あの頃は国中が戦争一色で、目を開けば現実は逃げ場のない国からの監視、逆らいようのない命令が毎日たくさんの人の心を壊していた。
そんな時だったから彼は私を信じたのかもしれない。
〈妲妃〉
それが彼女を示す代表的な呼ばれ名だ。妲妃といえば、その麗しい姿で男を手玉にとっては残虐な行いにことかかず、最後には腕あるものによって成敗されたとか、狐の姿に戻り空を飛んで逃げたとか、ともあれ「妖怪」「美しい」で検索すれば、まず出てくるのが彼女である。
彼女の美しさを保つのは妖気に他ならない。時が経ち妖気が薄くなると彼女は空を飛ぶことをやめ、残虐さから遠ざかり、一人の人としてこの世をさすらうようになった。
彼女の見た目はおおよそ16~25歳の女性、髪はグレーに近く目は茶色い。160センチほどの身長に細長い手足をしている。彼女は行く先々で名を変え歳を偽り、その時々の人の人生のようなものを楽しんだ。2、3年が経つと彼女はフラッと姿を消し、また別の町で架空の誰かを作り過ごした。見た目は人間とはいえ、中身は妖怪である。長く同じところにいれば見た目の変わらなさが目につくだろう。関わりが深くなることは彼女の望むところではない。
その時彼女は16歳だった。彼は彼女の4つ歳上で元々は着物屋で見習いをしていた。彼女が店へ顔を出すと彼の顔がほころぶのを店の他の人は気付いていたが、彼女は気づかぬふりをして彼がどうするのかを暇潰しに観察していた。その昔人を堕とすには妖気で相手を包んでしまえば簡単だった。でも今の私にそこまでの力はない。それでは彼はただ私に惹かれているということか。それは恋というらしい。彼女は恋というものを見てみたくなったのだ。
ある日店の前を通ると、
「多月さん!」
と妲妃は呼び止められた。多月は人としての彼女の名前である。
声の主は着物屋の見習いのその人であった。彼は名を世禄と言った。世禄はお使いで店を出るところだったらしく、ちょうどそこを多月が通り呼び止めたのだという。
「同じ方向でしたら途中までご一緒しましょう」
多月は、さもついでのように「ええ」と頷きカランと下駄を鳴らした。並んで見ると世禄は頭二つ分ほど背が高く隣にいれば不思議と頼もしさを感じる。彼は生まれつきの白い肌をほのかに朱色に染め前を見つめる。彼は風呂敷で包んだ荷物を左手に持ち右手を添えるようにして抱えていた。
「それは何が入っているのですか?」
「縫い終わった着物ですよ」
世禄が風呂敷の隙間を開いて見せると緋色の布地が目に映る。「きれいな色…」と多月は呟いた。
「普段なら店に取りに来てもらうんですよ。そこで試着して最終確認をしてって。今回は都合がつかなかったので、特別にお持ちするんです」
そう言って世禄は風呂敷の隙間を直すと、
「この風呂敷も結構良いものなんですよ」
と言って微笑んだ。この頃妲妃は身寄りのない子として旅館で住み込みの手伝いをしていた。手伝いの身では着物を作ることはそうそうない。妲妃はそんな娘心を真似しては着物を羨ましがってみた。
「そのような綺麗なお着物が着られるなんて、そのお相手の方は幸せですね」
過去にその何百倍もの華美な着物を召していたにも関わらず妲妃自身がそれらを美しいと感じることは一度もなかった。彼女がそんなことを言うのは「あれがほしい」と言えばせかせかと動き尻尾を振りだす人の様が滑稽で可笑しかったからである。この人も似たようなものだろう。彼女はそう思っていた。世禄は彼女へ顔を向けるとその足をピタリと止めた。
「多月さんは何色が好きですか?」
「全部」
多月はあっけらかんとそう言った。
「全部?」
さぞわがままと思っただろうか。彼は口元に手をやり、そうかと何か思い付いたらしい。
「花羅浮瑠ですね」
「そういう色があるのですか?」
