沖田総司を拾ってしまった。
墓前に手を合わせ、振り返ったら、いた。一輪の花を手に、立っていた。
刀を二本差している。総髪はざっくりした髷《まげ》に結ってある。全身がうっすらと透けている。
「うわ、本物」
またやってしまった。引き寄せてしまった。
沖田総司《おきた・そうじ》だ。名を訊くまでもない。直感的に理解した。なぜなら、わたしが今まさに思い描いていたのが、墓の下に眠る人ではなく、沖田だったから。
風が吹いた。
マリオネットの糸が切れるように、沖田は倒れた。一つ咳をする。震えた体が、すうっと透け始める。
時が歪んでいる。のみならず、世の境目が歪んでいる。この世とあの世の距離が、今この場所だけ、ひどく近い。
ざわり。
首筋のうぶげが逆立った。
風が起こった。いや、風に似た何かが。地の底から吹き上がってくるような何かが。空気の揺らぎとは違う、風に似た何かが。
切石《きりいし》が言った。
「悪い気が起こりよる。あかんな。この男、引きずりこまれるで」
「どこに?」
「わしが知るかいな。わしは生まれたときからずっとこの世のものやさかい」
「ほっといたらどうなる?」
「消えるんちゃうか? ここからも、もとの場所からも」
沖田が身じろぎをする。
かさり。
消え入りそうな衣ずれの音に誘われ、わたしは一歩、踏み出した。沖田のそばに身を屈める。
沖田がささやいた。
「さ、な、さん……?」
どきりとした。
「はい」
返事をしてしまった。さな、というのはわたしの名前だ。
ずん、と、心臓が圧迫された。一瞬、呼吸が止まった。わたしのものではないリズムで、呼吸が再開される。
これは契約だ。名を呼ばれ、応じた。わたしの存在が沖田に紐付けられた。
巡野がわたしの肩をつかんだ。
「何をしているんですか、さな! このままではあなたも消えますよ。あちらの世界に片足を突っ込んだら正気を保てなくなります。早く何か対処してください!」
声に焦りがにじんでいる。
わたしは袂《たもと》の巾着袋から、金平糖を一粒つまんだ。沖田の口元に金平糖を押し付ける。
「食べて。ひとかけらでもいい。飲み込むことができたら、こっちの世界に留まれる」
沖田の目がぼんやりと金平糖をとらえた。わたしは沖田の口に金平糖を押し込んだ。乾いた唇は思いがけず柔らかく、そして熱かった。
かり、かり。
金平糖が噛み砕かれる。ああ、と、沖田はかすかに微笑むように息をついた。
「甘い」
飲み込んだのだろう。沖田の体が質量を持った。熱を帯びた。半ば透き通っていた色が、はっきりと、この世のものになった。
これもまた契約だ。ただし、今度はわたしが主となって結んだ契約だ。
巡野は額に手を当てた。
「さな、あなたはまた面倒なことを」
「しょうがないでしょ。対処しろって言ったのはきみだよ」
「確かに言いましたけどね。ほかの方法は」
「思い付かなかったの」
「しかしまあ、なぜこんな人を呼んだんですか? 幕末の人斬りですよ。記録が十分とは言えず、人間性も不確かです。二十一世紀に招いてしまって、どうするつもりですか?」
「知らないよ。気付いたら、いたんだもん。そもそも、わたしのせいだけじゃないよ。人と人ならざるものの間に架かる道は、呼び合わなきゃ通じないんだから」
「彼は人のようですがね」
「そのくせ、人ならざるものしか通れないはずの道を通ってここに現れた。通らなきゃここには来られない。意味わかんないよ」
切石が沖田を指差した。
「わけありっちゅうことや。ほんで、大将、こいつをこれからどないしよか?」
「どうって、捨てていくわけにもいかない」
「せやな。拾って帰ろう。病の気配も濃いいし、面倒見てやらんとな。こいつがここに来た意味も、追々わかっていくやろ」
切石は長身をかがめると、猫でも抱え上げるように、ひょいと沖田を肩に担いだ。
***
そんなわけで、沖田総司を拾ってしまった。
壬生《みぶ》でバイトをした帰りだった。バイトというのは、いわゆる除霊だ。さして珍しいタイプの案件でもなかったから、特筆する必要もない。
光縁寺《こうえんじ》という浄土宗の寺が、壬生にある。
新撰組が壬生に屯所を構えていたころ、当時の住職が新撰組の一部メンバーと親しくしていた。その縁で、光縁寺の本堂の裏手には新撰組の隊士たちの墓が設けられている。
せっかく近所に行ったのだから、墓参りをするのは自然な成り行きだった。わたしは歴史あるものが好きだ。過去に生きた人々に思いをはせるのも好きだ。
付喪神《つくもがみ》の切石灯太郎《きりいし・とうたろう》と幽霊の巡野学志《めぐりの・がくし》を引き連れて、わたしは、新撰組総長たる山南敬助《さんなん・けいすけ》の墓前に手を合わせた。
そして気付いたときには、同じく墓参りに来たという沖田総司《おきた・そうじ》を、およそ百五十年向こう側から呼び寄せてしまっていた。
どうしてこうなった?
