わたしは数歩の距離を戻った。沖田に手を差し出す。
「一緒に来て。十五歩だけ我慢して歩いてくれたら、底なし沼の正体がわかって安心できると思う」
沖田はわたしの手を見て、わたしの顔を見た。
「手を引かれるのは苦手だよ。刀を執れないだろう」
気を取り直すようにかぶりを振ると、沖田は素直に足を踏み出した。草履は床に吸い付くみたいに、少しも音を立てない。
わたしは先に立って歩く。奥まで行って振り向き、ガラス越しに、明るい庭を指し示した。
「見て。きみが感じた気配の正体は、この庭だよ。確かにここは異空間的な広さだけど、誰も隠れてなんかいない。自分の目で確かめてみて」
緑豊かな日本式の庭園が広がっている。離れがあり、あずまやがある。白砂の枯山水が鴨川を模して流れている。弧を描く橋の対岸には竹林が鬱蒼と茂っている。
ビルの谷間にあるはずの庭園だ。だが、圧倒的に広い。寮の中庭よりも広いだろう。竹林の先がどうなっているのか、わたしも知らない。
衣ずれの音とともに、沖田がわたしの隣に立った。
「誰もいないね。静かだ」
沖田は長い息をついた。微妙な位置に浮いていた右手が、だらりと脱力する。
マスターはカウンターの向こうから、何事もなかったかのように告げた。
「どうぞ、お好きなお席へ」
わたしはお気に入りの席に着いた。ちょうど朝日が差し込んできて明るい。沖田もわたしの向かいに、そっと椅子を引いて腰掛けた。
そういえば、椅子に座ることも、沖田はこの時代に来て初めて経験したはずだ。その割に、しなやかに背筋を伸ばした所作には不慣れな様子がにじまない。
「何だよ。おれのことじろじろ見て」
「御蔭寮は和洋折衷の造りで、どっちかというと和風寄りだけど、食堂の机は洋風だよね。きみは最初から普通に椅子に腰掛けて、一人ぶんずつの膳じゃない広い机を使うことにも戸惑わなかった」
沖田は、呆れた様子の笑みを浮かべた。
「戸惑うなんて。その程度の仕草、真似できないわけがないだろう? 剣術でも柔術でも、見たばかりの技をすぐやってみせるのがおれの特技だ」
「ああ、なるほど」
「この特技、宴でもけっこう重宝されたんだよ。その気になれば、簡単な舞くらい、一度で覚えるからさ」
「それ、わたしの苦手なやつだ」
「だけど、あんたは頭がいい。おれ、舞は覚えられるけど、芝居の口上みたいなのは、何度聞いてもからっきしだ。言葉を覚えるのが苦手でね。ああ、そろばんも苦手。字もさほどうまくないし」
「字は、そこまでひどくないんじゃない? 読みやすい字だと思うよ。筆遣いがたどりやすいから、読み間違えずに済む。行間のばらつきがあって、おおざっぱだなって感じはするけど」
沖田はぽかんと口を開けると、しかめっ面になって庭のほうへ視線をそらした。
「おれは書家でも何でもないから、人に見せるための字なんか書かない。手紙でも盗み見たの?」
「ごめん。きみの手紙、博物館で展示されてる」
「やめてよ」
「土方さんよりマシだと思うよ。土方さんは、俳句が印刷されて売られてる」
沖田は噴き出した。
「それはさすがに恥ずかしがって怒り出すかもね。いつか傑作ばかりを編んだ句集を作るんだとは言ってるけど、おれが知る範囲では、傑作はまだ一つも詠めてないから」
マスターがお冷やを持ってきてくれた。
「何にしはりますか? モーニング以外もできますよ」
「それなら、わたしはハンバーグがいいです。沖田はどうする? 肉は苦手だよね」
沖田は眉間にしわを寄せた。
「浜北さんは肉の料理を食うの?」
「肉を挟んだ……えっと、きみ、パンを食べたことってあるっけ?」
「パサパサした饅頭の皮みたいなやつ」
「たぶん合ってる。肉を細かく叩いて、丸めて焼いて、たれを掛けて味付けするの。それをパンで挟んだ料理がこの店の名物。ハンバーグって呼んでる」
一般的には、ハンバーガーだ。丸いバンズにハンバーグを挟んだサンドウィッチ。学子堂では、ずっと昔からハンバーグというメニュー名になっているらしい。
ちょっと考える顔をした沖田だが、やがて、へらっと笑った。
「何でもいいや。今、けっこう腹が減ってるから、何でも食うよ」
マスターは微笑んだ。
「承りました」
カラン、とドアベルが鳴った。学生らしきメガネの男が入ってきて、表扉にいちばん近い席に着いた。いらっしゃい、とマスターがそちらへ向かう。
喉がすぼまったように感じた。わたしは息苦しくて、背中を丸めた。
「どうしたの? 今来たやつ、会ったらまずい知り合い?」
沖田は、特に声をひそめるでもない。メガネの男にこちらを見られた気がする。
「知らない人だよ」
「じゃあ、何で急に顔色を変えたの?」
「あの人はまともな学生だから。あの人は、わたしと違って、ちゃんと大学に通ってる人だ。だから、このあたりを歩くときも平然としてる。わたしと違って」
沖田の声は、うつむいたわたしの頭のてっぺんを小突いた。
「あんたが何を言いたいのか、ちっとも意味がわからない。たびたびそんなふうだよね。あんたは何かを腹に抱えてるみただけど、それは何? 聞いてあげるから、おれに伝わるように話してよ」
「別に聞いてもらわなくてもいい」
「話しなってば。名に懸けて命じるよ?」
「それは卑怯でしょ」
衣ずれの音がして、わたしの視界に沖田の手が入ってきた。あごをつかまれ、無理やり顔を持ち上げられる。
