ピアニストにとって両手とは、命と並ぶ程、大事なもの。
 ピアニストになれなかったスタルスの両手には、その手を守るように、未だ真っ白な手袋が常に嵌められている。その真っ白な手袋が、薄らと赤く染まり始めた。
 短く手入れされているにも関わらず、手袋の中の爪は、柔らかな手の平を傷付けている。スタルスは手袋越しに爪が食い込む程、拳を強く握り締めているのだ。そして、血走って見えるその両目が見詰める先は、ピアノだけが置いてある、今は誰も居ないステージ。
 そのステージの袖から、誰かが現れた。

「…なっ!」

 スタルスは我が目を疑った。
 その視線の先に、自分と血の繋がりのある、一人の少年が歩いていたのだ。
 リアンである。
 共に過ごした期間は短く、顔付きも変わっているものの、スタルスはその少年がリアンであると、直ぐに分かった。
 ピアノへと一歩一歩近付いて行くリアンの顔は、緊張しているように見える。そして、軽く握ったリアンの指先は、微かに震えている。
 無理もないだろう。客席には大勢の人が座っている。リアンはこれまでに、こんなに大勢の前で、ピアノを演奏した事がないのだ。
 ピアノの前に着いた。
 ピアノの前には、黒い背もたれの付いた椅子が置かれている。
 静まり返った会場に、椅子が引かれていく音が木霊した。椅子に腰掛けたリアンは、目の前のピアノの鍵盤を見詰める。
 艶やかな白と、光沢のある黒。
 それ以外の色は、そこには存在しない。
 物心付いた時から、いつでも近くにはピアノがあった。
 初めてピアノで音を出した時の事は覚えてはいないが、初めて弾いた曲は覚えている。
 鍵盤を見詰めるリアンは、求めるように指先を近付けて行く。