左京区は元田中にある寮に連れ帰っても、沖田は目を覚まさなかった。いや、一応起きてはいたのかもしれないが、発熱して気だるかったようで、呼んでも返事をしなかった。
沖田は案外ありふれた姿をしている。二十代前半の痩せた男だ。長髪で和装なんてキャンパス内でも見掛けるし、もっと凄まじい格好の人もざらにいる。
伝承に違わず、沖田は病人だった。肺結核を患っている。病巣の広がりの割に症状が表に出ないのは、内蔵する栄励気《えれき》が人並み外れて充実しているせいだろう。
二日、三日と顔を合わせて過ごすうちに、わたしはひそかな落胆を抱くようになった。
「思ってたのと違う」
つい本人の前でこぼすと、沖田は、くいっと眉を掲げた。
「期待していたのかい? 非の打ち所がない色男だとでも?」
「そこまでじゃないけど」
「あいにくだね。これがおれさ。そこ、どいてくれる?」
「どこ行くの?」
「部屋で寝る」
「今から食事の時間だってば」
「いらないよ。そこ、どいて」
「こら待て。新撰組にも規律くらいあったでしょうが」
「どうだったっけ? そんな面倒くさいものを全部覚えているのは、土方《ひじかた》さんくらいじゃないかな」
「面倒くさいって言うほど込み入ったものじゃないと思うんだけど? 士道に背くことと脱走と勝手な金策と勝手な訴訟を禁じてて、違反したら切腹でしょ」
「へえ、覚えてるんだ。大したもんだね」
「どーも。おいちょっとこら待てってば! この寮にも規律があるの! 食事の時間がおおよそ決まっています、その時間には食堂に顔を出してくださいって、そういう簡単な決まり事くらい守ってよ!」
沖田は涼しい顔で笑うばかりだ。
「腹が減らないんだから、食わなくてもいいだろう」
「減らせ。食べろ。甘いものをつまんでるだけでしょ。体が持つはずがない」
「食いたいものがない」
「好き嫌いするな」
「するよ。あんたたちはどうして獣の肉なんか平気で食えるんだか」
「郷に入っては郷に従え」
「嫌だよ」
指示が通らない。お願いも聞いてもらえない。怒っても暖簾に腕押しだ。のらりくらりと、沖田は自分のやりたいようにしかやらない。
腹が立つ。でも、わたしは強く出られない。沖田をこの時代へ呼び付けてしまったのは、わたしの体質が原因だ。切石、巡野に次いで、これで三度目。
うっかり契約を結んだことを、沖田は盛大に呆れた。
「おれはあんたの名前なんか呼んじゃいなかったんだ。熱があって、ぼーっとしていて、そこに山南さんがいるように感じた。それで、呼んだんだよ。サンナンさんって」
それをわたしは、さな、という自分の名前が呼ばれたのだと勘違いして返事をした。そして契約を成立させてしまったというわけだ。
どうしてこんな扱いにくいやつを、わたしは引き寄せてしまったのだろう? 切石も巡野も、何だかんだ言いつつ、わたしの意思には従ってくれるのに。
頭を抱えるわたしとは裏腹に、切石は平然としている。
「ほっとけ、大将。あいつの好きにさせたらええやん」
「ダメだよ。野放しにはできない。栄励気に満ちていた時代から来た人間が現代の人工エレキに触れたら、拒絶反応が起こるくらいはまだマシ。下手したら発狂したり暴走したりするかもしれないんだよ。あいつが暴れたら危なすぎる」
「危なすぎるか。巡野も言うてはったけど、あいつ強いんやて?」
「らしいね。沖田総司は天才的な剣の使い手だった。新撰組でもトップクラスの強さを誇ったというけど」
「ええなあ。いっぺん手合わせしたいわ」
屈託なく大口を開けて、切石は笑った。
