「いえいえ、無理ないですよ」
霧矢は柔らかい表情に戻った。
「では、私たちはこれで。ああそうだ、仔狗(こいぬ)くん」
「はいっ」
仔狗と呼ばれて出てきたのは、古衣堂にいたケモ耳の少年だった。
もう彼がなにもない空間から出てきても、驚かない。美波の感覚は麻痺していた。
「お疲れ様でした。はい、どうぞ」
彼はお盆の上に乗っていた湯呑を美波に差し出した。
暗くてよく見えないが、緑茶の香りが漂う。
「これを飲めば、今夜のこと、古衣堂のことは全て忘れられます」
「え……」
「はい、ぐびっとどうぞ」
笑顔の仔狗から受け取った湯呑の水面を、美波は見つめる。
助けてくれた彼らのことを、忘れてもいいのだろうか。
躊躇していると、霧矢が口を開く。
「さあ。この男の記憶を根本から消すことが一番です」
霧矢たちのことを覚えておくということは、自分がなぜ彼らと知りあったかを思い出してしまうということ。