好きになった人は、死人でした〜幽霊物件対策班の怪奇事件ファイル〜

 ある土曜日のお昼過ぎ。
 彼は自分がもっている一番いいスーツに身を包み、自宅マンションを出た。歩きながら胸ポケットのふくらみを何度も確認する。そこには、先週渋谷のジュエリーショップで購入した指輪が入っていた。
 いわゆる、婚約指輪というやつだ。
 マンションの階段を軽快に駆け降りると、いつもより早足で駅へと急いだ。
 待ち合わせをしている彼女とは、もう付き合って三年になる。
 彼女とは、大学のサークルで出会った。そのときはただの友達関係として終わってしまったが、三年前に同窓会で再会してから、どちらからともなく連絡先を交換して交際がスタートした。
 出版社に勤める彼女は休みも不定期で、銀行で不動産融資担当として勤めている自分とはなかなか休みも合わない。
 それでも極力二人で時間を合わせて、会える時はなるべく一緒に過ごすようにしていた。
 普段は家デートがほとんどだったけど、今日は久しぶりに外の待ち合わせ。
 おいしいレストランを教えてもらったから、一緒に行こうと言って誘った。
 その席で、プロポーズするつもりでいた。指輪も用意したし準備万端。
 赤信号で、彼は立ち止まる。ズボンのポケットに突っ込んであったスマホで時間を確認した。
 やばい。予定より五分遅れている。少し余裕をもって家を出るつもりだったのに、ついいつになく気合をいれた身支度に時間を取られて遅れてしまった。
 彼は胸ポケットを触る。そこに小さく四角い箱が感じられた。そのことに、ほっと安堵しつつ、歩行者用の信号が青に変わったところで横断歩道を渡りだした。駆け足気味にゼブラ柄の上を歩いていく。
 急いでいたこともあった。プロポーズのことに気を取られて、周りが見えなくなっていたのもあっただろう。
「あっ、危ない!」
 後方で誰かの鋭い叫び声が聞こえた。
「え……?」
 足を止めて振り向こうとした彼が目にしたものは、目の前に高速で迫ってくる一台の白いセダン。
 一瞬、鬼のような形相の運転手と目が合った気がした。
 やばいっ、そう思ったときにはもう、身体が宙を舞っていた。
 何が起こったのかわからないまま目の前の景色が高速で移り変わった次の瞬間、身体中に激しい衝撃が走る。
 道路に叩きつけられたのだと気がついた。
 ありえない方向に身体が曲がっているのがわかる。息が上手くできない。
 でも、目の前の道路に指輪がむき出しのまま転がっていた。胸ポケットに入っていたものが衝撃で転がり落ちたのだろう。
 なんとかそれに手を伸ばそうとするが、ちっとも身体が動いてくれない。
 手が、届かない。
 それが生前に彼が見た、最後の景色となった。
 高村(たかむら)元気(げんき)。享年二十七歳。
 よく晴れた、うららかな春の日のことだった。
「おはようございます。本日付でこちらに異動になりました、山崎(やまざき)千夏(ちなつ)と申します」
 グレーのパンツスーツに身を包んだ千夏は、職員たちを前に深々と頭を下げた。歓迎の拍手の中、顔をあげるとにこやかな笑顔をふりまいてみる。でもそんな和やかな雰囲気とは裏腹に、心の中は重く憂鬱な気持ちが渦巻いていた。
 ここは八坂不動産管理の水道橋支店。
 総武線の水道橋駅からほど近い十階建てのオフィスビルの三階にある。一、二階には都市銀行の支店が入り、四階より上はIT関連会社や塾など色々なテナントが入っている。そんな、都心のよくある事業所だった。
(はぁ……なんで私、こんなところにいるんだろう)
 はっきりいって、絶賛、意気消沈中だった。
 千夏は昨日まで、八坂不動産の企画部で働いていたのだ。八坂不動産は、ここ八坂不動産管理の親会社で、港区の一等地にピカピカの本社ビルを持っている。八坂不動産管理は、八坂不動産がもっている物件の管理業務を行うためにつくられた子会社だった。
 つまり昨日までは親会社の第一線で働いていたのに、こんな子会社の小さなオフィスに左遷されたのだ。完全に都落ち気分。
(私が何をしたっていうのよ)
 理由はわかっている。上司に嫌われたからだ。
 以前、上司が推し進めていた企画に契約上の手続きミスをみつけて、それを指摘したことがあった。そのことが上司のプライドを傷つけてしまったらしく、それ以来いじめとも取れるような仕打ちをされた。さらにはこんな報復人事まで受ける羽目になったのだ。
『君も、まだ若いんだからいろんな経験を積んだほうがいいよ』
 そう半笑いで言っていた元・上司の顔が脳裏をちらつく。
 千夏は呪詛の一つでも吐きたくなる気分だったが、それを無理矢理押し込める。いまは過ぎたことを思い出している場合じゃない。
 今日から新しい上司となる百瀬(ももせ)課長が、千夏を配属先である第一物件調査係のデスクへと連れてくると、職員たちを一人一人紹介してくれていた。第一印象を良くするために、千夏は無理して口角をあげ、笑顔をつくる。
 第一物件調査係はフロアの一番はじにあって、千夏が割り当てられたのは窓際から数えて二番目のデスクだった。
 職員たちはみな立ち上がって、課長が紹介するのに合わせてお辞儀してくるので千夏もそのたびに「よろしくお願いします」と頭を下げる。
 そこでふと、あることに気がついた。
 千夏の右隣の座席にひとりの男性が座っている。スーツに身を包んだ、千夏とあまり歳が変わらないように見える男性だ。彼だけが立ち上がることなく、ずっとうつむいたまま座っていた。
