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「雅人くん今日も神社に行ってくるのかい?」

 僕が玄関で靴を履いている様子を見かけたばーちゃんは僕の背後からそんな言葉を投げかけた。

「うん、ちょっときになることもあるし、行ってくる。夜までには帰るよ」
「はいはい、行ってらっしゃい。今日は雨が降る予報だから折りたたみ傘持って行ったらええよ」
「そうなんだ?」

 玄関の扉を開けると、外は天気が良さそうに晴れ晴れとしている。毎朝テレビの天気予報をチェックしているばーちゃんがそう言うのだから、一応持って行くことにしよう。玄関の横に立てかけている傘立て。その隣に折りたたみの傘が壁に取り付けられたフックにかかっている。紺色のそれをとって、僕はばーちゃんに向かって手を振った。

「それじゃ、これ借りて行くよ。行ってきます」
「はいはい、気をつけて行ってらっしゃい」

 ばーちゃんも笑顔で手を振り、再び家の中へと消えて行った。
 いつものあぜ道を通りながら、僕は外の空気を胸いっぱいに吸い込む。毎日こうして神社まで歩いていると、普段の生活が嘘のように思えてくる。毎日満員電車に乗り込み、夜は終電間際。歩くのなんて通勤時間だけだし、景色や空気を楽しむような環境でもなければ、心の余裕もなかった。なんだかとても人間らしいと言うか、人間らしい生活をしているなと思う。バランスのとれた食事を決まった時間に取り、ちょっとした運動をして、仕事のストレスもない。
 何もないことに幸せを感じるのは、生まれて初めてかもしれない。今までなら物をもらったり、仕事で成果をあげたり、褒めてもらえることに幸せを感じていた。だからこそ必死になって働いていたと言うのに、今は何もないこの身軽な感じに僕は幸せだと思っている。
 それは今までの幸せとは少し違う、決して大きな幸せでもなければ、派手さもない。けれどじんわりと心を暖かくするような感覚が僕の胸の中に広がっている。
 ……そんな風に思うのも、今まで働き過ぎていたからなのかもしれないな。
 何もない景色を楽しみながら自己分析をしている間に、僕はどうやら豊臣神社に到着していた。