妲妃は初めて聞くその色に興味を覚えた。イメージされるのは、宝石のようにキラキラと光る太陽のような色…今の自分にはいささか不釣り合いだがなと多月としての自身を鑑みた。
「こういうのですよ」
彼はズボンのポケットから色のたくさんはいったハンカチを取り出した。それらは一枚布を色とりどりに染めた訳ではなく、いくつもの縫い目が付いた端切れで作ったハンカチだった。思っていたのとだいぶ違う。多月はそのハンカチを彼の手から取ると、「ふぅん」と眺めた。花羅浮瑠というのは小さな女の子が喜びそうなものだな。多月はそうは言わず彼にハンカチ返すと、
「可愛いですね」
と言って微笑んだ。彼の頬がいっそう赤くなる。
「こういうものでも着物を作ることはできますよ」
「でも、それで作るには大変そうですね。随分手間がかかるでしょう?」
「確かに、手間はかかります。でも材料代はほとんどかかりません。端切れは買っても安いですから。」
彼は継ぎはぎのハンカチをポケットにしまった。
「それはご自分で?」
「ええ、暇ができるとつい。…作りましょうか?」
考えたのだろう。少しの間が彼の表情をわずかに固くする。しかし彼の目は多月をじっと見つめていた。何かを言い足してごまかせたら気が楽だろうに、この人はそういうことをしないのか。多月はふぅんと思い彼を見た。
「着てみたいです。花羅浮瑠なお着物…」
彼は言葉を発せず、声の出し方を忘れてしまったみたいに見えた。そして大きく一度コクンと頷いた。
「では私はここで」
そう言って分かれ道を右へと曲がり彼は去っていった。約束の時間が迫っているのか、その歩みは先ほどまでとうって変わりそそくさとその肩幅の広い背中が遠ざかる。
「変な人」
妲妃は呟いた。あざけるように、と言いたいところだがその言葉の最後にはキュンという無音が隠れている。それが恋だとこのときの彼女に気づく術はなかったのだ。
それから幾日か経つも彼からの音沙汰はなく、妲妃は「もうっ」と気を揉み川原で2,3小石を掴んでは強く握っては力を抜き手の平で転がすという不毛を繰り返す。話がしたければ会いに行けばいいのだ。普段より少し華美な着物に身を包み首を傾げ彼を見つめれば彼はきっと頬を染め私を見つめてやまないだろう。なのに、どうして、それができない。彼女は着物の袖を見た。元の思った藍色が薄れ所々白んでいる。それを見て自分は惨めだなんて思う妲妃ではないが、しかしこのときだけは、もう少し綺麗にしていてもよかったなぁと思い俯いていた。日が暮れる前に川原を後にし着物屋のある通りを下駄の踵を擦らせながらのたのた歩いた。またちょうど気付いてくれはしないだろうか。着物屋が見えてくる。胸がバクっと高まった。何度も来ていた店のなんとも思っていなかった相手が今やもうただ者ではなくなってしまった。これをなんと呼ぶのだろう…彼女はまだ知らなかった。誰かを好きになるのに準備する時間などありはしないのだ。
「多月さん?」
ちょうど店を覗こうとしたところ、後ろから声がして振り向くと世禄が立っていた。
「こんにちは。お店のお使いですか?」
世禄はそう聞かれ多月はこくんと頷いた。
「探すのを手伝いましょうか?」
世禄にそう聞かれ多月は首を振った。
「急ぎではないのでまた今度にします」
そう言って離れようとしたところ世禄に呼び止められた。
「よければ少しお話でもしませんか?」
「いいですけど…」
多月がそう答えると世禄はにこりと笑った。
「行きましょう」
促され多月はさきほどまで一人で暇を潰していた川原に世禄とやってきた。
「多月さんとこうしてゆっくり話してみたかった」
ひとり言のように彼は呟いた。多月の肌は妖気が減っているせいでどこか不健康に白んでいるが、世禄の肌の白さは元気さとか若さの象徴のように艶のある白だった。
「多月さんは恋人はいるのですか?」
