『さっきもさ、抱きついてなかなか離れないし』

『しょうがねえだろ。目の前は水たまりで、二人ですっころんだら馬鹿じゃん』

 引っ込みのつかなくなったあたしは、押すことしかできなくなっていた。

 そしてあの一言を言ってしまったのだ。

『好きな女の子に抱きついてラッキーとか思ったでしょ』

 それは無意識な一言だった。

 自分でもなんでそんな一言を付け加えたのか分からなかった。

 ただ単に、女の子に抱きついたと言うつもりだったのに、『好きな』という言葉が出てきたのが間違いだったのだ。

『べつにそんなことねえし』と、康輔はそれっきり黙り込んでしまった。

 なによそれ。

 否定するんだ。

 ただ、それが、『好きな女の子』に対する否定なのか、『ラッキー』に対してなのかが分からなかった。

 でも、それを聞くことはできなかった。

 あたしは、急に怖くなったのだ。

 ねえ、どっち?

 どっちを否定したの?

 もしかして、両方?

 それもこわい。

 それから黙ったまま二人並んで歩いた。

 分かれ道の交差点で『じゃあな』と康輔が去っていくのを、あたしはただ見送ることしかできなかった。

 聞きたかったんじゃない。

 言いたかったんだ。

 好きなのはあたしの方だって。

 追いかけて、ぎゅって袖を引っ張って、振り向かせてちゃんと気持ちを伝えればよかったんだ。

 でも、あたしにはできなかった。

 猫背の康輔の背中をただ見ていることしかできなかった。

 あたしには何もできなかったのだ。

 その出来事以来、あたし達の間で、そういう話が出てくることは二度となかった。

 お互いにそういう雰囲気になりそうになるのをたくみに避けあっていた。

 その次の日だって、康輔はいつもと変わらない様子で『オッス』と言ってくれた。

 まるでけんかしたことなんか忘れているみたいで、あたしも普段通り接していた。

 康輔は忘れたふりをして、仲直りしようとしているんだなって思った。

 だから、あたしもそれに合わせることにしたのだ。

 居心地の良い関係を崩さないこと。

 あのとき、それがあたしたちの間で、暗黙の了解事項になったのだ。