芳しい湯気を放つそれにそっと唇をつけると、まず苦みが舌の先に乗った。
一度取り込んだ芳香が鼻腔から抜けていき、飲み下した後にはわずかな酸味が残る。
「おいしい……」
ミルクも砂糖も入れないコーヒーをこれほど美味しいと思ったことは、彼女はなかった。
そもそも、好んでコーヒーを飲もうと思ったことがない。
でも今は、体がこれを求めているのがわかった。
美波を作る何兆個もの細胞が喜び、震えているような気がした。
「これで大丈夫」
男がポンと美波の肩を軽く叩いた。
「帰り道にはお気をつけて」
彼の唇が閉じると同時、美波の視界がぐにゃりと歪む。
一気に意識を手放した彼女の姿は、次の瞬間、皮張りの椅子の上からなくなっていた。
部屋の中には飲みかけのコーヒーとテーブルセット、そして男と少年だけが残っていた。
男はそっと指先でテーブルを撫でる。
「あの子大丈夫ですかね、霧矢さま」
霧矢と呼ばれた男は、コーヒーを片付ける少年を見下ろす。
「それは彼女次第、かな」
少年はそれ以上何も言わず、黙々と片づけをした。