突然世禄が聞いた。
「急ですね、いないけど」
多月がどきりとしながらも答えると、すみませんと彼は頭を掻いた。
「よければ僕とお付き合いしてもらえませんか?」
彼はそう言うと照れくさそうに緩やかに流れる川を見つめた。夕暮れ近くオレンジ色の光が川面に反射しひし形の光をいくつも作り出す。多月は高鳴る胸に無意識に両手を当てた。
「あの、どうして急に?」
そう聞くと世禄が胸元から赤い紙を取り出した。
「あっ」
と多月は声を漏らす。その真っ赤な紙は、渡された者が戦地へ行くことの決定を示している。彼にもその番が回ってきたのだ。
「来てしまいました」
彼は紙を胸元にしまい微笑んだ。多月にとって人の世の出来事は絵本の中のことと変わらなかった。どこで誰が生き死にしようがそれが彼女に影響を与えることはないはずだった。
世禄は死んでしまうのか。いや、生きて帰ることもあるだろうが、やはり死んでしまうのだろう。
人なんて脆くて弱いものだから。
彼の横顔が揺れたように見えた。すると彼の指が多月の目元を優しく撫でた。多月が世禄にもたれかかると彼はぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。あなたに気持ちを伝えられて本当によかった。」
「あなたは間違ってる」
えっ、と世禄が見つめる。多月は続けた。
「もし私の正体を知ればあなたの私への気持ちなどすぐに変わる」
そう言うと多月は世禄の手をほどき川に向かって歩いた。世禄は立ち上り多月の手を取ろうとする。多月はそれをさっとかわし川へと一気にとんだ。約2メートルはあろうか。その距離をひとっとびすることも驚きだがそれよりも目を見張るのはその川面の上に多月が乗っていることだろう。多月は言葉を無くす世禄の前で川面をペタペタと歩いて見せた。オレンジ色の夕日がキラキラと反射しその上をひらりと舞う。川の流れに囚われずひらり、またひらりと飛んでは跳ねた。その様子はまるで川の妖精だ。
多月は川原まで歩いて行くと立ち尽くす世禄をツンと見上げた。
「こんなこと人にはできまい」
世禄は確かにと頷いた。
「君は人間ではないのかい?」
世禄の問いかけに今度は多月が頷いた。
「人ではないもの、それが私だ」
「そうか」
そう言うと世禄は何度か、そうかそうかと呟いて多月の背に手を回し抱き寄せた。逃げなきゃ、咄嗟に思うが身体はそこに居続ける。世禄が身体を離し手を肩に移し多月の目を見つめた。
「よかった。君が戦争に巻き込まれる心配をしていたんだ。これで安心して僕は行ける」
世禄は泣きそうな顔して笑ってた。
「好きなところへ行って、好きなことをするんだよ」
世禄が戦地へ行く日多月は町と町とを繋ぐ橋の上で彼を見送った。扇状の橋を渡り遠ざかるその背中に小さく手を振った。
帰り際着物屋の店主に声をかけられ多月は着物屋へ寄って行くこととなった。店の二階は生活スペースになっており、そのひとつに世禄がもう一人の見習いさんと使っていた部屋があった。店主は、おそらく世禄が使っていたのだろう机の引き出しを開けると、中から端切れで出来た花羅浮瑠な巾着袋を取り出した。
「世禄が言ってたよ。本当は着物を作ってやるはずだったのに、これじゃあ渡せないってさ」
そう言って店主は多月に巾着袋を渡した。朱色に桃色ところどころに黄色や緑の鮮やかな色。それを見て多月は思った。彼が私に着せたかったのは本当は何色だったのだろう。彼は私にどんな色が似合うと思ったのだろうか。もっと話しておけばよかった。
季節が変わり冬の寒さが増したとき着物屋さんから知らせが届いた。
「世禄が戦死した」
敵の手榴弾があたりほとんど即死だったらしい。知らせを聞いて多月はなんとなく空を見た。冬の空は晴れていても曇りのように薄暗い。花羅浮瑠な巾着袋をひとつ持ってその日から多月は町から姿を消した。
