それからぼくは時々、人魚のところに出かけていった。
 誰も知らない不思議な女の子。しかも、人間じゃない。それがたまらなく優越感でいっぱいになった。
 この池も、秘密基地のようでわくわくした。人魚は、人間の体には何も着ていなくて、それもどきどきした。いつも髪の毛でおおわれているけど。

 人魚は全然ものを知らなくて、ぼくが何を言っても大げさに驚くし、偉そうな話し方をするけど、ぼくを馬鹿にしない。
 気まぐれに池の縁に来たり、すいすいと泳ぎ回ったりしている。
 ぼくはそれを池の縁の石に腰掛けて、靴を脱いだ足を水の中にぶらぶらさせながら見ていた。池の水はひんやりして気持ちがいい。

「川に行ってみようと思ったことはあるのよ」
 水面にぽっかりと顔を出して、人魚は言う。
「でも浅すぎたし、用水路をあたしが泳いでたら、大騒ぎでしょ」
「まあ、そうだね。危ないし、外に出ない方がいいんじゃないかな。変わった生き物って、捕獲されて研究材料にされたりするんだろ」

 漫画とかではだいたいそうだ。だから、不思議な生き物と友達になったら、だいたい隠しておく。
「変わった生き物って言い方、失礼ね」
「だって、本当のことじゃないか」
 人魚はまあそうだけど、と言って潜った。自分が人間とも金魚とも違うのが人魚の自慢だったから。
 すいすいと水底を泳いで、別のところから顔を出して、笑う。

「あんたも泳いだらいいのに」
「子供だけで水場で遊んだらだめだって」
「馬鹿ね、溺れたら助けてあげるわよ」
 そうか。人魚は、人間なんかよりもずっと泳ぐのはうまい。

 ぼくが思ったとき、人魚の尾びれが水面を横切った。と思ったら、大きな水しぶきが、大きな音を立ててぼくに飛んできた。水の塊が、ぼくの顔にぶつかた。

 ぼくは一瞬息ができなくなって、顔を覆った。
 大きな笑い声が響き渡る。文句を言おうとしたら、また赤い尾びれが見えて、水音が響いた。
 あんな大きな尾びれで水かけられたら、たまったもんじゃない。

「やめろよ!」
 ぼくは池に足を踏み込んだ。
 池は縁の方でも深くて、一気に膝まで水につかってしまう。

 びっくりしたけど、ぼくは勢いが止まらなくなって、両足とも水に入った。水をかきわけて、ずいずい進む。
 笑いながら近くまで来ていた人魚の腕を掴む。人魚の肌は、とてもひんやりしていた。


 人魚が悲鳴を上げた。
「あつい!」
 ぼくはびっくりして手を離した。人魚の白い肌の、ぼくが掴んだところが、真っ赤になっていた。


 そうだ。ぼくが夏祭りで金魚をすくって帰った日。
 水槽に移す前に、朱色に光る金魚をてのひらに乗せて、眺めていた。

「こら、かわいそうだろう。魚は水の中じゃないと息ができないんだからな」
 お父さんに叱られて、ぼくはてのひらごと水槽に入れた。金魚はふわっと一瞬水の中を漂ってから、よろよろと泳ぎだした。

「それに、冷たい水にすんでる金魚には、人間の手は熱いんだ。やけどしてしまうんだぞ」
 あの金魚がすぐに死んでしまったのは、ぼくのせいだったのかな、と思った。


 人魚はおびえた顔をした。
「ごめん」
 慌てて手を離したぼくのそばから、一目散に逃げ出した。
 赤い尾びれを振り、するすると遠くに泳いでいく。池の真ん中の岩の陰に隠れるようにして、顔を出した。

 それから、ぽつんとつぶやく。
「金魚に戻れたらいいのに。時々だけ」


 その後、ぼくはびしょ濡れになって家に帰って、お母さんに怒られた。風邪をひいて、何日か人魚のところにいけなかった。

 風邪が治った後も、大雨が降って、お母さんに止められた。
 その次の日は、宿題をしてないのが見つかって怒られて、出かけられなかった。宿題が終わるまで外に行ったらだめだと言われて、そのうちにぼくは人魚のところにいくのをサボった。

 でも、夏休みの終わりの日。
「あんた、川の探検は飽きたの」
 お姉ちゃんが、ぼくを見下して言ってきた。

「川の探検なんてとっくにやめた」
「魚捕まえるって言ってたのに、すぐ飽きんのね。金魚だって、すぐ死なせるし」
 金魚。

 ぼくは口を閉ざした。お姉ちゃんはぼくが傷ついたと思ったかもしれない。でもそこで止まるお姉ちゃんじゃない。鼻で笑って言った。

「川、人魚がいたんじゃなかったの」
「そんなのいるわけないじゃないか」
 ぼくは、とっさに言っていた。

 人魚のことは秘密だ。
 秘密だから、人魚は今日もひとりぼっちで、あの池から出られずに、蛙や鳥と遊んでいるんだろうか。誰も話し相手になんてなってくれないのに。


 ぼくはお姉ちゃんをほったらかして、家から飛び出した。
 もうすぐ日が沈みそうだから、きっと帰ったら真っ暗になってる。怒られるだろうけど、もう夏休みが終わってしまう。行かなきゃ。