(気分でも悪いのかな……)
 よく見ると、顔色も悪い気がする。きっと、体調が悪いのに無理して出社してきたのだろう。課長もその男性には気を使っているのか、彼の自己紹介は飛ばしていた。だから、結局彼の名前はわからずじまいだ。
(まぁ、いっか。あとで誰かに聞くか、座席表見れば名前はわかるし)
 そのあと総務課での様々な手続きを終えて自分のデスクに戻ってきたら、オフィスの壁掛け時計は十時前を指していた。初めての職場に早くも疲れを感じ始めていたけど、お昼休みにはまだ遠い。
(そうだ。先週実家に帰った時に買ってきたお土産があったんだ)
 それを同じ係のみんなに配って十時のおやつにしてもらおう。
 千夏はデスクの下においてあった自分のトートバッグからお土産の箱を取り出した。かわいい缶に入った、地元名産のサブレーだ。サブレー系の中では一番おいしいと千夏は思っている。さくっとした触感と香ばしいバターの香りに手が止まらなくなる、地元自慢の名産品だ。
「どうぞ。この前実家に帰ったときに買ったんです」
 そう言って渡すと、ほとんどの職員たちは、
「お。俺、このサブレー好きなんだよね」
「おいしいですよね! 私も大好きなんです!」
 と表情を緩めてくれた。
 でも、千夏のはす向かいの席に座る男性職員だけは、デスクに置かれたサブレーに何の興味も示さないようだった。
(……なんか、怖い感じの人だな。この人)
 でも、よく見ると案外イケメンだった。センスのいい眼鏡の奥にある、鋭い切れ長の目。彼はノートパソコンのディスプレイに映し出された、どこかの物件の写真をじっと見ている。年頃は二十七歳になったばかりの千夏より、少し上くらいだろうか。
 顔が良い分、にこりともしないその雰囲気はどこか近寄りがたい空気を纏っていた。黒っぽいスーツの袖から、右手首に嵌められた水晶のブレスレットが覗いている。パワーストーンというやつかな。自席にもどって座席表で確認すると、『久世(くぜ)晴高(はるたか)』と記されていた。
 あまり見ない苗字だけど、この支店の別の課にも同じ苗字の人がいるとかで、こちらは下の名前で晴高係長と呼ばれているのだと課長が紹介していたのを思い出す。
 あまり関わり合いになりたくないなぁなんて印象を持ちながら、千夏は最後に自分の右隣のデスクにもサブレーを置いた。
 先程からずっとうつむいている、あの男性職員のデスクだ。
 体調が悪そうな人にお菓子を配るのもどうかと思ったけれど、一人だけ配らないのもよくないだろう。
「これ、おいしいんですよ。お口に合うようでしたら」
 そう笑顔で伝えたが、こちらも返事はない。ただじっと、うつむき加減でデスクの一点を見つめたままだ。顔色もやっぱり悪そう。というより、ほとんど蒼白だ。
「あの……大丈夫ですか? どこか、ご加減悪いようでしたら……」
 微動だにしない彼の様子に心配になった千夏がそう声をかけたとき、前のデスクから鋭い声が飛んできた。
「お前、そいつが見えてるのか!?」
「へ?」
 顔をあげると、声をかけてきたのは晴高係長だった。彼は立ち上がって、体調の悪そうなその男性職員を指さしている。
「え、あ、はい。なんだか、具合悪そうだなって……」
 そう答えると、晴高は切れ長の目をびっくりしたように見開いて「まじかよ」と小さくつぶやいた。そして、衝撃的な一言を口にする。
「……そいつさ。幽霊だよ」
「………………はい?」
 言われた意味がすぐには理解できず、千夏は間の抜けた声で聴き返すしかなかった。
 驚く千夏に、晴高はさらに言う。
「だから。そいつ、死人。視えてるのは、俺とお前くらいなもので他のやつには視えてない」
「え……ええ!?」
 うそ……こんなにはっきり視えているのに? 
 千夏は内心焦って周りを見わたす。同じ係の職員たちは仕事の手をとめて不思議なものを見る目で千夏と晴高のやりとりを眺めていた。集まる視線が痛い。
(やっちゃった……!!)
 千夏は小さい頃から時々、霊を見ることがあった。
 「あの浮いているおばちゃん誰?」と友達に尋ねたら、変な子扱いされてからかわれたこともある。それからというもの、霊が視えることは外では言わないようにしていた。 
 そうやって気をつけてきたのに、今回、うっかり話しかけてしまったのは、
「え、だって。こんなにはっきり視えてるんですよ……!?」
 輪郭がぼやけることも透けることもなく、生きている人間と区別がつかないほどはっきり視えていたからだ。しかも、職員席に座っているなんて、完全に騙された。
「それは、たまたまそいつと波長があったんだろう。そいつ。前からこのあたりをウロウロしている浮遊霊だ」
 晴高が淡々とした口調で、さらに続ける。
「ネガティブな感情をもっていると霊と波長が合いやすくなるらしいしな。お前、八坂不動産からの異動なんだろ? おもいっきり左遷だよな。本当は、こんな子会社の出先なんて来たくなかったんだろ?」
 本心を見透かしたかのような容赦ない言葉に、千夏はピキッと固まった。
 二人のやりとりをオロオロしながら見ていた百瀬課長が、さすがにこれ以上はまずいと思ったのか間に入ってくる。
「ふ、二人とも。それくらいに……」
 しかしもう千夏には百瀬の言葉は耳に入ってはいなかった。そんな余裕なんて無い。
(そうよ。左遷よ! どうせ、私の前所属を聞いた時点でみんな薄々分かってたんでしょ!?)
