マドルスの演奏が終わると、リアンは力強く拍手をした。
「凄いよ!」
その声からも、リアンが興奮しているのが分かる。
「お前のピアノも凄いんだぞ」
「本当!?」
「あぁ…じいちゃんの血を受け継いでいるんだからな」
マドルスはそう言うと、豪快に笑った。そして、二人は楽しそうに笑い合った。
「リアン、腹減らないか?そろそろ飯にしよう」
部屋を出た二人は、長い廊下を歩き出した。そして、家の中とは思えない程の時間を歩き、先を歩くマドルスは、とある部屋の中へと入って行った。後を追っていたリアンも、部屋の様子を伺うようにして、中へと続く。
部屋の中央には縦長の大きな黒いテーブルが置かれている。その上には白いクロスが敷かれ、コップや食器などが置かれていた。そして、テーブルの両端には、黒い服を着た男が二人立っている。
黒い服を着た一人が椅子を引くと、そこにマドルスは腰を下ろした。
「そこに座りなさい」
リアンの足は、マドルスの指示した席へと向かった。それに合わせるように、もう一人の黒い服を着ている男が、椅子を引いた。
「ありがとう」
リアンは、黒い服の男にお礼を言った後、椅子に腰掛けた。
「お礼はいいんだよ、それが仕事なんだから」
マドルスは縦長のテーブルの先で、少し厳しめの表情を浮かべている。
「あっ、はい」
先程言われた事を、リアンは忘れていたのだ。 リアンは舌をペロッと出して、側に立つ黒い服の男に視線を送った。黒い服の男は、リアンのその仕草を見て、微笑んだ。
「この二人は、我々の世話をしてくれる。それが彼等の仕事なんだ。何か用心がある時には、彼等に言うんだぞ…礼なんて言わなくていいんだからな」
マドルスはそう言うと、側にいる執事に合図を送った。
それから暫くすると、料理が運ばれてきた。
「…これだけ?」
リアンは心の中でそう呟いた。
目の前には、具の欠片もない、紺色に透き通るスープの入った器だけが置かれた。他の料理が来る気配がないのだ。
リアンはテーブルの上にあったパンを食べつつ、スプーンで掬ったスープを少しずつ飲んだ。
リアンのスープを啜る音を聞き、マドルスは怪訝な表情を浮かべている。
「…リアン、スープは音を立てずにこうやって飲むんだぞ」
マドルスはスプーンでスープを掬い、何の音も立てずに、口の中へと入れた。
リアンは見よう見まねで、マドルスと同じような動作をし、音を立てないように注意しながら、スープを飲んだ。
「…さっきの食べ方の方が、美味しかったよ」
「…ははは、そうか…でもな、テーブルマナーというものがあってだな……お前は知らないらしいから、今日はじいちゃんの真似をして食べてみろ」
「…うん」
料理はスープだけではなかった。
スープを飲み終わる事、次の料理が運ばれてきたのだ。
リアンは運ばれてくる料理を、全てマドルスの真似をして食べた。
真似るのに必死で、その味の素晴らしさに気が付かないリアンであったが、運ばれてきた全ての料理は、一流と呼ぶに相応しいものだった。
「もっと好きに食べたいな……ジャンだったら…」
リアンはそう思い、空しくなった。
会話が弾むジャンとの食事とは違い、マドルスは黙って食事をしている。リアンもそれに習い、話し掛ける事はしなかった。そして、静かな食事は終わり、リアンは一人部屋に戻った。
今日からここが自分の部屋となる。
まだ実感は湧かないものの、リアンは荷物を部屋の中へと置いていく。そして、最後にフェルドの絵をベッド側の壁に飾り付け、枕元に若かりし頃の両親とジャン三人が仲良く写っている写真を置いた。
「…おやすみ」
リアンは写真の中の皆に挨拶をし、眠りに就いた。
次の日、リアンは車に乗りマドルスと共に学校に向かった。勿論、運転手付きの車だ。
「こちらが孫のリアン.ソーヤです…これからよろしくお願いいたします」
マドルスは学園長室で、その部屋の主である学園長に向かって頭を下げている。
学園長は天下のピアニストに頭を下げられ、大変かしこまっている様子だ。
「…わ、分かりました…こちらこそよろしくお願いいたします」
学園長は床に頭が付くぐらいのお辞儀を返した。
「リアン、がんばれよ」