「おれは切石さんと違って優しくないし、巡野さんと違って察しもよくない。話すべきことがあるなら、はっきり話せ」
「話すべきことなんて、別にない」
「あるだろう。あんたの中でごちゃごちゃに絡み合ってる問題に出口を見付けないと、あんたはおれをこの時代から解き放つことができない。そんなふうに聞いたよ」
「聞いたって、誰から?」
「寮長の更紗さん。あの人の目には、おれがしがらみの糸でがんじ絡めになってるように見えるんだって」
「しがらみの糸……」
「断ち切っちゃダメらしいね。あんたがおれに絡めたぶんは、あんたがきちんと巻き取ってくれなきゃならない。そのためには、まず、あんた自身がもっと解きほぐされる必要がありそうだ」
わたしは沖田の手を無理やり押しのけた。つかまれていたところが痛い。
「生身の人間であるきみをこの時代に引き寄せてしまったのは、わたしひとりのせいじゃない。きみのほうにこそ、大きな原因があるはずだよ」
「おれに原因が?」
「なぜ、もとの時代から逃げ出したいと思ったの?」
沖田は落ち着いていた。いっそ冷たいくらいの静かな目をしていた。腰に差したままの刀に、沖田の手はさりげなく触れた。
「まずはあんたが話せ」
わたしの背筋が粟立った。
「そういうやり方する?」
「おれはするよ。あんたとは育ちが違うんでね」
沖田は頬にえくぼを刻んだ。さあ話せと、笑顔が脅迫している。
その途端、わたしは理解してしまった。自分がこうやって追い詰められることを望んでいたのだ、と。
追い詰められなければ、わたしは、本音の一つも吐くことができないのだ。
***
デミグラスソースを温める匂いがしている。ハンバーグを焼く音がひっそりと響いている。
わたしはグラスのお冷で喉を湿した。光に誘われるように、ガラスの向こうの庭を見やった。沖田の視線はじっとわたしを追い掛けている。
胃の中で不快な痛みが暴れ出した。せり上がってくる吐き気を呑み込む。
ふさわしい言葉を、ようやく見付けた。わたしは口を開いた。
「引け目ばっかりなんだよ。自分でも理由がはっきりしないけど、とにかく大学に行けない。どうしてなんだろうって考えれば考えるほど、人と同じ普通の暮らしが送れない自分が情けなくなる。引け目が増えていく」
沖田が首をかしげる気配がある。
「大学って、毎日行かなけりゃいけない場所?」
わたしは訂正した。わたしが問題にしたいポイントは、大学に行くかどうかって、そこではないから。
「大学は、わたしたち学生が本来、所属しなければならない場所。それなのに、今のわたしには、所属することがつらい。そこに行かなきゃいけないからつらいというよりも、所属することそのものがきつくてしょうがない」
「所属すること? ただそれだけのことが、つらい?」
「それだけって言うよね、やっぱり」
だから、引け目ばっかりなんだよ。簡単なはずのこと、当たり前のことができないんだから。
「おれにはわからない。だから話してみてって言ってんだ」
「……わかってる」
「あんたは今、つらいことをしばらく遠ざけることにしている。休学って、そういうことなんだろう?」
違う。休学は、自分の意思できちんと選んだわけじゃなかった。
「無理してでも所属し続けようと思ってた。どんどん息苦しくなることに気付かないふりをしながら。でも、結局は去年の今ごろ、体が音を上げた」
「体が?」
「いきなり倒れた。頭の中でバチンって、何かが鳴るのが聞こえたの。その後はものすごい頭痛が来て、光も音も何もかもが強烈な刺激になって、痛くて苦しくて耐えられなくて、さんざん吐いて、気が遠くなって」
意識が薄れている間に病院に運ばれたらしい。倒れた場所が寮だったのは、不幸中の幸いだった。
うっすらと目覚めると、まるで金縛りみたいに全身がこわばっていた。このまま死ぬんだろうか。ぼんやりそんなことを考えながら、また意識を失った。
「切石さんが口ごもっていたのは、そのときのことか。人間を守りたくて強い姿を手に入れたのに、それが仇になったことがあるって、気まずそうにしていた」
「わたしが倒れたとき、切石は寮で暴れたの。この間の柴蔵の豚みたいに、聴く耳を持たずにね。寮生たちもさんざん手こずった」
「そりゃそうだろう。我を失った切石さんが暴れて、よくあの寮が吹っ飛ばなかったもんだ」
「切石はすごく責任を感じてるみたいだけど、全然、あいつが悪いんじゃないよ。わたしの頭がどうかしてたせいだから。わたしが切石をそんなふうにしてしまった」
「あんたのせいでもないと思うけどね。あんたの病は中風ってやつだったの? いや、中風はもっと年寄りが突然かかる病か」
中風とは、今で言う脳血管障害だ。
脳の血管が破れたり詰まったりすると、一命を取り留めたとしても、後遺症が残りやすい。突然倒れることと、その後に起こる体のまひや言語障害などをひっくるめて、昔は中風と呼んでいた。
わたしはかぶりを振った。
「わからない。ものすごい頭痛は、一晩寝たら引いた。意識がない間にいろんな検査をされたけど、異常は見付からなかった」
「体の病じゃあなかったのか? 栄励気が暴走でもしたのかな」
「どうなんだろう。何が引き金になったのか、それもわからなかった。いろんな原因が積み重なったせいだろうとは思うけど」