 千夏はキッと晴高を睨んだ。
 睨んだけれど、すべて図星なので反論する言葉も浮かんでこない。
 周りの同情じみた視線が痛い。なんて、無様(ぶざま)なんだろう。泣きたい気分で涙をこらえながら、幽霊だと指摘された隣の席の男に目を向けた。
 元はと言えば、あんたが紛らわしく生きてる人間と変わらない見た目をしてたからいけないのよ。と、恨みがましい視線を向けたところで、千夏は「え?」と声を漏らした。
 いままでずっと微動だにせず俯いてデスクの一点を見つめていた幽霊男が、その双眸からハラハラと涙を流して静かに泣いていたのだ。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
 思わず幽霊男にそう尋ねてしまい、千夏はしまったぁ!と心の中で後悔した。また、幽霊男に話しかけてしまったじゃないか。
 晴高がやれやれという視線を投げてくる。
 あああああ、もう、今日の私、ダメすぎる。
 はぁと嘆息をついたそのとき、幽霊男がぽつりと何か言葉を発した。
「これ…………食べてもいいんですか?」
 弱い、いまにも空気に霧散してしまいそうな声。でも、驚きと嬉しさが混じりあったような響きがあった。
 幽霊の声なんて聞いたのは初めてだったけれど、こちらから会話を初めてしまった手前無視もできない。
 千夏は生きている人と同じように接することにした。
「ええ。どうぞ。アナタにあげたものだから」
「ありがとう……ございます……」
 幽霊男は涙を拭うこともせず、膝の上に置いていた右手をデスクの上に出すと、ゆっくりとした動作でサブレーの袋を手に取る。
 その瞬間、不思議なことが起こった。
 サブレーの袋はデスクの上に置かれたまま動いてはいないのに、幽霊男の手には同じサブレーの袋がある。まるで袋が分裂したようだった。彼の手にある方は、若干半透明で向こうの景色が透けている。
 彼はその袋を開けると中身を出してしみじみと眺めた後、おそるおそるといった様子で口に運んだ。
 彼がサブレーをかじると、さくっと小気味良い小さな音がした。
 そして、じっくり味わうように咀嚼する。
「ああ……うまい。やっぱ、うまいなぁ、これ……」
 彼は何度も「うまいなぁ」を繰り返しながら、嬉しそうにサブレーを食べた。
 あらためて彼をじっくり見ると、彼はいかにもサラリーマン然とした格好をしていた。明るめのグレースーツに青色のネクタイ。髪は茶色みのある明るい色をしていて、少し癖があるようだ。顔もそこそこ整っていて、イケメンと言うよりもどちらかというと愛嬌がある顔立ちをしている。もし幽霊でなければ、好青年として年上にも可愛がられたタイプだろうなぁ。千夏はそんな想像をしてしまう。
「まだ余りあるけど……食べる?」
 千夏がそう声をかけると、幽霊男はパッと嬉しそうにはにかんだ。笑った顔はちょっと可愛い。
「はい、どうぞ」
 缶の中に残っていたサブレーを渡すと、彼はにこにことサブレーを受け取る。ここでも不思議なことに、彼は確かにサブレーの袋を受け取ってその手にしっかり持っているのに、千夏の手にもまだサブレーの袋は残ったまま。つまり、彼が物を手に取ると、まるで物の幽体部分?だけが彼の手元にうつり、そのものの実体はその場に残るようなのだ。
「ありがとう」
 彼は礼をいうと、そのサブレーも袋をあけてむしゃむしゃ食べ始めた。どれだけお腹がすいていたのだろう。いや、幽霊もお腹がすくのかな?
 普通にやりとりのできる彼に、いつのまにかすっかり恐怖心はなくなっていた。千夏は自分の席に腰を下ろすと、マジマジと彼を眺める。
 たしかによく見ると全体的に若干半透明ではあるのだが、よく見ないとわからない程度だ。他の人にはこの幽霊男自体が視えてはいないのだろうが、千夏の目にはそう見えた。
 自分の席で頬杖つきながらサブレーを無心で食べる彼を眺めていたら、向かいの席から大きなため息が聞こえてきた。声のした方に視線だけ向けると、晴高だった。
「……あんた、すごいな。幽霊と会話できるのか」
 呆れたような驚いたような、そんな声で晴高がいう。
「え……ちょ、ちょっとまってください。私も、初めてですから。こんな風にコンタクトとれたのなんて」
 とそこに、それまでハラハラした様子で千夏たちのやりとりを見ていた百瀬課長がスッと目の前にやってきた。いつの間にか、その顔にはニコニコとした満面の笑顔が浮かんでいる。
「晴高くん。良かったじゃないか。パートナーが見つかって」
 当の晴高は、相変わらず無表情の仏頂面だったが、ややあって小さく頷く。
「はい。そうですね。ここまでの適任は、そうそういないと思います」
「だよね。じゃあ決まりだね」
 二人の間で、勝手に話が進んでいく。なんだか自分のことを言われていることは分かるのだが、話が見えなくて千夏は落ち着かない。
「……え、ちょ…………なんのことですか?」
 戸惑う千夏の両肩を、百瀬課長はがっしりと掴むと、逃がさないよ?とでもいうように強い笑顔で言った。
「君には晴高くんと一緒にペアを組んで仕事をしてもらうことにしたよ。君たちの担当は、特殊物件対策班だ」
「…………はぁ」
 特殊物件ってなんだ? と顔に疑問符を一杯浮べていると、大きな嘆息混じりに晴高が教えてくれた。
「別名、幽霊物件対策班。つまり、幽霊の出る物件を調査して除霊するのが俺たちの仕事だ。幽霊が出ると借り手がつかなかったり、ついてもすぐに出て行かれたりするしな」
「…………ゆ、ゆうれい…………ですか?」
「そう。この仕事は霊が視えないことには務まらない。いままで俺独りでやってたから、抱えてる物件は結構多いんだ。このあとすぐ現地調査いくぞ」
「ええ!? 今から幽霊物件の調査ですか!?」
 晴高からは冗談を言っている雰囲気は微塵も感じられない。なんだか、着任早々妙なことになってしまった。
 それもこれも、この幽霊男のせいだと勝手に恨みがましく幽霊男を見ると、サブレーをかじったまま申し訳なさそうにこちらを見ていた彼の視線と目が合う。まったく、もう!
