その後、朝まで車で時間をつぶしてから、杉山を乗せて西新宿へと向かった。マンションから杉山の勤務先があった場所までは、車だとほんの十分ほどの距離だった。近くのコインパーキングで車を止めると、彼の働いていたオフィスビルへと向かう。
杉山は相変わらずカバンを胸に抱きしめてビクビクした様子だった。それでも目的のビルが見える場所まで来ると、彼自身も気になったようで歩く足が速くなる。
そして、ビルのエントランスの前で杉山は立ち止まった。
杉山の記憶の中で見た、あのエントランスと同じ光景が目の前にあった。
「行きますか?」
千夏が尋ねると、杉山はしばらく迷ったあと、こくんと大きく頷く。
エレベーターで五階まであがる。杉山はずっとカバンを抱きしめたまま、その肩はわずかに震えていた。事前に連絡しておいたため、現在五階に入っているテナントのスタッフは快く千夏たちをフロアに通してくれた。
現在はそこは、フィットネスクラブになっている。
杉山の記憶で見た、上司に酷く叱責されていたあの場所。
そこはいまは、窓から明るい光が差し込むフローリングスタジオになっていた。
ただ、窓の形は、あの記憶の中にあったものと同じだ。向かいの雑居ビルと、その向こうに西新宿の高層ビルが見えている。
『ソウカ……ソウナンダ……』
杉山は窓の前で立ち尽くした。
『ソウなんだ……』
彼の腕から、それまでずっと握りしめていたカバンがするりと落ちた。
その肩が小刻みに震えている。
千夏たちは、ただ見守るしかできなかった。彼がいま何を思っているのか、それは千夏にはわからない。でも、彼の中の時間はようやく動き出したようだった。
『……僕はこれから、どこに行けばいいんだろう……』
会社がなくなった事実を目の当たりにし、呆然と呟く杉山。
その声に応えたのは、晴高だった。
「お前にはもう、どこへ行くべきか見えてるんじゃないのか?」
彼は晴高の方を向くと、うつむく。
『でも……僕は、自分で命を絶ってしまった。そんな人間は天国なんていけないんでしょ?』
「その償いなら、もうとっくにしたんじゃないか?」
それは諭すでもなく、彼らしく淡々と事実を伝えるだけのような口調だった。
『え?』
杉山は怪訝そうに、晴高を見る。
「あんだけ何度も飛び降りて毎回死ぬ苦しみを受けてれば、自分の命に対する責任なんてもう十分だろう」
『で、でも。急に死んだから、きっとたくさんの人に迷惑を……』
「たしかに迷惑ではあっただろうが、悪いことではない。どうせ人間は大概みんな、急に死ぬもんだ。それに」
はっきりと晴高は断言する。
「そんだけ苦しんだ奴が救われないわけがないんだ。ほら、お前の身体を見てみろ」
『え?』
晴高の指摘どおり、杉山の身体はいつのまにか輪郭がキラキラと金色の光を帯び始めていた。
「お迎えだ」
杉山は驚いた目で自分の身体の光を見ていたが、ぶわっと双眸に涙をため、顔を両手で覆った。
『僕、死にたくなかった……死にたくなかったんだ。ただ、逃げたかっただけなんだ。辛くて、辛くて……仕事からも……人生からも。でも、逃げる方法を間違えたのかな……』
今度は、それまで黙って杉山と晴高のやりとりを見ていた元気が口を開く。
「死にたくなる前に仕事辞められたら、もっと違う人生があったのかも……って思いたくなるよな。でも、死んだ後に後悔しても、もう身体は戻らないんだよな」
彼も自分の死に対しては思うことはたくさんあるのだろう。その一言一言は、杉山に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だからさ、もし生まれ変わったら。今度は命捨てる前に、もっと捨てていいもん捨てて軽くなろうぜ。その方が、絶対生きやすいからさ」
杉山は顔をあげて、こくんと頷き返した。その顔にもう涙はなかった。
『うん。そうするよ。……ああ、もう、逝かなきゃ……』
「いってらっしゃい。お元気で」
千夏は杉山にそう声をかけた。こういうとき、お別れにどういう言葉をかければいいのかいつもわからない。でも、なんとなく前向きな言葉がいいような気がするのだ。その先に待つ新しい未来に向けて彼らは旅立つのだから。
『ありがとう……』
杉山は小さくはにかむように微笑んだ。途端に、彼の身体を覆う光が強くなると、ふわりと光の粒子が空気に溶け込むように彼の姿は見えなくなった。
「……逝ったな」
ぽつりと晴高が言ったあと、ハァと疲れを吐き出すように嘆息した。
「……なんとかなったな。今回はヒヤヒヤしっぱなしだったが」
「あれ? 今回は送り火だっていってタバコ吸わねぇの?」
と元気に言われると、ギロッと彼を睨む。
「ここで吸ったら怒られんだろ」
たしかに、フィットネスクラブの入口のところに全館禁煙ってプレートが貼ってあった。
「ああ、そうか」
「……あとで、吸う」
結局、吸うらしい。
フィットネスクラブの職員に礼を言って、オフィスビルを出ると直ぐに晴高はタバコを咥えて火をつけていた。
「さてと、どうします? このあと」
コインパーキングへ向かって歩きながら尋ねると、彼は紫煙を燻らせる。
「お前は代休申請しとくから、今日は家に帰っていい。俺は、後始末しにいく」
「後始末ですか?」