そんな時だったから彼は私を信じたのかもしれない。
〈妲妃〉
それが彼女を示す代表的な呼ばれ名だ。妲妃といえば、その麗しい姿で男を手玉にとっては残虐な行いにことかかず、最後には腕あるものによって成敗されたとか、狐の姿に戻り空を飛んで逃げたとか、ともあれ「妖怪」「美しい」で検索すれば、まず出てくるのが彼女である。
彼女の美しさを保つのは妖気に他ならない。時が経ち妖気が薄くなると彼女は空を飛ぶことをやめ、残虐さから遠ざかり、一人の人としてこの世をさすらうようになった。
彼女の見た目はおおよそ16~25歳の女性、髪はグレーに近く目は茶色い。160センチほどの身長に細長い手足をしている。彼女は行く先々で名を変え歳を偽り、その時々の人の人生のようなものを楽しんだ。2、3年が経つと彼女はフラッと姿を消し、また別の町で架空の誰かを作り過ごした。見た目は人間とはいえ、中身は妖怪である。長く同じところにいれば見た目の変わらなさが目につくだろう。関わりが深くなることは彼女の望むところではない。
その時彼女は16歳だった。彼は彼女の4つ歳上で元々は着物屋で見習いをしていた。彼女が店へ顔を出すと彼の顔がほころぶのを店の他の人は気付いていたが、彼女は気づかぬふりをして彼がどうするのかを暇潰しに観察していた。その昔人を堕とすには妖気で相手を包んでしまえば簡単だった。でも今の私にそこまでの力はない。それでは彼はただ私に惹かれているということか。それは恋というらしい。彼女は恋というものを見てみたくなったのだ。
ある日店の前を通ると、
「多月さん!」
と妲妃は呼び止められた。多月は人としての彼女の名前である。
声の主は着物屋の見習いのその人であった。彼は名を世禄と言った。世禄はお使いで店を出るところだったらしく、ちょうどそこを多月が通り呼び止めたのだという。
「同じ方向でしたら途中までご一緒しましょう」
多月は、さもついでのように「ええ」と頷きカランと下駄を鳴らした。並んで見ると世禄は頭二つ分ほど背が高く隣にいれば不思議と頼もしさを感じる。彼は生まれつきの白い肌をほのかに朱色に染め前を見つめる。彼は風呂敷で包んだ荷物を左手に持ち右手を添えるようにして抱えていた。
「それは何が入っているのですか?」
「縫い終わった着物ですよ」
世禄が風呂敷の隙間を開いて見せると緋色の布地が目に映る。「きれいな色…」と多月は呟いた。
「普段なら店に取りに来てもらうんですよ。そこで試着して最終確認をしてって。今回は都合がつかなかったので、特別にお持ちするんです」
そう言って世禄は風呂敷の隙間を直すと、
「この風呂敷も結構良いものなんですよ」
と言って微笑んだ。この頃妲妃は身寄りのない子として旅館で住み込みの手伝いをしていた。手伝いの身では着物を作ることはそうそうない。妲妃はそんな娘心を真似しては着物を羨ましがってみた。
「そのような綺麗なお着物が着られるなんて、そのお相手の方は幸せですね」
過去にその何百倍もの華美な着物を召していたにも関わらず妲妃自身がそれらを美しいと感じることは一度もなかった。彼女がそんなことを言うのは「あれがほしい」と言えばせかせかと動き尻尾を振りだす人の様が滑稽で可笑しかったからである。この人も似たようなものだろう。彼女はそう思っていた。世禄は彼女へ顔を向けるとその足をピタリと止めた。
「多月さんは何色が好きですか?」
「全部」
多月はあっけらかんとそう言った。
「全部?」
さぞわがままと思っただろうか。彼は口元に手をやり、そうかと何か思い付いたらしい。
「花羅浮瑠ですね」
「そういう色があるのですか?」