切石灯太郎と名乗っているこの男、もとは石灯籠だ。鎌倉時代に北白川の山中から切り出され、不動明王の印を刻まれて造られた。
人に似た姿を取るようになった今は、不動明王と聞いて納得の筋骨隆々たる美丈夫だ。灯火の色をした豊かな髪。目は、年月を経て深みを増した御影石の色をしている。
一方、元幽霊で今は地に足が着いてしまった巡野学志は、繊細で硬質な美貌の持ち主だ。ルックスに違わず、神経質なところがある。
「手合わせはよしてください。切石さんも沖田さんも、栄励気の量が生半可ではないんです。あなたたちが本気を出してぶつかったら、この御蔭寮《みかげりょう》など、簡単に吹っ飛んでしまいますよ」
「わかっとる、わかっとる。ここではやらんて。ま、何も破壊しいひん場所でやるんなら、ええやろ?」
巡野は、やれやれと頭を振った。黒髪がさらさらと揺れた。
「そんな場所がどこにあるというのですか。西暦二〇一〇年代に入ってから加速度的に構築された人工エレキのネットワークに抵触することなく、あなたが心置きなく栄励気を解放できる場所なんて、日本にはもう残されていませんよ」
人工エレキだのネットワークだのと現代的な口ぶりだが、巡野は太平洋戦争中に自殺した文学部生だ。欧米趣味に傾倒し、戦争協力を死ぬほど嫌った挙句に死んだという。カタカナにあふれる現代にこそ馴染むのも道理かもしれない。
わたしは懐手《ふところで》をして、ため息をついた。古着の和服は少し埃の匂いがする。
沖田がこっちに来てからというもの、体調がよくない。食物系に比べれば皮膚のエレルギーは軽症なのに、一般店で購入した服に反応して発疹が出てしまった。おかげで御蔭寮製の古めかしい袷《あわせ》を着ざるを得ない。
この感じだと、沖田も体調が優れないはずだ。結核が悪化しなければいいけれど。
いや、沖田だけ具合が悪くなるならまだいい。勝手にしろという感じ。でも、沖田がちゃんと食べてカロリーを補給してくれないと、契約相手であるわたしまで、だるくてしょうがない。それが困る。
いずれにせよ、寮暮らしでよかったとは思う。一人だったら途方に暮れていた。
寮長の更紗《さらさ》さんは器が大きい。沖田を拾った日、こいつどうしましょうと相談したら、腰より長い黒髪をバサリと払って、にこやかに言ってのけた。
「追い出す理由はないわ。彼、身元がはっきりしているでしょう。新撰組一番隊組長、沖田総司。すでに病を得ているとはいえ、まだちゃんと生きているし」
「御蔭寮に置いて、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。許可するわ。面倒はあなたが見てね、浜北さん」
「わかりました」
更紗さんはわたしより二つ年上だが、貫禄はけた違いだ。
彼女の実家は出雲にある神社らしい。栄励気がずば抜けて豊富なのも、それを扱う術に長けているのも、物心つくころからトレーニングを積んできたからだという。
人の形をしたモノをすべて何人という単位で数えるなら、御蔭寮にはおよそ百五十人が居住している。男女比は、ざっくり言って三対一。ちなみに、大学在籍者の男女比も三対一だそうだ。
寮の名は、正門が御蔭通《みかげどおり》に面していることに由来する。北部キャンパスの北門を出たら、そこが御蔭通だ。寮は北門から数百メートル東へと行ったところにある。
御蔭寮の門をくぐれるのは、寮長の許可を得た者だけだ。門は結界であり、敷地は百年来の栄励気の吹き溜まりになっている。