 晴高の運転する社用車のセダンに乗って連れてこられたのは、練馬区にある二階建ての賃貸アパートだった。
 築年数は十年ほど。新しくもないが、そんなに古いわけでもない。実際、外から外観を見た限りでは、取り立てて不気味な感じや嫌な印象は受けなかった。
 今回の調査対象になっているのは、二階にある202号室。
 階段をのぼってその部屋の前まで来ると、『202』という表示のある部屋の前で三人は立ち止まった。
 そう。三人なのだ。
 晴高と千夏と、そして。
「なんで、アナタまでついてきてるのよ」
 千夏は隣に立つ、よく見ると若干透けている幽霊男に言う。てっきり水道橋支店のあの席にずっと座っているのだとばかり思っていたその幽霊は、いつの間にか千夏と晴高のあとをついてきていたのだ。そのことに気づいたのは、さっき車を降りたとき。どうやって付いてきたのかはよくわからないけど、気がついたら後ろにいた。
「なんか、俺のせいで迷惑かけちゃったみたいだったから。申し訳なくて」
「申し訳ないと思うんなら、もう二度と私の前に姿をみせないでほしいんですけど」
 この幽霊男は、もはや普通の人と変わらない調子で千夏に話しかけてくる。いっそ無視すればいいのかもしれないし、はっきりと拒絶すれば離れていってくれるのかもしれないけれど、今は初めて携わる仕事の最中なのでそこまでの余裕もなかった。
「すみません……」
 千夏にきついことを言われて、幽霊男は高い背を丸めてしゅんと俯いた。
「とりあえず。幽霊さんは、その辺でふらふらしててください。いま、仕事中なので」
「あ、俺。高村元気って言います」
「元気、ね……」
 なんとも幽霊には似つかわしくない名前だ、というのが名を聞いたときの第一印象だった。
 生きていた時につけられた名前だろうから、幽霊っぽくなくても仕方がないのだろうけれど。
 そして椅子に座っていたときは気づかなかったけど、この幽霊男、案外背が高いのだ。おそらく180センチ近くあるんじゃないだろうか。幽霊のくせにくるくるとよく変わる表情と言い、明るい髪色といい、さしずめゴールデンレトリバーみたいな印象だった。席で青白い顔をしてじっと俯いていたときとは別人のよう。
「すっかり憑かれたみたいだな。お前が話しかけたりするからだ。あとでお祓い行ってこい」
 と、まるで他人事のように晴高はそう言い捨てると、会社から持ってきた管理用のマスターキーを使って202号室のドアを開けた。
 晴高は元気よりも少し背が低いけど、濃い黒髪に黒いスーツと全体に黒っぽい印象が強い。常に視線も言葉も鋭くて、笑顔なんて初めから標準装備していないんではないかと疑いたくなるほどの仏頂面。でも、やたらと顔が整っているので、余計近寄りがたい雰囲気を醸している。元気がゴールデンレトリバーだとしたら、こっちはさしずめドーベルマンといったところかな。
 なんとも正反対の二人とともに物件調査にやってきた千夏は、はぁと大きくため息をつくと202号室へと足を踏み入れた。
 そこは、ごく普通の1LDKの部屋だった。しかし入った途端、急にぞわっと両腕に鳥肌が立つ。
(え、何これ)
 室温が外とくらべてグッと低いような気がした。外はぽかぽかと春の陽気なのに、この部屋に入った途端、もう一枚上着がほしいくらいの寒さを感じる。
 晴高は、玄関で持参したスリッパに履き替えるとすたすたと家の中へ入っていった。置いてけぼりにされたくなくて、千夏も靴をぬぐとストッキングのまま晴高のあとを追う。
 玄関から入ってすぐのところにキッチンがあり、その奥にリビングダイニング。さらにその左隣には小ぶりな洋室があった。リビングダイニングと洋室のあいだは可動式の壁で仕切れるようになっていたが、いまは開いたままになっている。
 そのどちらの部屋もベランダへ出られる掃き出し窓がついていた。窓からはあたたかな日差しが室内へと差し込んで、床に陽だまりをつくっている。
 二階に位置し、窓からはよく日差しが差し込んでいるにもかかわらず、どこか部屋の中が薄暗い。
(……ここ、嫌だ……)
 心の奥から、今すぐこの部屋を立ち去りたい気持ちがぞわぞわとわいてきた。何が嫌なのかはわからない。室内は家具一つなく殺風景。でも掃除が行き届いているし、とくに嫌悪感を覚えるような要素はないはずなのだ。それなのに、なぜかここにいたくない、いてはいけないという気持ちが抑えきれなくなってくる。
 晴高が一緒にいるからいいものの、自分ひとりだったら間違いなくすぐに逃げ去っていただろう。
「なんか、嫌な感じですね、ここ」
 スプリングコートの上から腕をさすりつつ、千夏は晴高のそばに行く。
 晴高は手に持っていたビジネスバッグからファイルブックを取り出してページを繰っている。ファイルブックには、会社のデータベースをプリントアウトしてきたと思しき資料が挟まっていた。
「ここの最後の借主は、松原涼子。三年ほどここに住んでいたが、彼女からは特に苦情のようなものはあがっていない」
「三年もこの部屋に住んでいたんですか……」
「当時は何の問題もなかったんだろう。問題が出たのは彼女の死後だからな」
 涼子さんは、一人暮らしの派遣社員だった。数か月前に職場で突然倒れて亡くなっている。死因は、脳卒中だった。彼女の死後、ここにあった家具類は賃貸契約の保証人でもあった彼女の両親に引き渡されている。でも……。