「原因って何? ああ、そうか。所属したくないって話に戻るわけか」
わたしはうなずいた。朝の光がまぶしすぎて、まぶたを閉じた。
「居場所の作り方とか居場所の持ち方とか、それがわからないんだ。子どものころから、居場所がなかった。家族や周囲にいじめられたわけじゃないよ。それでも、わたしは人と違うから、ここにいていいと思える場所はなかった」
「エレルギーだっけ。人工エレキに中毒を起こすから、そのへんで売ってる普通の食い物が食えない。病も呪いもよく拾う。人と同じ、まともな暮らしができない。自分は人とは違うって思っちまう」
「自分で自分を扱う術《すべ》がなかったし、みんなわたしを持て余していた。わたしは、ただ申し訳なかった。誰にも迷惑をかけない場所に行きたかった。そして京都に来て、寮で暮らすようになって、やっと居場所ができたと思ったんだけどね」
もっと張り合いがあって、もっと楽しい気持ちだった時期もあった。切石と巡野がいつもいてくれる。更紗さんから栄励気を練る術を教わって、できることが増えた。
わたしはもう無力ではない、と思っていた。居場所はここだ、と。
壊れ始めたのは、疲れたため息が増えたのは、いつだったっけ。
「沖田、きみにはわからない話だと思うんだけど、それでも聞く?」
「いいよ。聞くよ」
無力感が胸に渦巻いている。吐き出すことも断ち切ることもできない。
そもそも、無力感の正体そのものを、わたしはまだつかめていないんだろう。自分が何者なのか、一つもわかっていない。
「大学はいろんなことを学べる場所だと考えてた。探してたんだ。どこに目を向ければ、どんな力を付ければ、わたしは生きていけるのか。でも、学び続けるには、所属が必要なの。どこかの研究室を選んで、そこに所属しないといけない」
国史学、考古学、東洋史学、西南アジア史学、日本哲学、インド哲学、中国哲学、美学美術史学。
いろんな授業を受けていた。いろんなことがおもしろかった。まだまだたくさん知りたかった。知ることをおもしろいと感じ、おもしろく生きることが自分にもできそうだと感じた。
ふわふわした淡い希望の光がいくつも浮かんでいた。どれか一つなんて、選べなかった。
でも、選ばなければならなかった。枠の中に収まらなければならなかった。
「結局、国史研究室を選んだ。崩し字の演習は国史に所属していないと受けられないって言われたから。漢文演習やほかの外国語は、所属外の学生でも受けられたから」
流れの速いベルトコンベアに載せられているみたいだった。行き先は一つと定められた。立ち上がったら振り落とされる。
そのくらい速い流れでなければ間に合わないのだ、という話を聞いた。
就職活動をする間、文学部の学生はほとんど大学に出なくなる。課される選択は、彼らのスケジュールに合わせたものだった。あっという間に、彼らは学生から大人になっていくのだ。
彼らの生きるスピードはとても速くて、わたしはうまく付いていけなかった。一緒に行くのはあきらめた。わたしはわたしのペースで行けばいい、と思うことにした。
たくさん学びたい。だから大学に残って進学して、もっと勉強する。こつこつと、少しずつ。まじめにやることだけが取り柄だ。
それが自分の道だと、自分で自分を納得させた。
ところが、何もかもが裏目に出るんだ。
「いろんな分野の講義や演習に顔を出していたら、義理のない不まじめな人間だって言われた。いっぱいいっぱいだったけど、勉強には手を抜かなかったから、それで許してもらえると思ってたのに……義理って何のことだろうって、わからなくて」
ただ、嫌われたことだけはわかった。
わたしを嫌ったのは一部の人々だったかもしれない。でも、その人々は、研究室全体を担っているかのように「我々は」と言った。「我々対あなた」だった。
「所属しなければならない場所に、丸ごと嫌われた。そんな気がした。それじゃあダメだって焦って、毎日、朝いちばんに行って研究室を掃除したりとかね。ちゃんと所属するための努力をしたんだよ」
研究室の雰囲気はよかったはずだ。そこに入っていけない自分が情けなかった。努力しなければ普通に振る舞えない、努力しなければ所属することすらできない、そんな自分が悲しかった。
わたしは無理をしていたんだろうか。
なぜその程度のことが無理だったんだろうか。
「居場所、やっぱりないんだよね。去年の十一月に倒れて、そのまま大学に行けなくなって、今年は休学。復学できる気がしない。いっそ消えてなくたりたいよ。職業を選ぶどころか、自分が生き続ける将来がまったく思い描けない」
カツ、カツ、と革靴の足音が近付いてくる。マスターだろう。沖田が顔を上げる気配があった。
マスターの柔らかな声がした。
「お待たせしました」
わたしはうなずくふりをしてうつむいた。沖田がわたしの代わりに、思いがけないほど優しく、ありがとう、と言った。
その優しい響きのせいだ。きつく歯を食い縛ったのに、閉じたまぶたの内側に涙を抑えておけなくなった。
カチャ、カチャ。ごく控えめな音を立てて、マスターがテーブルをセットする。呑み込む嗚咽《おえつ》に、コーヒーの香りが混じった。
「それでは、ごゆっくり」
革靴を鳴らしてマスターが離れていく。タイミングを計っていた様子で、沖田がわたしの肩をつついた。