おかげで、この寮では、わたしのようにエレルギーのきつい人間でも普通に生活できる。エレルギーとは、人工エレキに対するアレルギーのことだ。戦後にできた俗語なので、博識な巡野が初めはエレルギーという言葉を知らなかった。
***
さて、更紗さんから沖田の面倒を見るようにとは言われたものの、わたしは困惑している。
今晩もまた、沖田を夕食の席に連行し損ねた。食堂へ続く廊下を歩きながら、わたしはまたうめいた。
「あいつ、ほんと面倒くさい」
ごはんで釣れないなんて。自由気ままな切石も、プライド高めの巡野も、おいしいものをあげたらおとなしくなるのに。
切石と巡野は顔を見合わせ、にまにましている。
「似た者同士と違うか? 大将もたいがい面倒くさいで」
「わたしはあいつほどじゃない」
「沖田さんも、さなと同じことを言いそうですよね」
「……最悪」
夕食のメインディッシュはチキンカツだ。台所からは、カツを揚げるときの香ばしくてハイカロリーな音と匂いがただよってくる。
御蔭寮の揚げ物は絶品だ。
寮内の広大な敷地には菜種畑が作られ、農学部生が中心となって畑仕事に当たっている。菜種油は寮間交易における御蔭寮の代表商品だ。チキンはおそらく吉田寮《よしだりょう》の農園から来たものだろう。
巡野は嬉しそうだ。
「ホワイトシチューソースだそうです。洋食は胸が躍りますね」
「和風メニューが多いもんね、御蔭寮」
「そうですよ。煮物だの酢の物だの漬物だの、ぼくのころと変わり映えのしない品目の多いこと」
「わたしは和食系のほうが好きだけど」
「失礼、大学院生の胃にはそろそろ、若者好みの揚げ物や肉料理がつらくなってきているのでしたっけ?」
意地悪そうに唇の端を吊り上げた巡野は、享年十九のコンディションそのままで顕現している。
対するわたしはもうすぐ二十四。学部を四年で卒業し、大学院修士課程の一年を終えたところで休学中の身だ。
わたしがげんこつを固めてみせると、巡野は華やかに笑いながら、切石の大きな体の後ろに隠れた。
切石は二十代半ばくらいの印象だが、そもそも付喪神だから、人間とは肉体のあり方が違う。筋肉がガッツリついた肩をすくめて、切石はわたしと巡野を見比べた。
「人間の時の流れはえらい細かい。たかだか五年の差でなあ」
「五年の差は大きいよ。特に十代と二十代の差は」
「せやな。出会うてから今まででも、大将がどんどん変わっていくんがわかる。わしや巡野と違って、大将の時間の流れは止まらへんのや」
「止まらなくていい。さっさと流れ去って終わってしまえばいいんだ」
わたしが吐き捨てた、そのときだった。
ザザッ、とノイズが廊下を駆け巡った。天井を仰ぐ。白い漆喰がぐにゃりと歪み、唇の形が浮かび上がった。
寮内放送だ。
あの厚みのあってセクシーな唇は、放送委員の長江くんだ。
〈臨時ニュース、臨時ニュース~。総員、傾聴せよ。聞いてくれなきゃおしおきしちゃうよ〉
長江くんの声が御蔭寮に響き渡る。彼の間延びしたしゃべり方はいつものこと。だが、臨時の放送があるなんて非常事態だ。
部屋や食堂から廊下にこぼれていたにぎわいが、ぴたりと止んだ。
〈熊野寮《くまのりょう》の襲撃だよ。結界を破られちまったってさ。嫌んなるねえ。戦闘要員は正面玄関に集合ね。オペレーションはR。繰り返しま~す。熊野寮の襲撃です。戦闘要員は正面玄関に集合、オペレーションR~〉
おおっ、と雄たけびがあちこちから聞こえた。戦闘要員である足腰自慢の男どもだ。
巡野は、さらさらの髪を掻き上げた。
