空が夕焼けに染まる黄昏時。
 晴高の車は、スマホの地図アプリを頼りに森の中の舗装されていない道を進んでいた。元気に教えられた地点にはもうかなり近いはず。
「いた。あそこだ」
 晴高は念のため、少し手前で車を止めた。山道から少し下った場所に、膝立ちになり頭を垂れた人影が見える。千夏と晴高は車から降りた。離れていてもわかる、明るめの髪色にスーツ姿の長身の男性。
「元気……!」
 千夏が元気のもとへと降りていこうとするのを、晴高は腕を掴んでとめた。
「晴高さん……」
 晴高は目を細めて注意深く元気を観察する。無言で眺めていたが少しして、はぁと小さく息を漏らす。
「いまのところ、大丈夫そうだ。悪霊っぽい気配は感じられない」
 それを耳にした瞬間、千夏は元気の元に駆け出していた。
「元気!」
 彼は、膝立ちのまま握りこんだ両手を(ひたい)にあて、祈るような姿勢のまま微動だにしなかった。千夏は彼の手前で立ち止ると、おそるおそる彼に近づいていく。
「……元気?」
 千夏が近づいてくる気配に気づいたのか、彼がゆっくりと顔をあげた。
 そして千夏の顔をみると、心の底から安堵したような表情を浮かべる。彼の頬は涙で濡れていた。
「千夏……。俺、あいつらに……あいつらを殺そうと思った。でも……でも……」
 彼が大事そうに包み込んでいた両手を開いた。その手のひらには、共に交わしたあのリングが握られていた。
「千夏を失いたくなかった。もう一人になんかなりたくない。ただ、君の存在だけが……君を想うと、こっち側にいなきゃだめだって思って……」
 千夏も彼の前に膝をつくと、彼の両手を自分の手でやさしく包み込む。
 彼がぎりぎりのところで踏みとどまってくれたのがわかった。それがどれだけ、強い意志を要するものだったことか。どれだけ、たくさんの感情を乗り越える必要があったのか。それらを乗り越えて、いまここに元気がいる。元のままの彼がいる。そのことに、嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいだった。
「うん……こっち側にいてくれて、ありがとう。元気。あなたに会いたかった。ずっと」
「俺も……」
 彼と額をくっつける。ぎゅっと包みこんだ彼の手を強く握って、どちらともなく目を閉じた。温かな体温とともに彼の優しさが伝わってくるようだった。お互いの存在がすぐ間近に感じ、溶け合うように思えた。
「おかえり。元気」
 顔を離してそう笑みをこぼすと、彼の顔にも笑顔が広がる。
「ただいま」
 そう返した彼は、優しく穏やかな彼のままだった。

 その後。
 千夏たちは警察に全てを伝えた。
 とはいっても、霊云々のところはそのまま伝えたところで信じてもらえるはずもない。そこで、多少話を脚色することにした。
 幸運にも、生前の元気と晴高は同じ建物で仕事をしていた時期がある。そこで、当時から元気と晴高は友人だったということにしたのだ。会社は違えど、同じ建物の二階と三階で働く間柄。何かの拍子で知り合って友人になっていたとしても別におかしくはない。
 そして、元気は生前、阿賀沢浩司の殺害と遺体遺棄を偶然知ってしまい、あの殺害の瞬間が写った写真のアドレスとともに、「もしかしたら自分も殺されるかもしれない」と記した直筆の手紙を晴高に渡してあったことにした。
 ちなみに、その手紙は幽霊になった元気が書いたものだ。だから筆跡は問題ない。
 晴高はずっとその手紙と写真を持っていたが、報復を恐れて警察に言えずにいた。しかし、たまたまあの神田の物件を調査することになり、そこで元気のスマホを発見したことで今になってすべてを警察に打ち明けることにした……という筋書きにしたのだ。
 警察は筆跡鑑定の結果、その手紙を高村元気の直筆のものと認定。
 そこに書かれた証言をもとに都内の山中を捜索したところ、白骨化した遺体を発見した。DNA鑑定の結果、その遺体は阿賀沢浩司のものと断定された。
 すぐに逮捕状が発行され、阿賀沢良二とその妻・咲江は逮捕される。
 そのとき、彼らはひどく衰弱した様子で、あっさりと罪を認めたのだという。
 また、交通事故として処理されていた高村元気の件も捜査が開始された。
 高村元気を車で轢いた男も、阿賀沢夫妻が逮捕されるとすぐに、多重債務の肩代わりを条件に殺害を依頼されて引き受けたことを自白した。
 それにより、実行犯の男はもちろんのこと、阿賀沢夫妻も高村元気の殺人教唆で再逮捕されたのだった。