「この部屋の明け渡しが完了した後、おかしなことが起こりはじめたんだ」
 晴高はファイル片手に淡々と語る。
「この部屋の明け渡しが完了したのが十日前。その翌日の夜に、隣の201号室の住民が深夜に帰宅すると、壁の向こうから女性の泣くような声が聞こえたんだそうだ。その声は一晩中聞こえていたと報告にある。さらにその次の日には泣きながら共用廊下をさまよいあるく女性の影を複数の住人が見ている。そしてそのあと日は違うが、夜中に寝ていると突然金縛りにあい、女性の霊が足元から泣きながら這い上ってきたという報告が二件あがっている。こっちは102号室と、203号室だな。どちらもこの部屋と隣接した部屋だ」
 ほかにも壁や天井から叩くような音が聞こえたり、閉めたはずの窓やドアが勝手に開いたという報告もあった。
 当然住民からは苦情や調査依頼が殺到し、中には賃貸契約中にもかかわらず「こんな家には住めない」とホテル暮らしをしだした入居者もいるという。
 こんな状態では退去者が続出してどんどん空き室が増え、やがてここには誰も住まなくなってしまうことだろう。それを大家さんは非常に心配しているのだという。
「実際のところ、その影や声の正体が松原涼子だっていう確証はない。ただ、奇妙なことが起こり始めたのがこの部屋の明け渡しの直後だったことや、怪異の大半がこの部屋に隣接した部屋で起こっていることから、松原涼子の霊が関係している可能性は高いだろうな」
 というのが、晴高の見解だった。
 今日もまた、日が暮れるとこのアパートのあちこちで怪奇現象が引き起こされるんだろうか。いまはまだ外が明るいからいいけど、その怪異の原因とおぼしき部屋にいると考えただけで怖くて呼吸が浅くなってくる気がした。
 この世のものではない存在を相手に、自分たちに一体何ができるというんだろう。
「どう……するんですか?」
 おそるおそる晴高に尋ねると、彼は持っていたカバンを足元へ置いた。そして右手首にしていた水晶のブレスレットを親指と人差し指の間にさげて片手拝みすると、
「どうするもなにも。俺たちはただ、霊をみつけて除霊をするだけだ」
 目をつぶり、御経を唱え始める。
 いつもの少しぼそぼそとしたしゃべり方とは違い、朗々としたよく通る声でよどみなく晴高の口から紡がれる御経。
 経を詠む声が部屋中に染みわたっていくと、千夏はこの部屋に入ってからずっと感じていた心の表面が泡立つような不安が嘘のように落ち着いてくるのを実感した。
 しかしほっとしたのも束の間、千夏の背後から「うう……」とうめき声が聞こえた。明らかな男の声。驚いて振り向くと、先ほどまで千夏と同じように部屋を眺めていた元気が、胸を押さえて苦しそうに俯いていた。
「……え。ちょっと、どうしたの?」
 どうしたもなにも、読経のせいなのは明らかだった。そのことに晴高も気づいたようで、唐突に経を詠むのを止める。御経が消えると、元気はうつむいたまま膝に手をついて安堵したように肩で大きく息をした。
「……死ぬかと思った」
「いや、アナタすでに死んでるでしょ」
 つい間髪いれず、そう突っ込んでしまう千夏。
 元気は顔をあげると、脂汗のにじんだ額を手の甲で拭いながら弱ったように笑みを浮かべる。
「死んでから、体調悪くなるの初めてだったからさ。驚いちゃって」
 そんな感想をもらす元気だったが、彼を眺める晴高の目は冷たい。まるで実験動物の反応でも検証するかのような乾いた目で、彼の変化をジロジロ見ていた。
「やっぱ、ソレにも効くんだな。どうせなら一緒に除霊してしまってもいいんだが」
 晴高がそう言うと、元気もさすがに身の危険を感じたのか後ずさって彼から距離をとる。晴高が数珠を持つ手を元気に向けて再び口を開こうとしたとき、千夏は二人の間に割って入った。元気を背に隠すように晴高の前に立つ。
 なぜ、彼をかばおうと思ったのかはわからない。でも、生きている人間と同じように笑ったりしゃべったりする彼を見ていると、ここで無理やり除霊してしまうことは何とも気の毒な気がしてしまったのだ。
 それに現時点では、彼は何ら悪さはしていない。除霊しなければならない理由もない。
 晴高の鋭い目で見つめられるとついたじろいでしまうが、それでも負けまいと千夏はじっと晴高を見つめた。しばらく見つめあった後、晴高のほうが先に折れる。彼は小さく嘆息すると、淡々とした口調で苦言を呈した。
「一応忠告しとくが、ソイツをかばったところで(ろく)なことにはならんと思うぞ」
「わかってます。……でも、なんだか苦しそうだったから、気の毒で。除霊ってそんなに苦しいものなんですか?」
「さあな。俺は幽霊になったことないから知らんが、幽霊なんてもともと何かしら未練があってこの世に残ってるもんだ。除霊ってのは、この世にとどまりたがっている霊を無理やり引きはがしてあの世に追いやるんだから、苦しみを感じるやつもいるのかもな」
 晴高はそう言いながら床においたカバンを取り上げると、中から一枚の紙を取り出して千夏に渡してくる。
 縦長な白い紙に黒と朱の墨で文字が描きつけられている。お札のようだった。
「それを後ろの幽霊に持たせておけ。そうすれば、(きょう)の影響を受けないで済むはずだ」