「何だ、オペレーションRですか。興味がわきませんね。さな、切石さん、食堂へ行きましょう」
せやな、と切石はうなずいた。わたしも同感。
もっと戦略性の高いルールに則った襲撃のとき、例えば放送室争奪なんかだと、巡野も切石も目を輝かせる。駒が多数必要な場合はわたしも戦闘に駆り出されるし、寮生全員が沸き立つものだ。
スポーティなウェアに身を包んだ戦闘要員が正面玄関を目指して走っていく。上回生は、ぬるい温度の声援を送る。
わたしはつい、ぼやいた。
「第一線の戦闘要員は学部生。いつの間にか、みんな年下だ」
ふと。
風のような気配を感じた。軽やかに素早く近寄ってくる。
わたしは振り向いた。
「沖田」
袴《はかま》を身に着けたところを久々に見た。このところいつも、お気楽な着流し姿だった。
沖田は二本差しの刀に手を触れながら、眉をひそめた。
「さっきの知らせは何? ずいぶんのんびりしたご時世だと思っていたけど、そうでもないのかい。いや、しかし、その割には何の殺気も感じられないな。どういうこと?」
沖田は戸惑っている。警戒してもいる。不思議そうなまばたきの合間に、鋭利な栄励気が見え隠れする。
わたしは説明しようと口を開いた。が、天井の漆喰が歪んで形のよい唇が現れ、わたしと沖田の名を呼ぶほうが早かった。
〈浜北さん、沖田さんを連れて正面玄関にいらっしゃい〉
更紗さんの声だ。
沖田が視線を鋭くする。わたしは額に手を当てた。
「どうしてですかー?」
〈沖田さんは、時を越えただけの生身の人間だわ。Y2条約に引っ掛からない。その身体能力を存分に発揮していただきましょう。さあ、今日の襲撃は完全に防ぐわよ!〉
「更紗さん、何でそう毎回張り切ってんの」
沖田はわたしの肩をつかんだ。
「おれが何だって? 条約?」
「Y2条約。寮間戦争では、戦闘部隊の構成員に制限が設けられてるの」
「わいつう?」
「Y2っていうのは、妖怪《youkai》と幽霊《yurei》のこと。人間の身体能力の常識を超えてるから、妖怪と幽霊は戦闘に使っちゃいけない」
妖怪の一種の付喪神である切石と、幽霊らしく出たり消えたりできる巡野が、沖田にうなずいてみせた。
沖田はむしろ、いぶかしげだ。
「妖怪や幽霊を動員するほうが楽に勝てるんだろう? 戦力をけちったら、かえって死体が増えるよ」
わたしはまた盛大にため息をついた。
「死体はどっちにしろ出ないよ。とにかく一緒に来て。百聞は一見に如かずだよ」
***
正面玄関ではすでに二つの陣営が向かい合っていた。
御蔭寮陣営の中心に立つのは更紗さん。彼女を守るように左右背後に控えたオペレーションRの戦闘要員たちは、腕組みをして敵陣営をにらみ据えている。
対する熊野寮陣営は、一段下がった靴脱ぎに居並んでフォーメーションを組んでいた。
更紗さんはにっこり微笑んだ。まるで甘く熟れた毒林檎。香り高い誘惑に満ちた、危険な笑みだ。
「あら、寮長たるわたくしを呼び付けておきながら、そちらは熊野寮長さん直々のお越しではないのね。あなたは確か、渡辺さんだったかしら」
熊野寮陣営の今次の突撃隊長は、見覚えのある男だった。スクエア型のメガネを掛けた、いかにも癖の強そうな風貌。したたかな策略家で、御蔭寮は過去に一度、彼に寄って痛い目にあわされている。
去年、御蔭寮における放送室争奪戦の際、渡辺は寮住まいの幽霊の前で、禁則武器であるトウガラシ爆弾をちらつかせた。幽霊はそれを告発。協議の結果、渡辺は爆弾を使わなかったから罪に問われず、御蔭寮はY2条約違反による失格を言い渡された。