「ほら、まず顔拭いて」
横目を薄く開くと、ブルーのハンカチが差し出されていた。わたしはハンカチをひったくって、目元を押さえた。
「ハンカチなんて持ち歩いてたんだ?」
「巡野さんに持たされた」
「そこで種明かしするのは興ざめだと思う」
「そうかい。嘘や演技は苦手でね」
わたしは何度もまばたきをして、沖田に向き直った。沖田が真剣な顔をしていたから、驚いた。
「何でそんな顔してるの?」
「バカなこと訊くね。嘘や演技は苦手なんだってば」
「聞き流してくれてよかったのに」
「聞けって言ったのはあんただし、おれもちゃんと聞くって言った。聞かなきゃって気付いたんだ。おれが探してる答えは、きっと、あんたの話の中にあるんだって」
「答え? そんな明快なもの、わたしは持ってないよ」
「持ってるよ。教えてよ。いなけりゃいけない場所に所属することさえ苦しいって、それはどういう気持ち?」
「え……」
「やっぱりおれにはわからないんだよ。まわりと違う考えを持ったら、所属しているということ、それは鎖でしかなくなるの? 所属という鎖につながれっぱなしじゃあ、倒れちまうくらい、逃げ出したくなるくらい、死にたくなるくらい、つらいのか?」
沖田の唇が震えた。張り詰めた目に日の光が映り込んで、鋭いほどに輝いている。
「それは、本当に、わたしが答えるべき問いなの?」
本当に答えてほしい人は、わたしではない。ほかにいたんじゃないの?
ふい、と沖田は顔を伏せた。
「食べようか」
幕が下りた、と感じた。
わたしが語るべき言葉は、今は尽きた。
沖田は、湯気を立てるコーヒーにミルクと角砂糖を入れた。わたしはミルクだけ入れる。
「きみ、本当に甘いものが好きだね」
「コーヒーは、香りはこんなに甘くて香ばしいのに、味がきついからね。苦いのは好きじゃないんだ」
わたしはカップに口を付けた。白い陶器は温かい。唇が冷えていたことを知る。学子堂のコーヒーは、ミルクを入れるとまろやかで、少し酸味がある。
一年ぶりの味だ。おいしい。
ハンバーグセットはごくシンプルだ。ハンバーガーと、付け合わせは自家製ポテトサラダで、赤いサクランボが添えてある。
沖田はハンバーガーを手に取った。挟んだ形を崩さないまま、パンとパンの間をしげしげと観察する。
「食べるのが不安?」
「これ、何が入ってるんだって?」
「肉を叩いて丸めて焼いたものと、輪切りにした玉ねぎ。たれは、野菜や香辛料を煮詰めて作った洋風のもの。全部まとめて頬張って食べる」
手本を見せるつもりで、わたしが先にハンバーガーをかじった。
柔らかすぎないパン、ジューシーすぎないハンバーグ、濃厚すぎないデミグラスソース。邪魔するもののない、素っ気ないくらいの味わいは、おにぎりを思わせる。わたしはこれが好きだ。
ちょっと顔をしかめて一口かじった沖田が、あ、と声を漏らした。
「うまいね、これ」
そして大口でかぶり付く。
「肉だけど、平気?」
沖田はうなずいた。もぐもぐしながら笑った口の端に、デミグラスソースが付いている。
カラン、とドアベルが鳴る。いらっしゃい、とマスターが言う。学生らしき人が、慣れた様子で席に着く。客は早口の小声で何かを注文し、マスターも心得顔で応じる。
一年ぶりに再会した、馴染みの光景だ。見るともなしに見ていたら、マスターと目が合った。
どうぞごゆっくり、とマスターは唇の形で告げ、微笑んだ。目尻にはカラスの足跡のような優しいしわが刻まれている。
大丈夫だ。この場所は、怖くない。
「浜北さん」
「何?」
沖田が、フォークにすくったポテトサラダをわたしの口元に差し出した。
「これは何? どんな味?」
「イモをゆでてつぶして味付けした料理。寮でも出たことあるはずだけど」
「何なのかわからなくて食わなかった。味見してみせてよ」
口答えしようとしたら、すかさず口の中にポテトサラダを突っ込まれた。ほくほくしたイモの食感が強い。
「……ほら、食べられるから」
沖田は、ふぅん、とハミングするような声を漏らすと、あろうことか、わたしの皿のポテトサラダをフォークでかっさらっていった。ぱくりと頬張る。
「悪くないな、これも」
「じゃあ、次に寮食で出たら、好き嫌いせずに食べなさい」
「はいはい」
沖田の口の端には、まだデミグラスソースが付いている。でも、教えてやらない。
カラン、と、またドアベルが鳴った。わたしの好きな、朝の喫茶店の時間が、ゆるゆると優しく流れていく。
文学部の西棟は新しい建物だ。東棟は逆に、木造の床が抜け落ちそうなほどに古く、地下には何が潜んでいるやら皆目見当も付かない。
わたしは古い東棟のほうが好きだ。西棟は何だか息苦しい。
学園祭期間中はすべて休講になるから、西棟の入口も休祝日と同じように施錠されていた。センサーに学生証を触れさせて待つと、カチッと音がして扉のロックが解除される。
その途端、学生証を持つ手にピリッと痛みが走った。
「いつッ……!」
取り落とした学生証を、ひょいとかがんだ沖田が空中でつかまえた。
「こんな鍵があるんだな。人工エレキとやらを使った仕掛けかい?」
「そうだよ。わたし、この扉、苦手なんだ。いつもバチッてなる」
沖田から学生証を受け取って、扉を押す。
しんとした館内に入る。扉は背後で閉じた後、ジーッと音を立ててロックされた。
