ある土曜日のお昼過ぎ。
彼は自分がもっている一番いいスーツに身を包み、自宅マンションを出た。歩きながら胸ポケットのふくらみを何度も確認する。そこには、先週渋谷のジュエリーショップで購入した指輪が入っていた。
いわゆる、婚約指輪というやつだ。
マンションの階段を軽快に駆け降りると、いつもより早足で駅へと急いだ。
待ち合わせをしている彼女とは、もう付き合って三年になる。
彼女とは、大学のサークルで出会った。そのときはただの友達関係として終わってしまったが、三年前に同窓会で再会してから、どちらからともなく連絡先を交換して交際がスタートした。
出版社に勤める彼女は休みも不定期で、銀行で不動産融資担当として勤めている自分とはなかなか休みも合わない。
それでも極力二人で時間を合わせて、会える時はなるべく一緒に過ごすようにしていた。
普段は家デートがほとんどだったけど、今日は久しぶりに外の待ち合わせ。
おいしいレストランを教えてもらったから、一緒に行こうと言って誘った。
その席で、プロポーズするつもりでいた。指輪も用意したし準備万端。
赤信号で、彼は立ち止まる。ズボンのポケットに突っ込んであったスマホで時間を確認した。
やばい。予定より五分遅れている。少し余裕をもって家を出るつもりだったのに、ついいつになく気合をいれた身支度に時間を取られて遅れてしまった。
彼は胸ポケットを触る。そこに小さく四角い箱が感じられた。そのことに、ほっと安堵しつつ、歩行者用の信号が青に変わったところで横断歩道を渡りだした。駆け足気味にゼブラ柄の上を歩いていく。
急いでいたこともあった。プロポーズのことに気を取られて、周りが見えなくなっていたのもあっただろう。
「あっ、危ない!」
後方で誰かの鋭い叫び声が聞こえた。
「え……?」
足を止めて振り向こうとした彼が目にしたものは、目の前に高速で迫ってくる一台の白いセダン。
一瞬、鬼のような形相の運転手と目が合った気がした。
やばいっ、そう思ったときにはもう、身体が宙を舞っていた。
何が起こったのかわからないまま目の前の景色が高速で移り変わった次の瞬間、身体中に激しい衝撃が走る。
道路に叩きつけられたのだと気がついた。
ありえない方向に身体が曲がっているのがわかる。息が上手くできない。
でも、目の前の道路に指輪がむき出しのまま転がっていた。胸ポケットに入っていたものが衝撃で転がり落ちたのだろう。
なんとかそれに手を伸ばそうとするが、ちっとも身体が動いてくれない。
手が、届かない。
それが生前に彼が見た、最後の景色となった。
高村元気。享年二十七歳。
よく晴れた、うららかな春の日のことだった。
彼は自分がもっている一番いいスーツに身を包み、自宅マンションを出た。歩きながら胸ポケットのふくらみを何度も確認する。そこには、先週渋谷のジュエリーショップで購入した指輪が入っていた。
いわゆる、婚約指輪というやつだ。
マンションの階段を軽快に駆け降りると、いつもより早足で駅へと急いだ。
待ち合わせをしている彼女とは、もう付き合って三年になる。
彼女とは、大学のサークルで出会った。そのときはただの友達関係として終わってしまったが、三年前に同窓会で再会してから、どちらからともなく連絡先を交換して交際がスタートした。
出版社に勤める彼女は休みも不定期で、銀行で不動産融資担当として勤めている自分とはなかなか休みも合わない。
それでも極力二人で時間を合わせて、会える時はなるべく一緒に過ごすようにしていた。
普段は家デートがほとんどだったけど、今日は久しぶりに外の待ち合わせ。
おいしいレストランを教えてもらったから、一緒に行こうと言って誘った。
その席で、プロポーズするつもりでいた。指輪も用意したし準備万端。
赤信号で、彼は立ち止まる。ズボンのポケットに突っ込んであったスマホで時間を確認した。
やばい。予定より五分遅れている。少し余裕をもって家を出るつもりだったのに、ついいつになく気合をいれた身支度に時間を取られて遅れてしまった。
彼は胸ポケットを触る。そこに小さく四角い箱が感じられた。そのことに、ほっと安堵しつつ、歩行者用の信号が青に変わったところで横断歩道を渡りだした。駆け足気味にゼブラ柄の上を歩いていく。
急いでいたこともあった。プロポーズのことに気を取られて、周りが見えなくなっていたのもあっただろう。
「あっ、危ない!」
後方で誰かの鋭い叫び声が聞こえた。
「え……?」
足を止めて振り向こうとした彼が目にしたものは、目の前に高速で迫ってくる一台の白いセダン。
一瞬、鬼のような形相の運転手と目が合った気がした。
やばいっ、そう思ったときにはもう、身体が宙を舞っていた。
何が起こったのかわからないまま目の前の景色が高速で移り変わった次の瞬間、身体中に激しい衝撃が走る。
道路に叩きつけられたのだと気がついた。
ありえない方向に身体が曲がっているのがわかる。息が上手くできない。
でも、目の前の道路に指輪がむき出しのまま転がっていた。胸ポケットに入っていたものが衝撃で転がり落ちたのだろう。
なんとかそれに手を伸ばそうとするが、ちっとも身体が動いてくれない。
手が、届かない。
それが生前に彼が見た、最後の景色となった。
高村元気。享年二十七歳。
よく晴れた、うららかな春の日のことだった。