渡辺は芝居がかった仕草で手を胸に当て、浅いお辞儀をしてみせた。
「不満そうな顔をなさるな、御蔭寮長どの。熊野寮長は、自分がまもなくその座に収まる。今の寮長の座を奪ってな」
「クーデターということかしら」
「自分こそが寮長にふさわしいからだ。実力もないのに寮長の座に居座るほうが不自然というもの」
「今の熊野寮長が実力不足だなんて、わたくしは思いませんけれど」
「熊野寮は武断派でね。生ぬるい退屈を是とする今の寮長は、われわれ寮生と反りが合わんのだ」
沖田は焦れたようにわたしの袖《そで》を引いた。
「これは何の茶番なんだ?」
「寮間戦争っていう本気の遊びだよ」
「遊び?」
「本気のね。真正面から対等な条件でぶつかり合って競うの。缶蹴りとか陣取り合戦とか隠れんぼとか、雪が降ったら雪合戦とか、競技はいろいろあるけど」
「何それ」
「だから、寮間戦争。今日はオペレーションRだからレース、つまり競走。ロの字になってる御蔭寮の一階廊下を先に三十週したほうが勝ちの、雑巾がけ競走」
沖田はぽかんと口を開けた。
「雑巾がけ競走?」
「そう」
「そんな遊びが、襲撃?」
「そう。ちなみに、寮間戦争は三つの寮の間でおこなってるんだけど、勝ち星を二つそろえれば、自分が所属するところの寮長に交代を迫ることができるの。今回攻めてきたあいつは、そうやって今の熊野寮長を追い落とそうと考えてるみたい」
大学周辺にはいくつか寮がある。寮間戦争をおこなうのは、御蔭寮と吉田寮と熊野寮の三陣営だ。
三つ巴の寮の間には戦争があるだけでなく、交易もおこなわれている。扱う品目は、各寮の農園や工房で生産したもの。寮は百年来の栄励気の吹き溜まりだから、表から見える姿よりずっと広大だ。最大面積を誇る吉田寮なんか、裏山で狩りができる。
今、熊野寮の突撃部隊は、カゴいっぱいの卵を持参している。もちろん、熊野寮の牧場で採れたものだ。雑巾がけ競走に負けたらこれを置いていく、というわけ。逆に御蔭寮が負けたら、さて何を要求されるやら。
沖田は頬を掻いた。
「道場破りごっこっていうところ?」
「たとえ破られたとしても看板は下ろさないから、他流試合の定期戦かな」
「他流試合か。負けたら道場の名折れだっていう意地も、それなりにあったりするわけだ」
「負けるよりは勝ちたいと思ってるよ。わたしはそう熱心なほうじゃないけど、更紗さんは毎回本気だし」
沖田は力の抜けた笑い方をした。ははっと軽やかな声まで上げた。
「更紗さんって人は、近藤さんみたいだ。首や金を賭けてるわけでもないのに、全力でさ。あんたはおれと似てるかな」
近藤さん。
新撰組局長、近藤勇《こんどう・いさみ》のことだ。
「江戸の試衛館で、そんな出来事があったの?」
「他流試合ならしょっちゅうやっていた。あのころの江戸は剣術道場があちこちにあって、誰もが腕自慢の名乗りを上げていた」
「山南さんも他流試合がきっかけで試衛館に合流したんでしょう?」
沖田はうなずいた。
「おれたちのこと、あんたはよく知っているんだな」
「有名だから。新撰組」
「悪名高いんだろ? 薄汚い狼の群れだって」
「そうでもないよ。正義の味方って認識でもないけど」
沖田は右の手のひらを開いた。なつかしい手紙でも読み返すように、沖田は手のひらへと柔らかな視線を落とす。
その手は、剣客の手だ。皮が厚くて硬くて、ざらざらしている。わたしはそれを知っている。沖田が熱を出している間に、何度か触れてしまった。