 持たせておけ、と言われたってどうやって渡せばいいのかわからない。千夏はお札をもったまま晴高と元気を見比べた後、元気の胸におしつけるようにお札をつきつけた。当然、千夏の手は元気の身体を何の抵抗もなくすり抜ける。
 やっぱり、この人は実在しない人間なんだ。いくら会話ができて、生きている人間と変わらない外見をしていても、この人は幽霊なんだということを千夏は改めて実感する。
 そんな千夏の感傷をよそに、元気はそのお札を受け取るような仕草をした。すると、サブレーの時と同じように、お札が実体と半透明な幽体とに分かれ、元気の手には幽体のお札があった。実体の方はいまだに千夏の手の中にあるけど、一応これで元気に渡したことになるみたい。
 そのやり取りを見届けると、晴高は再び水晶の数珠を持った右手を片手拝みの形にして読経を再開した。
 元気の様子が気になったけれど、お札をもらった彼は今度は読経の影響を受けないようでケロッとしていた。本人も不思議なのか、ぽつりと「お札、すげぇ」とつぶやくのが聞こえてきたので、思わず千夏はクスリと笑みを漏らす。
 晴高の読経は続く。
 それにつれて明らかに部屋の空気が変わってきた。それまでは不気味にシンと静まり返っていた室内が、読経の声にあわせてあちこちでバチバチという大きな静電気のような音がしだす。あれはラップ音というやつかもしれない。
 室内の空気が、千夏にもよく説明できないけれど、なぜかとても荒らぶっているように感じられた。何かがひどく怒っている。そんな落ち着かなさ。
 そのとき、元気の声が読経の声にかぶさって響く。
「あ! あれ!」
 元気が指さしたのは、寝室として使われていたであろう洋室の一角。
 その部屋の隅に、吹き溜まるように黒いモヤが表れていた。
 モヤは次第に大きくなり、人の形のような輪郭を作り出す。
 千夏はごくりと生唾を飲み込んだ。あれが、このアパートの住民たちを困らせている人影の正体なのだろう。

 オオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォ

 声とも泣き声ともつかない音を発しながら、晴高に黒い影の一部が伸びる。それは、読経をやめさせようと霊が手を伸ばしているようにも見えた。
 晴高の読経はなおも続いている。
 地の底から響いてくるかのような不気味な音は、やがて千夏の耳にはっきりとした声として聞こえてきた。

……ヤメテ……、ヤメテ……クルシイ……ヤメテ……

 元気のときと同じように、霊は苦しそうだ。でも除霊のためには仕方ない。そう思おうとした。でも、霊の次の言葉に千夏はハッとする。

……タスケテ、ミーコ……タスケテ……

(え……ミーコ?)
 いま、霊は確かにそう言ったように聞こえた。
 タスケテと言っているように聞こえたけれど、自分のことを言っているわけではないようだ。
 この霊は何かを訴えかけてきている。そんな霊を一方的に除霊してしまっていいのだろうか。こんな強制退去のような方法でいいんだろうか。ぐるぐると疑問が浮かんでくる。

ミーコ……シンジャウ……ミーコ……

 目の前の苦しそうにもがく霊を見ていると、なんだか居たたまれなくなってくる。
 それで、つい口をついて出てしまった。
「晴高さん、ちょっと待ってください!」
 晴高が読経をやめて、ギロッとこちらを睨んできて初めて「ああああ、やっちまったぁ!」と千夏は内心焦ったがもう遅い。
 読経が止まったことで、黒い影もスーッと空中に溶け込むように消えてしまった。
「……どういうことだ?」
 そう言って睨んでくる晴高の視線が痛い。声に明らかな抗議の色が滲んでいた。
「……すみません。つい」
 千夏はしゅんと肩を落とすと、素直に謝る。
「お前は、俺の邪魔をしにきたのか?」
 晴高の剣呑な声が千夏に刺さる。
「……いえ、違います」
 彼の仕事の邪魔をしようという意識は微塵もなかった。でも、邪魔になっていたのは確かだ。元気が除霊されかけていたのを妨害したし、今度は本来の仕事であるこの部屋の霊を除霊することまで妨げた。それに関しては、言い訳のしようもない。
 晴高は千夏に聞こえるようにあからさまにため息をつくと、
「もう、いい」
 そう一言呟いて、カバンを手にすたすたと玄関に向かって歩き出した。
「……え? あ、ちょ……!」
 慌てて千夏は彼の背中を追いかける。
「待ってください。どこへ行くんですか?」
 千夏の静止の声に彼が応えて足を止めたときにはもう、彼は靴を履き終えて共用廊下に出たところだった。晴高は尻ポケットから取り出したタバコを咥えるものの、「くそ。禁煙してたんだった」と忌々しげに咥えたタバコを手で握りつぶし、睨むような冷たい視線で千夏を振り返る。
「どうもなにも。除霊されたくないんだろ。だったら、お前が自分でやれ。この部屋をなんとかしろ。期限は今週いっぱいだ」
「私、一人で……ですか」
「他に誰がいるんだ」
 千夏はただ視えるだけの人間だ。晴高のように除霊の術など持っていない。
 その上、今しがた目にしたあの恐ろしい霊とたった一人で向き合うだなんて、想像しただけで身体の芯から冷たくなってくる。
 でも、さっきあの霊が訴えてきた言葉が気になっているのも確かなのだ。
 ここで千夏が嫌だといえば、晴高は「ほれみろ」とすぐにあの霊を除霊しにかかるだろう。そうすれば、抱えている案件の一つが完了して、この仕事はおしまい。