沖田は、機能性一点張りのホールを見渡した。
「これはまた殺風景だね」
「現代の建物には、こういうのも多いよ」
「ふぅん。それで、あんたが所属しなけりゃいけない場所っていうのはどこ?」
「上の階だよ」
階段はホールにも増して、つるりと白くて殺風景だ。へえ、と漏らした沖田の声が反響した。沖田はわたしに目配せをして、案内を促す。
学子堂ではゆっくり過ごしてきた。コーヒーをおかわりして、庭にも少し出て。とはいえ、まだ学園祭は始まらない。
どうやって時間をつぶそうかと思っていたら、沖田が「大学という場所を見てみたい」と言った。わたしが籍を置く文学部を。
わたしは唇を噛み締め、階段に一歩、踏み出した。
心臓がざわざわと鳴っている。肩で息をする。首筋の毛が逆立つように感じる。
立ち止まるな。
一段、また一段。大丈夫。上っていける。
足音もなく、沖田が付いてくる。
体が重い。でも、ちゃんと動く。頭は痛くならない。
恐怖感とも嫌悪感ともつかないものが喉を絞め上げる。呼吸が乱れる。胃の中で鈍痛がうごめく。吐きそうになる。
一段、また一段。上る。上る。上る。
踊り場で、わたしはビクリと固まった。
廊下を歩く複数人の足音と、にぎやかに交わされる会話。研究室のある階だ。会話に、知った名前が登場した。日本中世史の教授の名前。
隠れたい、と思った。
間に合わなかった。
国史研究室の先輩たちが廊下から現れた。しゃべりながら階段を下りてくる。彼らと、踊り場で固まったわたしと、視線が合った。
呼吸ができない。
彼らはスッと目をそらした。わたしを避けた、というわけではなさそうだった。
おそらく彼らは、わたしが国史研究室の院生だと気付いていない。覚えていないのだ。わたしを批判したことはおろか、わたしが自分たちの後輩であることすら。
赤の他人と行き違うかのような、温度のない無視だった。先輩たちはしゃべりながら階段を下りていく。
わたしは固まったままだった。いや、がちがちにこわばっていたわけではない。震えていた。
足音と声が遠ざかっていく。何をしゃべっているのか、言葉が聞き分けられない。殺風景な階段に、わんわんと尾を引く反響。
はあ、と沖田が息をついた。
「あんたはわかりやすいね」
肩に温かい手が置かれた。その途端、金縛りが解けたかのように、わたしは呼吸ができるようになった。
「……わかりやすい?」
「今の人たち、倶利伽羅峠の戦いがどうのこうのって言ってた。いくら学のないおれでも、源平合戦くらいはちょっと知ってるよ。あの人たちが国史研究室とやらの?」
「先輩だよ。わたしの顔も覚えてなかったみたいだけど……国史研究室は学生の人数も多いし、仕方ないかな」
「一人だけ気付いたみたいだったよ。立ち止まってこっちを見て、何か言おうとしてた」
わたしは、ひゅっと息を呑んだ。
沖田は眉尻を下げて笑った。
「そういう顔しそうだなって思ったからさ、とっさに相手のこと、にらんじまった。そしたら、慌てて頭を下げて行っちゃったよ」
「……誰だったんだろう?」
「心当たり、ないの?」
わたしは唇を噛んだ。頭に靄《もや》がかかっているみたいだ。
先輩たちの名前が思い出せない。一年前まで、できるだけ毎日、先輩たちと顔を合わせようと努力していたのに。本人たちが去ってしまうと、顔も声も、もうおぼろげだ。
同じじゃないか。
わたしのことをろくに覚えていない先輩たちと、わたしは同じだ。大事な後輩だと思ってもらえないのは、わたしが彼らを大事だと思っていないから。
「全部、自分に返ってくるんだよね。よくないおこないや、正しくないおこない。うわべだけの親切とか、おためごかしとか、その場をやり過ごすための嘘とか」
「間違ったことしたって思ってる? それとも、悪いことした、なのかな」
「どっちも」
「でも、あんたはまじめにやってたんだろう?」
「空回りしてたみたい。誰のためにも、何のためにもなってなかった」
沖田は、すねたように眉根を寄せた。
「全部返ってくるなんて嘘だ。あんたがまじめにやってたぶんを、誰もあんたに返してくれやしなかったんだよ。ちゃんとやってたんなら、どうしてあんただけ、しけた顔をしているんだ?」
声がしたのは唐突だった。
階段の上から、聞き慣れた穏やかな声が降ってきた。
「おや、浜北さん。こちらで会うとは珍しいですね」
「弦岡先生……」
いつの間にそこにいたんだろう? 物音も気配もなかった。ハッとした沖田が身構える。
分厚い本を数冊抱えた弦岡先生は、きちんと足音を立てて階段を下りてきた。
「東洋史研究室の学生さんに貸していた本が急遽必要になりまして、回収しに来たところでした。国史研究室では院生主体の読書会が開かれているようでしたが、浜北さんはそちらに用があるのですか?」
「いえ、あの……」
読書会という名のゼミで読むのは、戦前の国史研究者の著作だった。古めかしい言葉で書かれ、考え方も古めかしい。研究対象とされた過去と、それを研究する歴史学者が生きていた当時という過去。入れ子になった二重の過去を両方とも勉強する必要があった。
確か、発表の担当になったことがある。
だけど、待って。誰の著作を読んでいたっけ? いつの時代を調べたっけ? 発表したとき、何を言われたっけ?
