そこに座っているのは、紛れもなくあのジョルジョバ.フィレンチであった。
 今はステージの上で演奏する者は誰もいない。
 だからだろう、多くの観客はステージを見ずに、ピアノの神と称されるジョルジョバの姿をその目に焼き付けようと、彼を見詰めている。しかし、それは直ぐにジョルジョバの一つの動作で変わった。
 笑顔のジョルジョバは、突き立てた人差し指をステージに向けている。
 ジョルジョバを見詰めていた観客達は、彼の指先を辿り、指し示すステージ上へと視線を移した。そこには、ステージ中央に置かれたピアノへと向かう少年の姿があった。
 言わずもがな、少年はコンクールの出場者である。
 客席に座る者達は、出場者の応援で来ている者もいるだろうが、それ以外の者達は、ピアノ演奏を聴く事が好きな者達なのだろう。そうでなければ、長丁場となるこのコンクールの観客席には座らない筈だ。
 これから少年がピアノを演奏する事は、今までの流れから考えて、皆分かっている。
 一度ステージへと向けた視線を再びジョルジョバへと戻す不躾な者は、この会場にはいないようだ。
 一人を除いては。

「どうかしましたか?」

 ヤコップが声を掛けた。
 ステージ上の少年の演奏が始まりそうだ。しかしスタルスは、未だ後方へと顔を向け、ジョルジョバを睨み付けている。
 間もなく演奏が始まる。
 ヤコップは審査員の長であるスタルスの肩に手を置き、その名を呼んだ。

「…スタルスさん」

 そこでようやく気付いたスタルスは、険しい顔付きを整え、肩に手を置くヤコップを一瞥した後、視線をステージへと戻した。
 ステージ上の少年が緊張した面持ちのまま、ピアノを弾き始めた。その緊張感が指先を伝い、ピアノの音にも微かに入り混じっている。