「猫又さん、やりすぎです」
トイレの入口から声がして、美波──正しくは、美波を乗っ取っている誰かが振り向く。
「なぜ止めるっ、霧矢!」
そこに立っていたのは、着流しの上に羽織をかけた男性。初対面のはずの彼に、美波はハッとした。
霧矢は彼女に近づき、そっと優しく抱き寄せる。美波の体は、彼から逃れようと暴れるも、びくともしない。
「現世の人間の命を奪うと、この子の魂まで汚すことになります。そして、あなたももうこれ以上、この汚い血で汚れることはありますまい」
彼の言葉は、真言のような不思議な響きで猫又を静かにさせた。
(そうだ。そうだった。私、男に乱暴されて、意識が遠くなって……気づいたらあの店にいた)
霧矢の着物の香りを嗅いだ美波の脳裏に、雑多な衣類が所狭しと並べられていた古着屋が、鮮やかによみがえる。
(彼はそこにいた。たしか、古衣堂と言った)
どうやってあの店に辿り着いたのかはわからない。が、彼女はたしかにそこに行ったことを思い出した。
男から足を離した体がすうっと軽くなる。長く伸びた爪や尻尾、耳が消えていく。
美波はすっかり元の姿に戻った。その代わりに、彼女の前に二足歩行の猫が現れた。
「チッ、余計なことを……」
モヤのようにぼんやりしていたが、やがてハッキリと像を結ぶ。
猫は二股の尾を持っており、美波の腹くらいまでの背丈をしている。