行ってきますと言おうとしたとき、玄関の壁にかかったカレンダーが先月のままなのに気がついた。

「お母さん、玄関のカレンダー破っていい?」

「今日から十月だっけ。お願いね」

 ベリベリっと破り取ると、新しい月が現れる。

 この季節お約束の紅葉の写真だ。

 まだ残暑のかけらが残っているのに、暦一枚めくっただけで急に秋が深まったような気がした。

 衣替えであたしも久しぶりに冬服のブレザーを着ている。

 さて、今日も元気に学校に行きますか。

 つま先をトントンしながら靴を履く。

 ドアを開けたらいい香りが漂ってきた。

 あ、キンモクセイだ。

 このあたりは古いお屋敷の多い地域で、どの家の庭にもキンモクセイが植えられている。

 昨日までは気がつかなかったけど、一斉に咲いたらしい。

 ゆるい坂を下って駅まで歩く。

 そこかしこから同じ香りが漂ってくる。

 キンモクセイの香りはトイレの芳香剤みたいだという人もいるけど、あたしは好きだ。

 うちのトイレはそんな香りはしないし、毎年この時期にこの香りをかぐと、いろいろな記憶が呼び起こされるのだ。

 小さかった頃におばあちゃんと散歩したこと。

 近所の子犬に吠えられて泣いたこと。

 友達と自転車に乗っていたら見通しの悪い角で車が突っ込んできて、向こうが悪いのにこわいおじさんに怒られたこと。

 全然練習してなくてピアノの先生に怒られたこと。

 あれ、あんまりいい思い出がないな。

 そんなはずないんだけどな。

 まあ、いいや。

 急がないと電車に遅れちゃう。

 坂の途中に、お屋敷の生け垣がちょっとだけ引っ込んだところがあって、お地蔵様の祠が置かれている。

 かなり古いお地蔵様らしく、裏に『嘉永』という江戸時代の年号が刻まれているらしい。

 風化してしまって表情はよく分からない。

 曖昧なお顔だからこそ、見る人が自分の心を映して見ているんだと、去年亡くなったおばあちゃんが言っていた。

 今日のお地蔵様は笑顔だ。

 おかげさまで西谷かさね、わたくしは今日も元気でございます。

 心の中でいつものご挨拶を済ませてから薄井駅に向かって足を速めた。