その笑顔は、心底笑っている時もあれば、そうでない時もあった。
 今ジャンの顔にある笑顔は、間違いなく心底笑っているものではない。
 必死に愛する者を掴もうと藻掻いた。しかし、その願いは叶わぬもの。
 最後に笑顔で別れたいという思いが、顔に出たのだろう。
 誰よりも優しい笑顔。
 誰よりも安心する笑顔。
 そして誰よりも、心配してしまう笑顔。
 リアンが見上げるジャンの顔には、共に暮らしていた頃の笑顔が浮かんでいる。
 天に登って行くジャンの唇が、ゆっくりと開いた。
 耳には声は届いていないものの、確かにその声は、リアンに聞こえた。

「ありがとう」

 たった一言ではあるが、その短い言葉の中には、ありったけの思いが詰まっている。
 その溢れんばかりの言葉を残し、ジャンは空高く舞い上がり、不意に消えた。
 涙で前が見えない。
 リアンの瞳は、涙で溺れている。
 その涙は、大切な者が消えてしまった悲しみばかりではなく、言葉では伝えられない程の感謝の気持ちも入り混じっている。
 消えてしまった空に別れを告げ、視線を下へと移す。
 涙で滲んだ瞳が、白黒の鍵盤を捉えた。
 その鍵盤の上では、自分の両手の指先が、悲しそうに踊っている。
 自分でピアノを弾いているという意識はない。勝手に指先が動き回る鍵盤を、ただ黙って見詰めていた。
 リアンの両手の指先は、全部で十本。
 だが、鍵盤の上を動き回る指先は、明らかにそれよりも多い。
 自分の指先と寄り添うように踊る指先。
 リアンの視線は、その指先の上をゆっくりと辿った。そしてリアンの瞳に、優しく笑っているマドルスの姿が写り込んだ。