「おれたちは、訓練の行き届いた軍団なんかじゃなくてね。近藤さんから教えを受けた天然理心流の使い手は、おれと土方さんと井上さんだけ。ほかはみんなばらばらだった。でも、だからこそ、うまく噛み合っていた」
「江戸にいたころのこと?」
「そうだね。おれたちが新撰組や浪士組っていう名前を持たなかったころ。京都に行くなんて思い描いてもいなかった。日がな一日、木刀を振り回して稽古をして、強くなれることが、ただ楽しかった」
更紗さんと渡辺の間で話が付いたみたいだ。御蔭寮の陣営が数歩下がり、熊野寮勢が靴を脱いで廊下に上がった。
御蔭寮の外観は洋館風だが、中はほとんど日本式で、靴を脱いで玄関を上がる。部屋は基本的に畳敷きだ。たびたび他寮の襲撃を受ける廊下は、雑巾がけレースによって磨き上げられ、つやつやしている。
更紗さんはこちらを向いて手招きした。かたわらには、水を張ったバケツと数枚の雑巾。
「沖田さん、いらっしゃい。走ってくださる?」
両陣営にざわめきが起こった。沖田に視線が集まる。
沖田は軽く手を挙げた。
「はいはい。居候は口答えしないよ。体を動かすのは久しぶりだけど、まあ、そんじょそこらの連中よりは速いんじゃないかな」
わたしは目を剥いた。
「まじでやるの?」
「やるよ、まじで。ちょっとこれ持ってて」
これ、と、まず押し付けられたのは二本の刀だ。次いで、袂《たもと》から取り出した小さな巾着袋。
「ちょ、か、刀って……」
「重いだろう? 死んでも落とすな。誰にも奪われるなよ、浜北さなさん」
名前を呼ばれた。ずん、と心臓が圧迫された。
沖田はわたしにとって契約の主だ。沖田もそれを理解して、使い魔や下僕を扱うように、わたしに刀を持たせている。
「わかったよ」
わたしは刀を抱き締め、巾着袋を懐に突っ込んだ。
更紗さんは再び沖田を呼んだ。熊野寮陣営の第一走者はすでに雑巾を構え、手首や脚のストレッチを始めている。
沖田は、袂から出した襷《たすき》で、くるりと袖をまとめた。わたしに軽く手を振る。笑った沖田の口元にえくぼができることに、わたしは気が付いた。
いつの間にか、天井に長江くんの唇が現れている。
〈両陣営の第一走者が決まったようですね~。スタートラインには雑巾がスタンバイしております。我らが御蔭寮陣営、沖田総司選手が今、ゆっくりとスタートラインに向かっています。さすがの風格。実にリラックスした様子ですね~〉
長江くんによる実況中継で、にわかに両陣営のテンションが高まる。
沖田が位置に就いた。
ざわり。
風のようなものが湧いた。いや、ただの風ではない。まるで熱波だ。沖田の袴がふわりと膨らむ。
「栄励気だ……次元が違う」
膨大な栄励気が、沖田の両脚に集まる。集まり続ける。やせた病身のどこにそんな栄励気をたくわえていたのか。人間がまとえる栄励気のキャパシティを超えている。あんなんじゃ体が壊れてしまう。
驚愕のざわめきが場に広がった。
沖田はそっと笑う。
スターターの長江くんが号令を発した。
〈用意……始め!〉
凝縮した栄励気が、その途端、解き放たれた。
沖田は飛び出した。消えたと錯覚する。それくらいの猛スピードで、沖田は駆けていった。
わたしは思わずつぶやいた。
「人間わざじゃないな」
病をわずらっているくせに、あの身体能力なのか。幕末の京都には沖田レベルの剣客がごろごろしていたというけれど。
あっという間にロの字の廊下を一周してきた沖田が、容赦なく熊野寮の走者を追い掛ける。御蔭寮陣営に歓喜の声が、熊野寮陣営に絶望の声が上がった。