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 だしの香りがふっくらと広がっている。
 海の匂いだ。魚の匂い。けれども生臭くはない。

 台所に常備された乾物の中でいちばん上等なトビウオの煮干しでだしを取っている。
 北部九州ではトビウオのことをアゴと呼ぶらしい。長崎の離島出身の松園くんが今月初め、だし用のアゴを供給してくれた。
 松園くんにとって、秋はアゴの季節だそうだ。十月になると、彼の育った漁師町は、アゴを焼く香ばしい匂いでいっぱいになるという。

 だしに醤油を落とす。ほんの少しみりんを加えて、味を調える。
「こんなもんかな? 薄い? まあ、濃いよりいいか。薄かったら、塩でも醤油でも、好きに足せばいいもんね」
 独り言をぶつぶつやったとき、炊飯器が仕事の完了を告げた。わたしは、途中だった作業に戻る。

 卵の白身を泡立てている。かれこれ二十分は格闘しているだろうか。手応えはそろそろ、しゃりしゃり、さくさく、という感じになってきた。
 もうちょっと足りない。あと少し、もう少しと、なおもしつこく混ぜ続ける。カチャカチャ、カチャカチャ。慣れていないから、泡立ての音はリズムが悪い。

 混ぜて混ぜて混ぜて。さんざんやって、ようやくだ。くたびれた手で泡立て器を持ち上げると、ついに、ツンと真っ白なツノが立った。
 別のボウルで掻き混ぜておいた卵の黄身を、泡立てた白身に合わせる。ふわふわをつぶさないよう、ヘラで手早く混ぜる。

 突然、声がした。
「ねえ」
「うわっ」
 わたしは飛び上がった。

 誰もいないと思っていた引き戸のそばに、沖田が立っていた。沖田はわたしの驚きぶりを見て、吐息だけで小さく笑った。
「切石さんに、台所に行くように言われたんだけど。あんたが待っているからって」

 沖田はひと風呂浴びてきたようだ。頬や唇の血色がいい。ざっくり結われた髪がまだ湿っている。
 わたしは作業に戻った。卵を混ぜる。

「きみもわたしも昼ごはんを逃したからね。今作ってる」
「獣の肉ならいらないよ。どんなに血抜きをしたって臭い。死体の匂いを思い出しちまうんだ」
「わかってるから、食欲の失せることを言わないで。肉じゃないよ。見てのとおり、卵の料理」

 沖田は足音も立てず、いつの間にか隣にいた。
「その料理、見たことある」
「卵ふわふわっていう料理。東海道の宿場町、遠州袋井の郷土料理だって」
「ああ、近藤さんが気に入っているやつだ。屯所でも、ちょっと銭が入ったときなんかに卵を買ってきて、料理のできる隊士に作らせてるよ」

「きみの時代だと、卵はけっこう値が張るよね?」
「そうだけど。話す相手を『きみ』と呼ぶのは、長州の連中が使う言葉だ。あいつら、おれたちの敵だよ。きみだのぼくだの、あまり気持ちのいい呼び方じゃあないな」

「慣れて。今の時代では普通の言葉なの。巡野は自分自身を指して、ぼくと呼ぶでしょ」
「初めはとっさに身構えたよ。巡野さんに悪気がないのはすぐにわかったけどさ。巡野さんも弁解してくれたし」

 わたしは話半分に、卵ふわふわの仕上げに入った。
 だしを沸騰させ、卵を加える。鍋に蓋をして、火を弱める。卵に熱が通るまで、しばし待つ。その間に白米を茶碗によそい、漬物を出す。

 鍋の蓋を取った。
 ほわりと、白い湯気が立ち上る。湯気の下に、淡く優しい黄色がのぞいた。滑らかに蒸し上がった、卵ふわふわの完成だ。

 鍋をのぞき込む沖田に、わたしはおたまと鍋敷きを押し付けた。
「食堂に運ぶよ。これなら食べられるでしょ?」
「え……まあ、うん」
「こっち。付いて来て」
「はいはい」

 食堂の隅のテーブルに、卵ふわふわの鍋をセットした。沖田を座らせておいて、わたしは食事の支度を整える。白米、漬物、箸と、取り分け用のお椀。
 わたしは卵ふわふわをお椀によそうと、沖田の前に置いた。
「どうぞ召し上がれ。苦情は受け付けない。絶対食べて。あれだけ栄励気を放出したんだから、無理やりにでも食べないとぶっ倒れる」

 はいはい、と沖田の口が小さく動いた。その手が箸を取る。
 湯気が沖田の鼻先をくすぐっている。壊さないよう箸で器用に持ち上げた卵は、ふわふわ、ふるふると柔らかく揺れた。

 沖田は湯気とたわむれるように何度か息を吹きかけ、それから、卵を口に運んだ。わたしから目をそらしたまま、ほう、と温かそうな息をつく。
「うまい」
 ごく小さな声で、沖田は言った。

 わたしは聞こえなかったふりをした。自分のぶんの卵ふわふわをよそい、手を合わせて食べ始める。
 あつあつの卵は、口の中でほろりと溶けた。だしの味が、じゅんと染み出す。舌ざわりも味わいも優しい。

「よし。苦労した甲斐があった」
 卵の白身を泡立て続けた右腕はぷるぷるしている。箸が震えるのをごまかして、わたしは卵ふわふわも白米も、がっつくように掻き込んだ。

 沖田も素直に食べた。伸びた背筋も箸の使い方も案外、行儀がいい。そのくせ案外、食べるのが速い。
 会話はなかった。目も合わせなかった。鍋が空っぽになるまで、わたしと沖田で、ただ食べた。

 食べ終わって、もう一杯お茶を淹れた。ちょっと目を離した隙に、沖田は食堂からいなくなっていた。
「片付けくらい手伝えっての」
 わたしは一人、ぼやくふりをした。ただのポーズだ。テーブルの上の空っぽの鍋に、口元が緩むのを止められなかった。

 沖田がようやく食事を取ってくれた。それだけのことが嬉しかった。