「もう一回、あのマンションの除霊だ。面倒くさいけど念のためにな」
晴高は、タバコを指に挟んだまま頭を掻いた。
杉山は相変わらずカバンを胸に抱きしめてビクビクした様子だった。それでも目的のビルが見える場所まで来ると、彼自身も気になったようで歩く足が速くなる。
そして、ビルのエントランスの前で杉山は立ち止まった。
杉山の記憶の中で見た、あのエントランスと同じ光景が目の前にあった。
「行きますか?」
千夏が尋ねると、杉山はしばらく迷ったあと、こくんと大きく頷く。
エレベーターで五階まであがる。杉山はずっとカバンを抱きしめたまま、その肩はわずかに震えていた。事前に連絡しておいたため、現在五階に入っているテナントのスタッフは快く千夏たちをフロアに通してくれた。
現在はそこは、フィットネスクラブになっている。
杉山の記憶で見た、上司に酷く叱責されていたあの場所。
そこはいまは、窓から明るい光が差し込むフローリングスタジオになっていた。
ただ、窓の形は、あの記憶の中にあったものと同じだ。向かいの雑居ビルと、その向こうに西新宿の高層ビルが見えている。
『ソウカ……ソウナンダ……』
杉山は窓の前で立ち尽くした。
『ソウなんだ……』
彼の腕から、それまでずっと握りしめていたカバンがするりと落ちた。
その肩が小刻みに震えている。
千夏たちは、ただ見守るしかできなかった。彼がいま何を思っているのか、それは千夏にはわからない。でも、彼の中の時間はようやく動き出したようだった。
『……僕はこれから、どこに行けばいいんだろう……』
会社がなくなった事実を目の当たりにし、呆然と呟く杉山。
その声に応えたのは、晴高だった。
「お前にはもう、どこへ行くべきか見えてるんじゃないのか?」
彼は晴高の方を向くと、うつむく。
『でも……僕は、自分で命を絶ってしまった。そんな人間は天国なんていけないんでしょ?』
「その償いなら、もうとっくにしたんじゃないか?」
それは諭すでもなく、彼らしく淡々と事実を伝えるだけのような口調だった。
『え?』
杉山は怪訝そうに、晴高を見る。
「あんだけ何度も飛び降りて毎回死ぬ苦しみを受けてれば、自分の命に対する責任なんてもう十分だろう」
『で、でも。急に死んだから、きっとたくさんの人に迷惑を……』
「たしかに迷惑ではあっただろうが、悪いことではない。どうせ人間は大概みんな、急に死ぬもんだ。それに」
はっきりと晴高は断言する。
「そんだけ苦しんだ奴が救われないわけがないんだ。ほら、お前の身体を見てみろ」
『え?』
晴高の指摘どおり、杉山の身体はいつのまにか輪郭がキラキラと金色の光を帯び始めていた。
「お迎えだ」
杉山は驚いた目で自分の身体の光を見ていたが、ぶわっと双眸に涙をため、顔を両手で覆った。
『僕、死にたくなかった……死にたくなかったんだ。ただ、逃げたかっただけなんだ。辛くて、辛くて……仕事からも……人生からも。でも、逃げる方法を間違えたのかな……』
今度は、それまで黙って杉山と晴高のやりとりを見ていた元気が口を開く。
「死にたくなる前に仕事辞められたら、もっと違う人生があったのかも……って思いたくなるよな。でも、死んだ後に後悔しても、もう身体は戻らないんだよな」
彼も自分の死に対しては思うことはたくさんあるのだろう。その一言一言は、杉山に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だからさ、もし生まれ変わったら。今度は命捨てる前に、もっと捨てていいもん捨てて軽くなろうぜ。その方が、絶対生きやすいからさ」
杉山は顔をあげて、こくんと頷き返した。その顔にもう涙はなかった。
『うん。そうするよ。……ああ、もう、逝かなきゃ……』
「いってらっしゃい。お元気で」
千夏は杉山にそう声をかけた。こういうとき、お別れにどういう言葉をかければいいのかいつもわからない。でも、なんとなく前向きな言葉がいいような気がするのだ。その先に待つ新しい未来に向けて彼らは旅立つのだから。
『ありがとう……』
杉山は小さくはにかむように微笑んだ。途端に、彼の身体を覆う光が強くなると、ふわりと光の粒子が空気に溶け込むように彼の姿は見えなくなった。
「……逝ったな」
ぽつりと晴高が言ったあと、ハァと疲れを吐き出すように嘆息した。
「……なんとかなったな。今回はヒヤヒヤしっぱなしだったが」
「あれ? 今回は送り火だっていってタバコ吸わねぇの?」
と元気に言われると、ギロッと彼を睨む。
「ここで吸ったら怒られんだろ」
たしかに、フィットネスクラブの入口のところに全館禁煙ってプレートが貼ってあった。
「ああ、そうか」
「……あとで、吸う」
結局、吸うらしい。
フィットネスクラブの職員に礼を言って、オフィスビルを出ると直ぐに晴高はタバコを咥えて火をつけていた。
「さてと、どうします? このあと」
コインパーキングへ向かって歩きながら尋ねると、彼は紫煙を燻らせる。
「お前は代休申請しとくから、今日は家に帰っていい。俺は、後始末しにいく」
「後始末ですか?」
「もう一回、あのマンションの除霊だ。面倒くさいけど念のためにな」
晴高は、タバコを指に挟んだまま頭を掻いた。