 晴高は、もしかすると一人でやれと突き放すことで千夏が音《ね》を上げて除霊に同意するのを期待して、こんな冷たい態度を取っているのかもしれない。元々冷たい人なのかもしれないけれど。今朝顔見知りになったばかりの上司の考えることなんて、分かるはずもない。
 ただ一つ言えることは、ここで千夏が逃げてしまえば、あの霊の訴えが顧みられることは二度とないということだ。
 千夏は意を決して顔を上げる。そして、真っ直ぐに晴高を見つめて言った。
「やります。私、今夜ここに残ります」
 自分でも意外なほど、凛とした声が出た。鉄面皮のような仏頂面の晴高の目が、一瞬大きく開かれたように見えた。彼も、千夏のこの反応は予想外だったのかもしれない。無理もない、千夏自身だって驚いているんだから。
 でも、さっき。晴高がもっていたファイルを横から覗いたときに見てしまったのだ。見えたのは松原涼子のプロフィール。彼女は、千夏と同い年だった。
 自分と同じ年月生きていた人が、なぜいまここで皆を悩ます霊になんてなっているのか、知りたかった。気になった。放っておけなかった。
 晴高はしばらく何かを考えているようだったけれど、カバンから何かを取り出すと、
「勝手にしろ」
 そういいながら、千夏に投げてよこした。
 取り落としそうになりながらも受け取って見てみると、鍵束のようだ。
「管理会社用のマスターキーとかだ。資料はあとで会社の個人アドレスに送っておく」
 それだけ申しわたすと、晴高はくるっと向きを変えて廊下を階段の方へと歩き去ってしまった。彼が階段を降りる音、ついで乗ってきた社用車のドアを開け閉めする音。車の去っていく音が消えたら、辺りはしんと静まり返った。
 各部屋には住民もいるはずなのだけど、まだ日が高いので留守にしているのか、それとも幽霊を恐れて帰ってこない人が多いのか。住宅街のど真ん中にあるというのに、ポツンと取り残されたようにアパートには人の気配がなかった。
 忘れかけていた恐怖が再び忍び寄ってくる。それを振り払おうと、千夏は空元気を奮い立たせ、無理して平気そうな声で言った。
「なんなら、あなたももう帰っていいわよ? べつにうちの会社の職員じゃないんだし」
 しかし元気は気の毒そうな顔でゆるゆると首を横に振る。
「俺もまだここにいるよ。どうせ帰るところもないし。助けてもらったから。……それにしても、あの晴高ってやつ酷いよな。今日異動してきたばっかの部下を、いきなりこんな現場に放置するなんて」
 元気は晴高の千夏に対する扱いの悪さを怒ってくれた。それで少しだけ胸のモヤモヤは晴れたけど、それ以上に予期せずして背負ってしまった仕事の重荷で胃がキリキリと痛み出していた。
「仕方ないよ。私が自分で言い出したことだもん」
 そして自分を奮い立たせるように努めて明るく言った。
「さて。少し早いけど晩御飯食べてきちゃうね。とりあえず、あの霊にもう一度会って彼女が訴えていることに耳を傾けてみるしかないもの」
 気がつくと廊下に落ちる千夏の影が長くなっていた。元気の足元には、もちろん影はない。赤くなり始めた空が、今日はやけに不気味に思えた。
 千夏が早めの夕ご飯を食べに駅前のファミレスへ向かうと、いつのまにか傍から元気の気配が消えていた。やっぱり、なんだかんだ言いつつも職場に戻ったのだろう。他の場所へでかけたのかもしれない。
 千夏は口では強気なことを言いつつも、内心では元気の存在を頼もしく感じていたようだった。彼がいなくなってはじめて、そのことに気づく。彼がいないことが、酷く心細かった。幽霊なんかに何を勝手に期待していたんだろう。これは自分の仕事であって、元気には関係ないことなのに。
 これからあの幽霊アパートへ戻って、たった一人で幽霊と対峙して解決策を導き出さなければならないことを考えると、恐怖で胃に穴があきそうだった。それは時間経過とともにどんどん強くなってくる。アパートへと帰る足取りが重かった。それでも、逃げ出すわけにはいかない。
 小さな勇気を振り絞ってアパートへ戻ると、入り口のところに見慣れた長身のスーツ男子が立っているのが見えた。元気だ。千夏の顔に自然と笑みが浮かぶ。彼の姿を見た途端、胸の中に温かな灯火がポッと灯ったかのようだった。一人じゃないことが、こんなにも有り難いだなんて。
 よく考えると元気自身も幽霊なのだが、彼からは怖いとか不気味といったネガティブな印象は一切受けない。始終眉間にしわを寄せている晴高と比べると、元気の方がずっと人間らしく思えるから不思議だ。
「戻ってこなくても良かったのに」
 強がってそんなことを言うと、
「こんなとこに一人で置いておくなんて、できないよ」
 そう当然のような調子で返ってきた。千夏の顔が、思わず綻ぶ。本当は、戻ってきてくれてありがとうって言いたかったのに、なんでこういうときに限って言葉が上手く出てこないんだろう。
「それに、誰かと喋るなんて久しぶりだから、つい嬉しくてさ」
 そういって、元気ははにかんだ。
 それはそうだろうな、と千夏も思う。視える人はちょくちょくいるのだろうが、会話できる相手となると珍しいだろう。千夏自身も幽霊と会話するのなんて初めてのこと。話しかけてくる相手がいままでいなかっただけなのかもしれないけど、晴高が言っていた『たまたま波長があった』というのもあながち外れてはいないのかもしれない。