今日は何曜日だっけ? 読書会は何曜日に開かれるものだったっけ?
読書会、おもしろかったっけ? それとも、嫌なことでもあったんだっけ?
覚えていない。研究室に行けば思い出せるだろうか。
でも、もう体が動かない。研究室のある階へ上るのは、途方もない重労働だ。
わたしは情けなくなってうつむいた。弦岡先生の革靴が視界の中で立ち止まる。ほどよくくたびれた、光沢のある茶色。
「無理はお勧めしませんよ。いろんな選択肢があるはずです。もとの所属研究室だけがあなたに学位を与える権限を持っているわけではない。そうでしょう?」
わたしはうなずく。ますます深く下を向く。
学位って何だっけ? なぜそれがほしかったんだっけ? それさえあれば、わたし、生きていけるんだっけ?
肩に、また、温かい手が載った。さっきはすぐ離れていった手は、今度はちょっと力を込めて、わたしの肩を抱いた。
沖田がいくぶん硬い調子で言った。
「ここへ案内しろって頼んだのはおれだ。浜北さんは最初から嫌がってた」
ああ、と弦岡先生は得心したらしい。
「あなたが、沖田さんですか?」
「そうだよ。見りゃわかるだろう?」
「いえ、確信が持てませんでした。私は、新撰組の沖田総司という人物の顔を知りませんから」
「あんたは誰?」
「弦岡といいます。浜北さんを国史研究室から引き抜こうとたくらんでいる、腹の黒い一教員ですよ」
引き抜く。わたしを。
驚きに弾かれ、わたしは顔を上げた。
弦岡先生は控えめに、にこにこと微笑んでいる。
「浜北さん、せっかく彼に大学を案内するなら、何も休講の日の棟内にいつまでも足を止めることもないでしょう。屋外を散策してごらんなさい。あちこちで木々の紅葉が見られます」
弦岡先生はそれだけ告げると、会釈をして、階段を下りていった。
ぽん、と沖田が私の背中を叩いた。
「それじゃ、あの先生のお勧めに従って、外に出ようか」
肩と背中と。沖田の手が触れたところから、ぬくもりが広がっていく。沖田はわたしの手首をつかんで、ゆっくり歩き出した。
「ここまででいいの? 研究室、見たかったんじゃない?」
「別に。もう十分」
「気分屋だよね。きみが何をしたいのか、わたしにはよくわからない」
階段を下りていく。手首をつかまれているせいで、足下がかえって不安定だ。間延びしたリズムで、一歩一歩、わたしは研究室から遠ざかる。
沖田は喉の奥で小さく笑った。
「ない居場所って、どんなものなんだろうなって。それを見物してみたかっただけ」
「……所属すべきなのに所属できない場所、ということ?」
「そう。おれ、考えるのは苦手だし、話を聞いて思い描くのもうまくない。じゃあ、この目で見れば何かわかるかなって気がしたんだけど」
「何でそんなこと知りたいの? きみには帰る場所があるでしょ?」
「あるよ。そこに居場所がないなんて思ったことないよ。居場所があるのにこんな病持ちの体だから、うんざりするけどね」
「じゃあ、どうして?」
沖田は答えなかった。またほんの少し笑う。そして、まったく別のことを言った。
「あんたもさ、まじめにやったぶん、ちゃんと返ってきてるじゃないか。おれ、あの先生は嫌いじゃない感じがしたよ。たくらみに乗ってあげたら?」
不意打ちだ。
「でも」
「所属とやらへの義理立て? 自分が選んだ道だから変えられない? ない居場所なんか、捨てっちまえばいいだろう。少なくとも、死ぬってわかってて古い道にしがみ付くより、薄情でも何でも、生きてたほうがマシだ」
沖田はわたしの手首を離さないまま、かたくなに表情を見せなかった。次第に押し殺されていく声は、しかし、殺風景な階段に反響して、残酷なほど鮮明に聞き取れてしまった。
***
時計台に張り付く人々がいた。茶色いレンガの壁面にハシゴを掛け、続々とよじ登っていく。
「あれは何をやっているんだ?」
沖田はぽかんとして彼らを見上げた。わたしは肩をすくめた。
「熊野寮の連中だよ。時計台の上から拡声器で主張を叫ぶのが恒例行事になってるって聞いた」
「ああ、雑巾がけのときの。いちばん上にいるのは、あのとき渡辺って呼ばれてた人だね。でも、あんなところで叫ぶのって意味あるの?」
「さあ? 暴力という手段を使わずに世直しを訴えるには、ああやって目立つことをするのがいいらしいよ。彼らが言うにはね」
以前、あんなふうに時計台を非暴力占拠する人々をじっくり見物したことがある。高いところに立って拡声器で叫ぶ姿は確かに学生たちを惹き付けたが、肝心の世直し主張はひどく音割れして、まったく聞き取れなかった。
沖田は腰の刀に触れた。
「頭のいい人たちが言うことは、いつの時代も同じなのかもしれないな。おれには、語るための言葉がない。刀を抜く以外の方法は知らない。間違ってるとしても、この頭は今さらよくなりやしないしな」
わたしは思わず、一つの名前をつぶやいた。
「伊東甲子太郎《いとう・かしたろう》」
