ノラネコのピアニスト

 にっこりと微笑んでいた教授の顔付きが変わった。そして鍵盤に指を這わせると、静かなメロディーを奏で始めた。
 リアンは目を閉じ、その後も続くピアノの音の世界を泳いだ。
 昨日もそうだが、教授のピアノは心が洗われる洗礼されたものだ。
 比べる事は出来ないが、世界的なピアニストの祖父のマドルスのピアノでさえ、これ程心打たれた事はない。それをリアンは無意識に感じていた。
 リアンが目を閉じて聴き惚れていると、いつの間にか教授のピアノの演奏が終わっていた。

「リアンは今の曲、聴いた事あったかい?」

「いえ、初めて聴きましたが、素晴らしい曲ですね」

 未だうっとりとしている顔が、それがお世辞ではない事を物語っている。

「今の曲、弾けるかい?」

「はい、弾けます」

 今度はリアンがピアノの前に座り、鍵盤に指を這わせた。
 リアンは目を閉じ、今聴いたばかりの曲を奏でていく。頭で思い出そうとしなくとも、勝手に指が動くのだ。

「…ほほう」

 教授は関心した。そして、教授は自分の演奏とは異なり、少しアレンジを加えながら弾いているリアンの演奏に、聴き入っていた。

「…どうでしたか?」

 演奏を終えたリアンは、目を閉じている教授に尋ねた。
「…素晴らしい」

 教授は、素直な気持ちを口にする。

「今のアレンジは、わざとやってたのかい?」

「いえ、わざとというか…そうした方が僕には合ってると…駄目でしたか?」

 リアンは答えた後、自信なさげに尋ねた。

「駄目なんかじゃない。むしろ良くなっていたよ。わしはお手本だから、忠実に弾いたんだが、わしも普段はアレンジを加えて弾いとるんだ」

「え?教授も」

 あんなに素晴らしいピアノを奏でる教授も、同じようにアレンジして弾いている事を知り、リアンは嬉しくてしょうがなかった。

「リアンはコンクールに出たことはあるかい?」

「…コンクール?ないです」

「…そうか」

 そう言うと教授は腕組みをし、何か考えているような仕草を見せた。そして腕組みを解くと、にっこり微笑み口を開いた。

「リアンのピアノは、世界の人に聴かせなくちゃならないピアノだ」

 それは決して煽てている訳ではない。教授は本気でそう思って、言っているのだ。

「え?僕のピアノが?」
「そうじゃ、そのうちコンクールに出るんじゃぞ!」

「…教授からそんな風に言われたら、凄く嬉しいですけど…」

 リアンはそこで言葉を止めた。

「ん?どうしたんじゃ?」

 それに気付いた教授は、笑顔を浮かべたまま首を傾げた。

「…コンクールってどうやって出るんですか?」

 つても金もない自分がどうやってコンクールに出るのか教授に聞くのを躊躇っていたが、リアンは思い切って尋ねた。

「わしにまかせとけ!」

 教授は、自分の胸を握った拳でぽんっと叩いた。
 その頼もしい仕草が、リアンの不安を晴らしていく。

「よし、次の曲聴かせるからな」

「はい、お願いします」

 教授は再びリアンに聴かせる為に、ピアノを弾き始めた。
 夜になりジョルノ達が小屋にやってきた。
 また今日もビスコが料理を作り、賑やかな夕食となっている。
 談笑しながらの夕食。しかし、昨日もそうだが、誰もリアンが何故ホームレスになったのか聞こうとしてこない。こんな若さでホームレスになってしまったのに、不思議と思わないのか?
 皆、語りたくない過去があるのかもしれない。
 だから誰も聞いてこないのだろう。

「リアン、今日もピアノ聴かせてくれよ!」

 夕食の片付けも終わり、ジョルノはせがんだ。

「いいですよ」

 リアンは教授から教わった、今日初めて聴いた曲を弾き始めた。
 皆は目を閉じ、そのメロディーに酔い痴れるように、うっとりとした表情を浮かべている。そしてリアンのピアノ演奏は終わり、小屋の中は拍手が巻き起こった。
 リアンが小屋で暮らすようになってから、三日が過ぎた。
 朝食を食べ終わった後、毎日の日課となった、教授のピアノレッスンを終えたリアンの元に、ジョルノが訪れた。