妲妃は初めて聞くその色に興味を覚えた。イメージされるのは、宝石のようにキラキラと光る太陽のような色…今の自分にはいささか不釣り合いだがなと多月としての自身を鑑みた。
「こういうのですよ」
彼はズボンのポケットから色のたくさんはいったハンカチを取り出した。それらは一枚布を色とりどりに染めた訳ではなく、いくつもの縫い目が付いた端切れで作ったハンカチだった。思っていたのとだいぶ違う。多月はそのハンカチを彼の手から取ると、「ふぅん」と眺めた。花羅浮瑠というのは小さな女の子が喜びそうなものだな。多月はそうは言わず彼にハンカチ返すと、
「可愛いですね」
と言って微笑んだ。彼の頬がいっそう赤くなる。
「こういうものでも着物を作ることはできますよ」
「でも、それで作るには大変そうですね。随分手間がかかるでしょう?」
「確かに、手間はかかります。でも材料代はほとんどかかりません。端切れは買っても安いですから。」
彼は継ぎはぎのハンカチをポケットにしまった。
「それはご自分で?」
「ええ、暇ができるとつい。…作りましょうか?」
考えたのだろう。少しの間が彼の表情をわずかに固くする。しかし彼の目は多月をじっと見つめていた。何かを言い足してごまかせたら気が楽だろうに、この人はそういうことをしないのか。多月はふぅんと思い彼を見た。
「着てみたいです。花羅浮瑠なお着物…」
彼は言葉を発せず、声の出し方を忘れてしまったみたいに見えた。そして大きく一度コクンと頷いた。
「では私はここで」
そう言って分かれ道を右へと曲がり彼は去っていった。約束の時間が迫っているのか、その歩みは先ほどまでとうって変わりそそくさとその肩幅の広い背中が遠ざかる。
「変な人」
妲妃は呟いた。あざけるように、と言いたいところだがその言葉の最後にはキュンという無音が隠れている。それが恋だとこのときの彼女に気づく術はなかったのだ。
それから幾日か経つも彼からの音沙汰はなく、妲妃は「もうっ」と気を揉み川原で2,3小石を掴んでは強く握っては力を抜き手の平で転がすという不毛を繰り返す。話がしたければ会いに行けばいいのだ。普段より少し華美な着物に身を包み首を傾げ彼を見つめれば彼はきっと頬を染め私を見つめてやまないだろう。なのに、どうして、それができない。彼女は着物の袖を見た。元の思った藍色が薄れ所々白んでいる。それを見て自分は惨めだなんて思う妲妃ではないが、しかしこのときだけは、もう少し綺麗にしていてもよかったなぁと思い俯いていた。日が暮れる前に川原を後にし着物屋のある通りを下駄の踵を擦らせながらのたのた歩いた。またちょうど気付いてくれはしないだろうか。着物屋が見えてくる。胸がバクっと高まった。何度も来ていた店のなんとも思っていなかった相手が今やもうただ者ではなくなってしまった。これをなんと呼ぶのだろう…彼女はまだ知らなかった。誰かを好きになるのに準備する時間などありはしないのだ。
「多月さん?」
ちょうど店を覗こうとしたところ、後ろから声がして振り向くと世禄が立っていた。
「こんにちは。お店のお使いですか?」
世禄はそう聞かれ多月はこくんと頷いた。
「探すのを手伝いましょうか?」
世禄にそう聞かれ多月は首を振った。
「急ぎではないのでまた今度にします」
そう言って離れようとしたところ世禄に呼び止められた。
「よければ少しお話でもしませんか?」
「いいですけど…」
多月がそう答えると世禄はにこりと笑った。
「行きましょう」
促され多月はさきほどまで一人で暇を潰していた川原に世禄とやってきた。
「多月さんとこうしてゆっくり話してみたかった」
ひとり言のように彼は呟いた。多月の肌は妖気が減っているせいでどこか不健康に白んでいるが、世禄の肌の白さは元気さとか若さの象徴のように艶のある白だった。
「多月さんは恋人はいるのですか?」
突然世禄が聞いた。
「急ですね、いないけど」