沖田は振り向いた。貼り付けたような笑みだった。
「そうそう。伊東さんも言葉で訴える人だ。あの人が新撰組に加わったのは、山南さんが死ぬちょっと前だったな。山南さんも伊東さんも、二人とも学者先生みたいに頭がいいから、一緒に難しいことをしゃべりながら茶を飲んだりしてたよ」
「新撰組では、伊東甲子太郎、異端なんじゃない?」
「異端って何のことだろうね。新撰組は大きくなった。いろんな人がいるよ。あんたも伊東さんのことが嫌い?」
「きみは?」
「どうでもいい、だな。おれが好きなのは自分の刀と、近藤さん、土方さん、永倉さん、原田さん、井上さん、斎藤さんに平助、そして山南さん。江戸から一緒に出てきたみんなのことだけでいっぱいいっぱいだ」
新撰組の中核だった古参メンバーの名を挙げるときだけ、沖田の笑みがやわらいだ。
「好きでも嫌いでもなく、どうでもいい、か」
「余計なことは考えたくない。考えるのって、くたびれるだろう」
「そうだね」
沖田は時計台を見上げた。いや、見上げるふりをしただけかもしれない。きっと、その目に映っているのは、レンガの塔でも十一月の青空でもない。
「おれが人間に生まれたのは、何かの間違いだったんじゃないかな。おれは刀に生まれたかった」
「刀……戦うための武器に?」
「近藤さんか土方さんに使われる刀だったらよかった。いや、近藤さんは荒っぽい振り回し方をするし、土方さんはもっとずっと荒っぽいから、無駄のない剣筋の斎藤さんがいいかな。斎藤さんは刀の手入れもすごく丁寧だし」
「大事にされたいんだね」
「そう、大事にされたい。そして、おれが大事だと思ってる人の役に立ちたい。考えるのが下手な悪い頭なんかいらないし、病にかかって動けなくなる不便な体もいらない。ただの刀がいい。手入れされればいつまでも輝いていられる刀になりたい」
「刀は折れるんじゃない?」
「そりゃね、おれも折ったことあるよ。気に入ってた打刀。帽子のとこで折れた。術が使える刀鍛冶を探して、無理やり破断の位置を動かしてもらって、脇差に造り直した。変な力をかけちゃったから、もとの茎《なかご》から真ん中あたりまで、粉々に砕けちゃったけど」
時計台のまわりには見物人が集まりつつあった。アニメやゲームのキャラクターに扮したコスプレイヤーがけっこう多い。普通の和服のわたしや沖田は、だいぶ地味なほうだ。
わたしと沖田と、どちらからともなく歩き出した。
キャンパスは古い建物と新しい建物が入り交じって、雑多な印象だ。どの建物のそばにも広い駐輪場がある。そろそろ客の姿が増えてきた構内を、自転車の群れがすいすいと走っていく。
巡野がもといた陳列館は、大正年間に建てられたネオバロック風の洋館だ。外壁はグレーで、扉や窓枠や屋根には淡いグリーンが使われている。傍らに立つ木々は秋の色に染まっていた。
洋館を背に、沖田は振り向いた。
「この建物、古いんだね?」
「きみがいた時代のほうが古いけどね」
「そうなんだよな。ピンと来ないよ。変な気分だ。ねえ、おれたちの時代って、いつ終わったの?」
ごく軽い調子で投げられた問いに、ぎょっとする。
「終わったって、何が……どういう意味で?」
沖田は刀の柄をさらりと撫でた。
「ここでは誰も帯刀していない。武士はどこに消えたんだ? 郷士だった近藤さんも土方さんも、きちんとした武士の身分を得るために必死だったのに、この時代にはもう、武士であることって何の意味もないの?」
この時代には、という言い方は悠長に過ぎるだろう。
沖田の知る武士の時代とは、徳川幕府が政権を握っていたころのことだ。沖田は一八六六年の秋からやって来た。徳川幕府が大政奉還をおこなうまで、あと一年しかない。
明治と年号が改まると、明治三年には廃刀令が発布され、武士の特権である帯刀は禁じられた。明治十年、すなわち一八七七年の西南戦争をもって武士の時代が完全に滅んだ、という言い方をする人もいる。
もしも沖田が肺結核を悪化させず、幕末から明治初年にかけての戦乱を生き抜くことができ、天寿をまっとうする運命にあったならば。
帯刀を禁じられ、武士が絶滅するという出来事は、人生の前半のうちに経験したことになる。新撰組の数少ない生き残り、永倉新八や斎藤一が実際にそういう人生を送った。
言葉を見付けられないわたしに、沖田はひらりと手を振ってみせた。
「別にいいよ。おれたちの行く末を知りたいわけじゃないんだ。むしろ、知りたくない。おれ自身の死にざまだけは、ちょっと気になるけどね」
「それも言えないよ」
「だろうね。だから訊かない。じゃ、行こうか」
「どこに?」
「決まってるだろう。祭りとやらに、だよ。そろそろ始まるんじゃない? 音楽が聞こえてくるよ」
沖田は、にぎわい出した空気がそのあたりに固まっているかのように、空のほうへ向けた人差し指をくるくる回してみせた。
***
学園祭って、いつからあるものなんだろう? 誰が何の目的で、こんなことを始めたんだろう?