「教授、帰ったのか?」

「はい、帰りました」

「そうか、なんか無情にピアノが聴きたくなったんだ」

「じゃあ、弾きましょうか?」

「おう、頼むよ!」

 リアンはピアノの鍵盤に指を載せると、ゆっくりと動かし始めた。
 室内に鳴り響く優しい音色。その心地良いピアノの音色が、ジョルノの鼓膜を擽った。
 ジョルノは静かに目を閉じると、うっとりとした表情を浮かべた。
 ずっと聴いていたい。無意識にそう思わせる演奏も、やがて終わりを迎えた。
 暫く余韻に浸っていたジョルノは、目を開くと、リアンに拍手を送った。

「…やっぱり凄いなリアンのピアノ」

ジョルノは素直な気持ちを口にした。

「ありがとうございます」

「…でも、リアンも幸せ者だよな。伝説のピアニストから、ピアノ習ってるんだからな」

「え?」

 言葉の意味が分からないリアンの口から、そんな声が漏れた。
「なんだ知らなかったのか?教授の正体」

「…え?…はい、知らないです」

 教授が只者ではない事は、そのピアノ演奏を聴けば、誰でもそう思うだろう。しかし、その正体をリアンは知らされてはいない。

「そうか…ホームレスなのに、毎日俺達に飯を買ってきてくれるだろ?不思議に思わなかったのか?」

「…不思議に思い教授に聞きました。…金持ちのホームレスだって言ってましたけど」

「そうか、聞いたのか…じゃあ教えてやるよ教授の正体」

 ジョルノは笑顔を作った。

「教授の名前は、ジョルジョバ.フィレンチ。リアンはその名前を聞いたことないか?」

「…ジョルジョバ?…聞いた事あります」

 リアンはその名を知っていた。酒場の常連客の口から、幾度もその名と共に、その名声を聞いていたのだ。

「…リアンの年頃でも知ってるんだな」

 ジョルノはそう言うと、遠い目をした。

「教授は昔、世界的に有名なピアニストだったんだよ。わしらの年頃だったら、誰でも知ってるぐらい有名なんだ」

「…教授がジョルジョバ」

 突然知らされた事実に、リアンは教授の名前を口にした。
「リアンは、マドルス.ソーヤって知ってるか?」

 突然、祖父の名前が出て来て、リアンは驚いた。

「…知ってます」

 しかし、リアンは自分が孫である事を伝えなかった。

「マドルスは、世界でも今世紀最高のピアニストって言われてるけどな、それはジョルジョバがいなくなってからの事なんだぞ。それにジョルジョバは、今世紀最高ではなく、歴史史上最高の天才ピアニストと呼ばれているんだ。しかし、まだ人気絶頂だった頃、突然姿をくらました」

「…だから、ピアノが凄く上手なんですね」

 そう言ったリアンの頭には、教授のピアノの音が鳴っている。

「あぁ、わしも昔はちゃんと仕事してて家庭もあったんだぞ。ずっとホームレスって訳じゃないんだからな。わしの話はいいとして、わしがホームレスになってこの街に来た時、教授と出会って、我が目を疑ったよ。あのジョルジョバがホームレスの格好して目の前に居たんだからな。そしてわしらは仲間になった。教授は昔から、毎日わしらに飯を喰わせてくれた、大恩人だよ…わしはなんでジョルジョバがホームレスになったのか不思議で聞いたんだ。そしたら教授は、金と名声を手に入れて、もう飽きたと答えた。だからホームレスの真似事をしてるって言ったんだ。教授は昔から変わり者なんだよ」

「…そうだったんですか」
 教授に対する、あらゆる疑問が全て解けた。
 あんなに素晴らしいピアノの音を奏でられるのも、ホームレスなのに食材を買ってこれるのも、全ては歴史史上最高と謳われた天才ピアニストだったからなのだ。

