャになってしまった絵を両手いっぱいに持っている。
「暖炉の中で全部燃やしてしまえ!」
執事達は苦い顔をしながら部屋を出ると、マドルスの言い付け通りに暖炉のある部屋に向かった。
「…うわぁ!」
意識が途絶えたように、呆然としていたフェルドは嘆きの声を上げると、仁王立ちするマドルスの横をすり抜け、執事達の後を追った。しかし、暖炉の手前で一人の執事に押さえ付けられ、ただ叫びながら燃えて行く絵を涙越しに見ている事しかできなかった。
遅れて部屋に入ってきたマドルスは、ゆっくりと暖炉の側までやって来ると、押さえ付けられているフェルドを睨み続けた。
ゆらゆらと燃える絵が、部屋の中に暖かな空気を送り込む。そして、泣き叫ぶ声に混じり聞こえていた、ぱちぱちと燃やす音が消えた。
執事に押さえ付けられていたフェルドは、その手を振り払い、暖炉の中に手を入れようとした。しかし、暖炉の横に立っていた執事が、必死にそれを阻止する。
「お前はピアニストになるんだぞ!ピアニストにとって手は、命なんだぞ!」
マドルスのその言葉も、フェルドの耳には届かぬ程、打ちひしがれている。暫くすると、フェルドを押さえ付けていた執事は手を離した。
フェルドは真っ白な灰と化した絵によたよたと近付くと、すっかり冷め切ったその灰を、両手に掴み泣き叫んだ。
「ピアニストになる以外は認めんからな!」
マドルスはそう言い残し、部屋を後にした。
執事達は、いつまでも灰を両手に握り締めるフェルドを見詰め、涙を堪えた。そして、その日の夜明け頃、フェルドは何も言わずに荷物を纏め、家を出たのだ。
それからフェルドがこの家に帰ってくる事は、二度となかった。
マドルスは、リアンの部屋のドアをノックした。しかし、リアンはドアを開けなかった。
「…リアン、すまなかった」
ドア越しに聞こえたその声に、リアンはドアをゆっくりと開け、顔を出した。
「…すまなかった」
マドルスの目には涙が浮かんでいる。
「…うん」
リアンは、マドルスの涙を見て戸惑った。
「…リアン、中に入ってもいいか?」
「…うん」
部屋の中に入ったマドルスの瞳に、壁に飾られている一枚の絵が写り込んだ。
マドルスは更に大粒の涙を流し、顔をしわくちゃにして、リアンに尋ねた。
「…この絵は、フェルドが描いた絵か?」
「うん、パパが描いた絵だよ」
マドルスはずっと聞きたかった答えを聞いて、さらに涙を流した。
マドルスは、リアンの部屋に飾られているこの絵を見た時から、この絵の作者を聞くのを怖がっていたのだ。
息子の夢を踏みにじった自分には、それを知る資格がないと思い込んでいたのだろう。
しかし、ずっと聞きたかった。
そして、ようやく聞けたのだ。
絵の前で立ち止まったマドルスは、ゆっくりと跪く。そして、街の中で笑顔で遊んでいる三人の親子が描かれたキャンパスを、マドルスは跪きながら見上げるようにして見続けた。
その跪く姿は、何かに対して謝罪しているように見える。そして、ようやく立ち上がったマドルスは、リアンに語り始めた。
「…リアン…わしは昔、フェルドの夢を踏みにじった…しかし、歳を取るに連れ…わしは許されない過ちを犯したことに気付いたんだ」
「…うん」
リアンはマドルスの顔を真剣に見詰め、耳を傾ける。
「…わしは、もうすぐ死ぬ」
「…えっ!?」
リアンは目を見開き驚いた。
「…わしは不治の病に侵されているんだ」
「…不治の病って、治るんでしょ?」
「…いや、もう永くはないだろう」
「……」
口を閉ざしたリアンの目から、涙が溢れた。
「…わしは病にかかったと分かり、フェルドに頭を下げないまま…死ねないと思ったんだ…しかし、謝っても許してくれるはずもない…だからわしは…人など雇わず、自分だけの力でフェルドを見付けることができれば…きっと許してもらえると、勝手に望みを掛けたんだ…しかし、生きてるうちには会えんかった…わしは許してもらえんかった」