家に帰って扉を開けて、ただいまと声を投げてみても返って来るのは静寂と、せいぜい冷蔵庫が動いている証拠の低い音だけだ。鍵っ子の宿命。

 靴を脱いでリビングに上がる。食卓の上には、鶏と大根の煮物がラップをかけられて鎮座している。晩御飯はどうやらこれらしい。

 母ひとり、子ひとりの家にしては無駄にでかい一軒家で、この広いリビングは妙に浮いているようにすら思う。実際、このリビングを一度に一人以上で使うことなんてほとんどない。母さんは普通に経理の仕事と、土日のパートを掛け持ちしている。もちろん会社にばれたらクビなんだろうけれど、そうでもしないとあんたを養っていけないのよ、と母さんは時々ヒステリックに叫んで物を投げてくる。まぁ、仕方ない。そのくらいは、あたしだって理解している。

 二年前にお兄ちゃんが死んだとき、あたしは小六だった。その時にはまだ、父さんがいたから進学だって自由に選べた。お兄ちゃんと同じ学校に通うんだというのが、あたしの五年生のときからの口ぐせで、そのためにずっと受験勉強もしてきていたし、父さんはあたしに、公立中学にいくか、お兄ちゃんと同じ私立中高一貫校に行くか選ばさせてくれた。あたしは少しも悩むことなく、もう一緒に通うことは出来ないと判ってはいたけれど、お兄ちゃんと同じ学校を選んだ。

 一年前、入学式を終えて帰って来てみると、今鶏と大根の煮物が鎮座している食卓の上に、父さんの走り書きが残っていた。

『真衣、入学おめでとう。そして、ごめんな』

 その日、父さんもあたしの前からは姿を消した。母さんはその日からヒステリックになって、時々あたしにも手をあげるようになった。二年間のこの季節だけで、あたしは大好きなお兄ちゃんと、優しい父さんと母さんを失った。だから、この季節が心底憎たらしくて仕方がない。別に母さんを責めるつもりなんてない。母さんだって、狂ってしまったんだろう。――あたしと、同じように。

 バッグを放り出して、手も洗わずに、ラップを剥がして鶏肉をつまんだ。冷たい鶏肉にも、味はきっちり染み込んでいた。

 一口だけで飽きてしまって、あたしは指についた汁をなめて、左手でバッグをもう一度掴んで階段を上った。音のない階段は、二年前からだ。お兄ちゃんが居たときはいつだって、騒がしいロックの音が漏れてきていた。今はもう聞こえない。ただ静かに、階段が軋む音がわずかに響くだけ。桜の花びらはもうない。二階へと上がって、自室への扉に手をかけたあと、あたしはすぐにその手を外した。踵を返し、向かい合わせのお兄ちゃんの部屋の扉を開ける。お兄ちゃんが死んで二年経っても、未練がましく当時のままの部屋に足を踏み入れる。

 時々母さんが軽い掃除をするだけで、ほかは一切いじっていない。だからだろうか。この部屋だけは二年前で時が止まっている錯覚を起こす。ここでこうして立ち尽していたら、部活から帰ってきたお兄ちゃんが呆れ顔であたしに言うんだ。

『真衣、人の部屋に勝手に入るなよ』

 ――もちろん、そんな声はもう聞こえないけれど。

 あたしは一度だけ唇を結んで、部屋の隅にあるCDコンボに近付いた。お兄ちゃんが好きだったロックのCDがたくさんある。その中から一枚引っ張り出して、再生ボタンを押す。レッド・ツェッペリンのEARLYDAYS。一番最後のナンバーにあわせて、ボリュームを上げた。天国への階段。静かな旋律が、部屋を満たし始める。それに抱かれることを望むように、あたしはお兄ちゃんのベッドへと身を投げた。ベッドが軋んで軽く鳴く。

 ベッドのすぐ脇にあるサイドテーブルには、ライトスタンドと、しおりが挟まれたままの文庫本。それから、フォトスタンドが置いてある。

 写真の中のお兄ちゃんは、満面の笑顔を見せている。得意のギターを片手に、隣に居る男の人と一緒に笑っている。隣に居る男の人――お兄ちゃんの親友だったという、同級生。

 ワックスで綺麗に整えられた髪形と、明るいブラウンの切れ長の目。すうっと通った鼻筋と、人畜無害な人懐っこい笑顔。

 ――戸部敦先輩。

 お兄ちゃんがいる間は幸せだった。何も嫌な事なんて起こらなかった。幸せだった。とても。

 光輝くものは全て黄金だと信じる貴婦人が居る。彼女は天国への階段を買おうとしている――

 レッド・ツェッペリンの音楽に抱かれるまま、あたしはフォトスタンドを倒した。枕に顔を埋め、声を押し殺す。

 お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。
 どうして、そんな風に笑っているの?
 先輩は、お兄ちゃんの親友だったって言う戸部先輩は、狂ってしまったの? 母さんや、あたしと同じように?

 先輩は気付いているんだろうか。あたしが、お兄ちゃんの妹だってことに。知らないのだろうか。

 ねぇ、先輩。座敷わらしが本当だって言うのなら、どうしてあなたの身近にいたはずのお兄ちゃんは、死んでしまったんですか?

 どうして、お兄ちゃんに幸せを与えてくれなかったのですか?

 お兄ちゃんはとても優しくていいひとだったのに、酷く運が悪い人だった。父さんとも些細なことで口論になって、母さんもお兄ちゃんを持て余していた。お兄ちゃんの当時の彼女は、お兄ちゃんを捨てた。あたしだけ。あたしだけが、お兄ちゃんを愛していた。もちろん、妹として、だけど。他の誰も、お兄ちゃんを見てくれなかった。それが悔しかった。ついてないお兄ちゃん。だけど笑顔でいつもあたしの頭をなでてくれたお兄ちゃん。ついてないのも交通事故で即死、それでおしまい。何もかもおしまいだった。

 ねぇ、先輩。あなたが本当に座敷わらしだというのなら、どうして、ほんの少し、ほんの少しでもお兄ちゃんに幸せを与えてくれなかったのですか?

 嘘ついているのなら、その口に汚れた花びら詰め込んで、あたしが縫い付けてやる。