「話す時間ならいっぱいあるわよ。それじゃあ、とりあえず部屋に入りましょうか」
 日が沈んだいま、アパートの周りは暗闇に包まれていた。もちろん周囲の住宅の明かりや街灯、それにアパートの共用廊下にも照明はしっかりついている。それでも、そのアパートの周りだけ、モヤでもかかってんじゃないかと思うほどに薄暗く感じられた。
 階段を上って202号室の前まで来ると、晴高から渡されたマスターキーでドアを開ける。夕飯を食べに出る前に部屋中の照明をつけていったので、室内は煌々《こうこう》と明るい……はずなのだが、やっぱり薄暗く感じてしまう。
 開いたドアの隙間から、冷えた空気がスーッと千夏の肌を掠めて通り過ぎて行った。室内は、昼間以上にヒンヤリと冷たい空気で満たされていた。
 千夏はコンビニの袋を手に持ったままリビングダイニングを通り、洋室へと向かう。カーテンがないため、窓ガラスには夜が写り込んでいた。千夏は普段、自宅にいるときは暗くなるとすぐにカーテンを閉めるようにしている。暗い窓の外からこの世ならざるものが覗き込んでる気がしてしまって気持ちが悪いからだ。
 でも今日は、カーテンがないことに却って安心を覚えた。いくらこのアパートに人の気配が薄いとはいえ、住宅街の真っ只中に建っているのだ。窓から外を見ると街灯や道路を通る通行人、向かいの家の明かりなどが見渡せる。人の気配を感じられるのが、いまはとても心強かった。
 千夏は壁に寄りかかるようにしてペタンと床に座る。スマホで会社の個人メールアドレスを確認してみると、晴高からメールが届いていた。メールにはファイルが添付されている。
 松原涼子と、その後引き起こされた怪異についてのPDFだった。メールには添付ファイルのほかには「山崎様」と宛名が書かれているだけで、本文に「大丈夫か?」の一言もないあたり、やっぱり晴高は徹底的に冷たいやつだという認識を新たにした。
 幽霊が出るのは夜中だろうから、それまでまだ時間がある。千夏は時間潰しも兼ねて、晴高から届いた資料を読み込んでみた。
 松原涼子は、都内の会社に派遣社員として勤めていた。この部屋の保証人になっているのは、埼玉に住む彼女の父親。元気もスマホを覗き込んでくるので、彼にも見えるようにスマホの位置を調整する。
 生前は住民トラブルのようなものは一切なし。両親の連絡先も書いてあった。明日、電話して話を聞いてみようかな。何か糸口になることが見つかるかもしれない。
 しばらく資料を読みふけっていたけれど、そのうち小さなスマホの画面を眺めるのも疲れてしまって、千夏は「ふぅ」と顔を上げた。
「出てくるのかなぁ」
 そんな言葉が口をついて出る。
「毎日出てるらしいからね。今も、ほんのわずかだけど気配は感じてる」
 そう元気が部屋の奥をちらちらと見ながら言った。
「…………やっぱり、いるんだ」
「うん。でも、いまはじっと(ひそ)んでいるという感じかな。たぶん、動きやすい時間になるまで待ってるんだろうね」
「こういうのって地縛霊、っていうのよね……?」
 あまり詳しい霊の種類はわからないけど、いつまでもじっと同じ場所に留まる霊のことをそう呼ぶ程度のことは知っていた。何かその場所に思い入れがあって、離れられないのだろうか。
「たぶんね。俺も、よく知らないけど」
「元気は、浮遊霊?」
「さぁ、どうだろうね。自分でもよくわからない」
「ああ、そっか。いまはフラフラしてるけど、普段はあのオフィスにいるんだっけ」
 今朝、初めて元気の姿を見たときのことを思い出してみる。元気は、生気のない顔をして空いているデスクに座って俯いていた。改めて思うけど、生きている人と変わらないくらいコミュニケーションがとれる今の元気とは、まるで別人だ。
 元気は、千夏の疑問に曖昧な苦笑を浮べた。
「俺だってずっとあそこにいたわけじゃないよ。他に、行くところがなかったから仕方なくあそこにいただけ」
「でも、あそこで亡くなった……ってわけでもないんでしょ?」
 こくんと元気は頷く。
「俺、あそこの下の階にある銀行に勤めてたんだ」
「え? あ、そうなんだ。銀行マンかぁ」
 スーツ姿が(さま)になっているなと思っていたら、やっぱり普段からスーツを着るお仕事だったようだ。
「そう。不動産融資の担当だった。二階にデスクがあってさ。幽霊になってから行くとこなくって、元々自分のデスクがあったあたりをウロウロしてたんだ。そしたら、幽霊が出るって噂がたっちゃって。怖がった職員にお札を貼られて居づらくなったから、上の階に移動したんだ」
 なんと、そんな事情があったとは。
「でも、なんで職場にいるの? 元の自宅とかは?」
「借りてたワンルームはいまは別の人が入ってる。……新しい住人が、恋人連れ込んでてさ。そんなところに居座るの嫌だろ?」
「あはは。確かに。他人がいちゃついてるのなんて、見たくないよね。それなら、まだ職場の方がましかぁ」
 それは気持ち分かるなぁと笑う千夏に、うん、と元気は神妙な顔で頷いた。
 そして、彼は闇に沈む窓の外に目を向けながら、ぽつりと言う。
「俺……彼女にプロポーズしようとして、家を出たところで交通事故にあって死んじゃったんだ」
「え……」
 千夏は言葉につまる。元気は、窓の外を見ながらもその目はどこか遠くを見ているようだった。