マドルスはそう言い残し、学校を去って行った。
リアンは学園長に連れられ、これから学び舎となる教室へと向かった。そして、二人はまだ授業前なのに静まり返る教室へと入り、学園長直々に、生徒達にリアンを紹介した。
「皆さん、こちらマドルス.ソーヤさんのお孫さんのリアン.ソーヤ君です…突然ですが、こちらのクラスで、皆さんと一緒にお勉強することになりました。よろしくお願いします」
そう言うと、学園長はどこか満足げに、リアンを残し、教室から出て行った。
「…よろしくお願いします」
リアンは黒板の前に立つ、このクラスの担任の女性に挨拶をした。
「…はい、では席はあちらで」
担任は何も聞いていなかったらしく、驚きながら空いている席を指差した。
「はい…皆さんよろしくお願いします」
リアンは今度はクラスメイトに向かって、挨拶をした。
そのクラスメイト達は、リアンを見て驚きの顔をしている。
注目を一身に受けながら、リアンは言われた空席に座った。
「シャルラ先生!マドルス.ソーヤって、あのマドルス.ソーヤですか!?」
生徒の一人が、担任のシャルラに向かい尋ねた。
「…分からないわ…私も転校生の話しなんて聞いてなかったから…では、授業を始めます」
その言葉を聞き、皆は姿勢を正した。きちんと教育の行き届いた学校なのだろう。
リアンは学園長に貰った教科書を鞄から取り出すと、それを開いた。しかし、シャルラが何を言ってるのか、チンプンカンプンだ。
前の学校と比べて、この学校は学力のレベルが相当高いようだ。
理解仕切れないリアンは、上の空で聞いている。
「つまらないな…ドニーは今頃楽しんでるかな」
リアンは授業中そんな事を考え、つまらない授業を乗り切った。
休み時間になると、リアンの元にクラスメイト達が集まってきた。
「なぁ、マドルス.ソーヤって、あのピアニストのか?」
授業前に、シャルラに同じ質問をしていた、コルムと名乗った生徒が尋ねてきた。
「…おじいちゃんはピアノ弾けるよ」
「ピアノ弾けるだけじゃ、あのマドルスだって決まったわけじゃないわね」
そう言ったのは、眼鏡を掛けたサラという少女だ。
「お父様の名前は?」
サラは眼鏡をくいっと上げながら、真剣な眼差しをリアンに送った。
「…フェルドだよ」
「…やっぱり!あのマドルスじゃないか!」
ちょっとポッチャリしているジリアという少年は、何故だか喜んでいる。
「すげえな!あの大豪邸に住んでるのか!?」
コルムは興奮しているのか、鼻の穴を大きく開いて、目を輝かせている。
「僕も昨日来たばかりでよく分からないけど、すっごいでっかいお家だったよ」
「凄いよな!俺、ヤルクスよろしくな」
「私はアルネ」
色んな生徒が自己紹介してきた。
クラスメイトは全部で三十人程いる。こんなに多くのクラスメイトとができるのは初めてだったリアンは、嬉しくなった。
「よろしくね」
その証拠にリアンは笑顔を浮かべている。
「もう、そろそろ行かなきゃ」
アルネの言葉を聞き、皆は次の授業に向け、動き出した。
リアンも教科書を持ち、皆に囲まれながら、次の授業を受ける場所である音楽室へと向かった。
クラスメイト全員が音楽室に入った。そして暫くすると、授業の開始を告げる優しげな鐘の音が鳴り響いた。
その鐘の音が鳴り止まぬ内に、教室にセトリルという白髪が目立つ音楽教師が入ってきた。
「…では今日は歌を唄いましょう」
セトリルは、授業の始まりの挨拶を済ませた生徒達に向かい、にっこりと微笑んだ。
「でもね、先生昨日、指を怪我しちゃって…シャロン、ピアノ弾いてくれるかい?」
セトリルは指に巻いている包帯を見せながら、一人の少女を手招きした。
「はい、先生」
シャロンという美しい少女は、凛とした歩き姿で前へ出ると、皆の視線を浴びながら、ピアノの前に背筋を伸ばし座った。
「そこにある曲を弾いてね」
セトリルの言葉を聞き、ピアノに立て掛けられた楽譜を一瞥すると、シャロンは静かに頷いた。そして、細長い白い指先を鍵盤に這わせると、楽譜を見ながら伴奏を始める。
教室の中に、透き通るように美しい、ピアノの音が鳴り響く。