「ベラベラと喋ってしまったな。今の話は教授には内緒にしとくんだぞ。教授は昔の話をすると嫌がるからな」

「はい、分かりました」

「…じゃあ、わしは日課の散歩にでも出掛けてくるかな」

 ジョルノは軽やかなに右手を上げると、リアンに別れを告げ、小屋から出て行った。
 一人残ったリアンは目を閉じ、記憶にある、教授のピアノの音を頭の中で鳴り響かせる。
 やはり、あんな素晴らしいピアノの音色は聞いたことがない。何の迷いも無い音。何の不安も抱かせない音。
 リアンの中で教授のピアノは、神がかり的な存在になっているようだ。

「…よし、僕も弾こう」

 ピアノの前に座ったリアンは、教授から習った曲を弾き出した。
 数時間夢中で弾いていると、ドアが開いた。しかし夢中で弾くあまり、リアンは誰かが入ってきた事にさえ気付いていない。
 リアンの昼飯を持ってきた教授は、目を閉じピアノを弾き続けるリアンを笑顔で見詰める。そして、一時間程リアンのピアノ演奏を聴いていた教授は、テーブルに載せたサンドウィッチの前に、リアンに向けたメッセージを残し、小屋を出た。
 数時間後。未だ夢中でピアノを弾き続けるリアンは知らないだろうが、空は茜色に変わっている。
 ドアが開いた。すると、教授が夕飯の材料を持って小屋に入って来た。

「…あっ、教授」

 リアンはピアノを弾く手を、十時間振りに止めた。
 教授はテーブルの上に置かれたままの、サンドウィッチを一瞥すると、にっこりと微笑んだ。

「リアン、腹減ってるだろう?」

「え?…いえ、それほど減ってません」

 まだピアノを長時間弾き続けた興奮が冷めないのか、リアンは空腹を感じなかった。

「そうか…皆はまだこなそうじゃな。たまには、わしが夕飯を作ろう」

 リアンに少しでも早く温かなものを食べさせたい思いから、教授はそう言ったのだろう。

「僕も、手伝います」

 教授はリアンの申し出を素直に受け、二人は外に出た。そして、焚き木に火をお越すと、二人は夕飯の支度を始めた。
 鍋の中に教授が切った野菜を放り込み、リアンが味付けの塩を入れる。
 こうして二人で料理を作っていると、ジャンの事を思い出し、リアンは胸が苦しくなった。
「…ん?どうしたリアン?悲しそうな顔をして」

「…なんでもないです」

 リアンは無理に笑顔を作り、答えた。

「教授!リアン!」

 リアンが作り笑顔を浮かべていると、ジョルノ達が揃って現れた。

「おぉ、今日はわし達が作った飯だぞ」

 教授は鍋の中の灰汁を取りながら、言った。

「えっ?料理嫌いの教授が作ったの?」

 ジョルノは腹の虫を鳴らせながら、驚いた顔をしている。
 無理も無い。教授とはかなり長い付き合いだが、一度も料理をしている姿を見た事がないのだ。しかし、皆は知らないが、教授は料理をする事を嫌っている訳ではない。
 教授は幼い頃から、ピアニストになる為に、両親から指を切る恐れのある包丁を使う行為を禁じられていたのだ。そして、ピアニストになってからも、料理をする事はなかった。
 その習慣は、表舞台から姿を消した今でも続いている。しかし、今日は早くリアンに温かな料理を食べさせたい思いに駆られ、本人さえ握った記憶の無い包丁を握ったである。
 そんな教授は、共に料理をしたリアンには、一度も包丁を握らせる事はなかった。
 それは、まだ開花してはいないが、ピアニストとして、将来のあるリアンを思っての行動だ。

「もう少しで、出来上がるから小屋の中で待っとれ」

 教授は恥ずかしそうに小鼻を掻くと、おたまで小屋を指した。

「はーい」

 ジョルノ達は、嬉しそうにお腹を擦りながら、小屋へと入って行く。