 学校が始まったらもうあんまり遊びに来られない。それを人魚に教えておかないといけない気がした。
 用水路の横を走って、暗くなってきた山の木をかきわけて、ぼくは池のそばに駆け寄った。

 人魚の姿が、いつもの池の縁の石のところにあった。もたれかかって、腕をぷらぷらさせている。
 急に来なくなって、怒っているかなと思ったけど、人魚は泣きそうな顔で手を振った。ぼくは手を振りかえして、人魚の方へ駆け寄る。

 ぼくが池にたどり着く前に、人魚は池から体を伸ばして、土に手をついた。いつも木の陰になる土は湿って、少女の白い手を汚した。
 ぬれた髪が水をしたたらせる。細い肩が、背中が池を出た。ぬれて光っている。

「朱《あけ》!」
 ぼくはびっくりして叫ぶ。汗がふきだした。
「何やってるんだよ!」

 人魚のそばにたどり着いて、膝をつく。
 膝も靴もドロドロになったけど、気にならなかった。人魚は苦しそうに、ぜえぜえと息をしていた。

「あたしも、外に行きたい」
 人魚は両肘をついて、這いずるように進む。腕が泥に汚れて、顔にはねる。

「全部外に出たら、脚にならないかな」
 そんなこと言うなんて、信じられなかった。
 自慢の、きれいな赤い尾びれなのに。それに。

「わかんないけど、たぶん。たぶん」
 ……ならないと思う。
 言えなかった。

 人魚はそんなぼくを無視した。赤い尾びれが水の上に顔を出す。人魚はまるで腕の生えた蛇みたいに、土の上を進む。

 ぼくは人魚を止めたかったけど、できなかった。
 腕を掴んだり、肩を押させえたりなんて、できない。
 ぼくが触ったら、やけどする。たまらず叫んだ。

「やめろよ!」
「なんでよ。わたしも、外に行きたいの」
 人魚は眉を寄せて、荒い息をして、険しい顔で進んでいた。けど、急に高い声を上げた。もう我慢できなくなったんだろう。

「あつい」
 池の外はとても暑い。ぼくが触れなくても、外の空気は熱い。夏の空気は、ぼくにだって暑い。

「水に戻れよ」
 ぼくはただただ動揺して言った。
 人魚は、水がなくても息はできる。でも、水がなければ生きていけない。

「あつい」
 人魚はあえいで、力を無くした。尾びれのひらひらの先を水に残したまま、地面にうずくまった。



 もうやけどを心配するのなんて、頭から飛んでしまった。

 ぼくは、慌てて人魚を抱え上げた。
 人魚の肌は、相変わらずひんやりしている。びっくりするほど細い。白い肌の、ぼくの触ったところが、真っ赤になった。
 人魚がやけどしてしまう前に、水に帰してあげないといけない。

「神さま」
 ぼくは思わずつぶやいていた。
「山の神さま。朱を人魚にした山の神さま」

 助けて。
 本当に山の神さまがいるのなら、なんで人魚をほったらかしにして、現れないんだ。

 ぼくは人魚の腕を引っ張って、ひきずるようにしながら、池の方へ向かう。
 半分人間の人魚の体は重たくて、思うように進まない。ぼくはもがいていた。人魚の肌がみるみる赤くなっていく。


 それでも、山の神さまは助けてくれない。
 一度助けたものは、もう助けてくれないのかもしれない。

 助けてあげたのに、出て行こうとするから、怒っているのかもしれない。――逃げようとしてるから。

「ごめん、ぼくが余計なこと言ったから」
 ひとりぼっちだなんて、言ったから。
 そのくせ、ぼくは、人魚がひとりぼっちなのを知ってたのに、ほったらかしにした。

「いつもここに遊びに来るから」
 池の縁の石に足をかけて、ぼくは人魚を引っ張り上げる。

「嘘つき」
 人魚は、涙をこぼした。ひとしずく、透明な水が頬を滑り落ちて、池に落ちた。
 ぽちゃん、と音がした。


 ふと手が軽くなる。
 ぼくが池に放り投げたのは、真っ赤で優雅な尾びれをした人魚の少女じゃなかった。
 あの少女みたいに、ひらひらと広がる尾びれを持った、小さな金魚だった。


 少し沈んでから、ぽっかりと浮かび上がる。
 そのまま水面に横たわって、動かなかった。


        了