多月がどきりとしながらも答えると、すみませんと彼は頭を掻いた。
「よければ僕とお付き合いしてもらえませんか?」
彼はそう言うと照れくさそうに緩やかに流れる川を見つめた。夕暮れ近くオレンジ色の光が川面に反射しひし形の光をいくつも作り出す。多月は高鳴る胸に無意識に両手を当てた。
「あの、どうして急に?」
そう聞くと世禄が胸元から赤い紙を取り出した。
「あっ」
と多月は声を漏らす。その真っ赤な紙は、渡された者が戦地へ行くことの決定を示している。彼にもその番が回ってきたのだ。
「来てしまいました」
彼は紙を胸元にしまい微笑んだ。多月にとって人の世の出来事は絵本の中のことと変わらなかった。どこで誰が生き死にしようがそれが彼女に影響を与えることはないはずだった。
世禄は死んでしまうのか。いや、生きて帰ることもあるだろうが、やはり死んでしまうのだろう。
人なんて脆くて弱いものだから。
彼の横顔が揺れたように見えた。すると彼の指が多月の目元を優しく撫でた。多月が世禄にもたれかかると彼はぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。あなたに気持ちを伝えられて本当によかった。」
「あなたは間違ってる」
えっ、と世禄が見つめる。多月は続けた。
「もし私の正体を知ればあなたの私への気持ちなどすぐに変わる」
そう言うと多月は世禄の手をほどき川に向かって歩いた。世禄は立ち上り多月の手を取ろうとする。多月はそれをさっとかわし川へと一気にとんだ。約2メートルはあろうか。その距離をひとっとびすることも驚きだがそれよりも目を見張るのはその川面の上に多月が乗っていることだろう。多月は言葉を無くす世禄の前で川面をペタペタと歩いて見せた。オレンジ色の夕日がキラキラと反射しその上をひらりと舞う。川の流れに囚われずひらり、またひらりと飛んでは跳ねた。その様子はまるで川の妖精だ。
多月は川原まで歩いて行くと立ち尽くす世禄をツンと見上げた。
「こんなこと人にはできまい」
世禄は確かにと頷いた。
「君は人間ではないのかい?」
世禄の問いかけに今度は多月が頷いた。
「人ではないもの、それが私だ」
「そうか」
そう言うと世禄は何度か、そうかそうかと呟いて多月の背に手を回し抱き寄せた。逃げなきゃ、咄嗟に思うが身体はそこに居続ける。世禄が身体を離し手を肩に移し多月の目を見つめた。
「よかった。君が戦争に巻き込まれる心配をしていたんだ。これで安心して僕は行ける」
世禄は泣きそうな顔して笑ってた。
「好きなところへ行って、好きなことをするんだよ」
世禄が戦地へ行く日多月は町と町とを繋ぐ橋の上で彼を見送った。扇状の橋を渡り遠ざかるその背中に小さく手を振った。
帰り際着物屋の店主に声をかけられ多月は着物屋へ寄って行くこととなった。店の二階は生活スペースになっており、そのひとつに世禄がもう一人の見習いさんと使っていた部屋があった。店主は、おそらく世禄が使っていたのだろう机の引き出しを開けると、中から端切れで出来た花羅浮瑠な巾着袋を取り出した。
「世禄が言ってたよ。本当は着物を作ってやるはずだったのに、これじゃあ渡せないってさ」
そう言って店主は多月に巾着袋を渡した。朱色に桃色ところどころに黄色や緑の鮮やかな色。それを見て多月は思った。彼が私に着せたかったのは本当は何色だったのだろう。彼は私にどんな色が似合うと思ったのだろうか。もっと話しておけばよかった。
季節が変わり冬の寒さが増したとき着物屋さんから知らせが届いた。
「世禄が戦死した」
敵の手榴弾があたりほとんど即死だったらしい。知らせを聞いて多月はなんとなく空を見た。冬の空は晴れていても曇りのように薄暗い。花羅浮瑠な巾着袋をひとつ持ってその日から多月は町から姿を消した。