「フェルドです」

「……」

 老人は投げ掛けた質問の返事に、繋ぐ言葉を発しない。
 その表情から見て、言葉をなくしている様子だ。そして、愛おしそうに写真の中のフェルドに指先を這わせた老人は、写真から目を離さずにジャンに尋ねた。

「…彼は今どこに?」

 老人の様子に只ならぬものを感じながらも、ジャンは素直に答えた。

「…五年前に事故で亡くなりました」

「……」

 老人の返事はなかった。
 間違いなくフェルドの知り合いだ。ジャンはそう思ったが、それを口にしなかった。
 どういう関係かは分からないが、自分から名乗らない以上は、こちらから聞くべきではない。ジャンはそう考えた。
 壁の写真を見詰める老人の背中は、とても小さく、弱々しく振るえている。
 ジャンからは背中しか見えないが、老人は大粒の涙を流していた。
 それから暫く泣き続けた老人は、ジャンに背中を向けたまま、ようやく口を開いた。

「…あの子の母親は?」

「…あの子が赤ん坊の時に、病気で亡くなりました」

「……」

 老人はまた言葉を無くしたように黙り込んだ。
 涙でぼやける視線を、演奏を続けているリアンへと向けた。
 その涙の雫は、更に大きくなった。
 ピアノの音が消えた。
 酒場は悲しみの余韻に包まれている。

「…リアン、そろそろあがってくれ」

 ジャンが声を掛けた。

「うん。みんなおやすみなさい」

 リアンは客達に挨拶をすると、二階へと上がって行った。
 老人はその姿が見えなくなるまで、リアンを見詰めていた。

「…また来ます」

 老人は勘定を済ませると、悲しい小さな背中を丸め、酒場を出て行った。

「…結局、名乗らなかったな」

ジャンはそう思いながら、老人の背中を見送った。