せっかく案内をするのなら、きちんとした説明をするほうがいいんじゃないか。そんな考えもチラッと浮かんだが、どうでもいいやと思い直した。
沖田がものごとの由来や歴史をいちいち知りたがるはずもない。万一知りたがるようなら、後で巡野に説明させよう。
グラウンドは、おまつり広場と名付けられていた。学生たちによる模擬店がずらりと並んでいる。
沖田は目を輝かせた。
「祭りだね!」
「きみの知ってる祭りの景色に似てる?」
「音楽が鳴って、屋台が並んで買い食いができて、人がたくさんいて、あっちには舞台もある。祭りじゃなかったら何だ?」
「こういうのは好き?」
「たぶん好き。数えるほどしか行ったことがないから、たぶんとしか言えないけど」
沖田は両親を早くに亡くし、幼いうちから近藤勇の道場の門下生として育てられたという。祭りに行ったのは、いつ、誰とのことだったのだろう? 江戸で? それとも京都に移ってきてから?
「わたしもあんまり祭りには行ったことがないよ」
「知ってる。案内しろとは言わないよ。巡野さんが抜かりなく、見どころをまとめた書付を寄越してくれたから」
沖田は袂《たもと》から紙片を取り出し、ぴらぴらと開いてみせた。流麗な行書体によるメモが、器用なことにボールペンの筆跡で書き付けられている。
「巡野は字がうまいよね」
「むしろ今の時代の教育が生ぬるいんですって言ってたよ。学問を志す人なら、書や詩歌や漢文くらいできて当たり前でしょうって」
「真に受けないで。あいつのころでも、よっぽどちゃんとした家柄のお坊ちゃんじゃない限り、そんなにきちんとした教育は受けられなかったはずだよ。何て書いてあるの?」
「どの店のものなら食っていいか、全部書いてくれてる。古代米の焼きおにぎりとか、素材にこだわったタコせんとか、信州の大学の連中が売りに来る林檎とか。浜北さんはどこかに用があるんだっけ?」
「本を買いに行く約束をしてるの。それはこの広場の出店じゃなくて、建物の中で部屋を借りて店を出しているはずなんだけど」
「屋内企画っていうやつ? 化け物小屋もあるらしいね」
それは水泳部のお化け屋敷のことだろうか。あるいは、ランニング同好会の美脚女装喫茶のことだろうか。どちらも、一年ぶんの活動費を稼ぐために、命懸けの気迫で企画を作り上げるという。
巡野のメモを見ながら、沖田は目を輝かせている。わたしは呆れた。
「化け物小屋なんて興味あるの?」
「ずいぶんイヤそうな顔をするね。あ、もしかして怖いのか?」
「そんなんじゃない」
「よし、じゃあ行ってみよう。度胸試しだ」
沖田はわたしの手首をつかんで歩き出す。
「ちょっと。ねえ、歩きにくいよ」
「はぐれるよりいいだろう?」
「手首つかまれて引っ張られるのって、連行されてるみたい」
「ああ、壬生狼のおれが相手役なら、そういう物騒なのがちょうどいい」
沖田は、からりとした笑い声を上げた。手をつなぎ直すでもない。痛いくらいの力でわたしの手首をつかんだまま、半歩先をすたすた歩く。
どこで何の企画がおこなわれているのか把握していないのは、わたしも沖田も同じだ。呼び声や音楽に誘われ、気の赴くままに、ふらりと建物に入ってみる。
学部生のころには全学共通科目で毎日利用していた場所が、今日はすっかりお祭りムードに染まっている。
あちこちに弾ける、色づいた空気。マンドリンの生演奏。超絶技巧のジャグリング。エレクトーンと雅楽のコラボレーション。小劇団による即興寸劇。