みんなはシャロンのピアノに合わせ、教科書の歌詞を見ながら歌い出した。そんな中、リアン一人だけが口を開いていない。リアンは決して歌えない訳ではない。この曲は、知っている。
リアンは歌う事を忘れて、心を揺さぶるようなシャロンのピアノの音に、聴き惚れているのだ。
結局、リアンが一度も歌う事なく、ピアノの伴奏が終わった。
シャロンは立ち上がると、金色の髪をなびかせ、リアンの前までやってきた。
「あなた、ピアノ弾けるの?」
そう聞いたシャロンの瞳は、どこか睨み付けているように見える。
「…うん、弾けるよ」
リアンはどうして睨まれてるんだろうと、戸惑いながら答えた。
「じゃあ、弾いてごらんなさい」
本人に自覚があるのかは定かではないが、シャロンのその言い方は、どこか高飛車だ。
「リアン、ピアノ聴かせてくれよ」
そういう声が、周りからちらほらと聞こえてきた。
「リアン君、弾いてごらん」
セトリルは、真っ白なアゴヒゲを触りながら、穏やかに笑っている。
「…はい」
リアンは戸惑う瞳でシャロンを横目に見ると、ピアノの前に行き、椅子に座った。
「じゃあ、そこにある楽譜の中から、好きな曲を選んで弾いてごらん」
セトリルの言葉を聞いたリアンは、ピアノの上に束ねられた楽譜を一瞥した。しかし、困ったような顔を浮かべたまま、楽譜を選ぶ素振りさえ見せない。
「…どうしました?」
リアンの様子を見て、セトリルは心配そうな顔をしている。
「…僕、楽譜読めないんです」
リアンの言葉を聞いて、シャロンは高笑いした。
「ほっほほ!ピアノ弾けるなんて嘘でしょ!マドルスの孫だからって弾けるとは限らないわよね!」
どこか勝ち誇ったような顔で、シャロンは腕組みをしている。
「…弾けるよ!」
リアンは馬鹿にされたみたいで、腹が立った。
「…リアン君、楽譜なんか無視して、なんか弾いてごらん」
二人のやり取りを見かねたセトリルは、助け船を出した。
「…はい」
リアンは取り乱した心を落ち着かせる為に、深呼吸をする。そして静かに目を閉じると、すぅーと伸ばした指先を鍵盤の上に載せた。それはあたかも地上に舞い落ちて来る天使のような、緩やかでとても美しい所作である。
静かに吐き出す呼吸と共に、鍵盤を一つ押す。そしてそれはメロディーとなり、美しい音色を辺りに響かせ始めた。
クラス中が騒ぎだした。
リアンのピアノは、シャロンよりも遥かに上手いと誰もが思ったのだ。現にシャロン自身もそう思い、悔しさのあまり、下唇を噛み締めてリアンを睨んでいる。
うっとりとした視線をリアンに向ける者。
演奏の邪魔にならぬ程度の拍手を送る者。
指揮者の真似をし、笑顔を浮かべる者。
皆それぞれが、それぞれの形で、リアンの演奏を楽しんでいる。そして、その楽しむ仕草はやがて、一つになった。
皆、動きを止め、静かに演奏を聴き始めたのだ。
リアンはジャンやドニー達の事を思いながら、夢中でピアノを弾いた。その思いを乗せたメロディーが、教室に居る者全ての心に、悲しい雨を降らせた。
下唇を噛み締めていたシャロンも、今では涙を流している。
演奏が終わった。
音色が消えた教室には、悲しい余韻だけが残っている。何人かの生徒はシャロンのように、その瞳から涙を流している。
その中の一人が、祈るように組んでいた手の平を解き、ゆっくりとした動作で手を叩いた。それがきっかけとなり、その音が連鎖し始めた。そして、教室は鳴り止まない程の拍手の渦が巻き起こった。しかしそんな中、ただ一人拍手を送らない者がいる。シャロンである。
シャロンは先程のように下唇を噛み締め、うつ向いていた。
「…素晴らしい…聴いたことない曲だな…なんて曲だい?」
セトリルは感動のあまり、まだ呆然としながらも、リアンの肩に手を置き尋ねた。
「…曲名なんてないです…適当に弾いていたので」
リアンは小鼻を掻き、照れ臭そうにしている。
その言葉を聞き、セトリルとシャロンは驚いている。セトリルは感嘆の声を上げ、さすがマドルスの孫だと思った。
シャロンはリアンを真っ直ぐに見詰め、素直に負けたと思った。
彼女は容姿端麗で勉強もでき、ピアノもマドルスを除けば、この街一番の腕前だと自負している。