午前十時。最初のタイムリープとはまったく違うタイミングで、涼香のスマートフォンが鳴った。表示は「美作郁音」である。
最初の世界では午後のライブ後に連絡があったはずだ。怪訝に思い、涼香はすぐに電話に出た。
「どうしたの?」
『ごめんね、涼香。私、そっち行けそうにないわ』
スマートフォンの向こうで、郁音が申し訳なさそうに言った。
「え? ライブは午後からでしょ?」
『そうなんだけどさ……いま、現在進行形で超やばい非常事態発生中』
「いま、現在進行形で超やばい非常事態ってなによ」
あまりにも抽象的でわけがわからない。
一年二組のパンケーキ屋は一般解放された午前中は客足がピークだった。当番じゃない羽村やこころまでが裏でパンケーキを焼く作業に徹している。生徒会からの差し入れであるアイスに手を出せないほど忙しい。
そんなクラスの雰囲気を壊しかねない郁音の不在である。しかし、彼女のバンドは応援したい。
『とにかくごめん! この埋め合わせは必ず!』
「あ! ちょっと、郁ちゃん!」
引き止めるのも虚しく、ブツリと通話が切れた。
「大楠さーん」
後ろから羽村が声をかけてくる。不審めいた声に、涼香は慌てて反応した。
「はーい」
「さっきの誰?」
電話していたところを問い詰められる。さすが目ざとい。もとより、涼香への不満を抱いている彼女である。
涼香は素直に素早く言った。
「郁ちゃんだよ。ちょっと今日は戻れそうにないらしくって」
「えぇ? 嘘でしょー?」
悪いのはこちらじゃないのに、なぜか責められる。涼香は唇を噛んだ。やはり、こういうハプニングはクラスの雰囲気を悪くするものだ。
優也はいまはバスケ部の催しに顔を出している最中で、教室で涼香を助けてくれる人はいない。頼みの綱であるこころはフライパンとずっとにらめっこしている。そうこうしているうちに、羽村が詰め寄った。
「ねぇ、大楠さん。前から思ってたんだけど、美作さんに甘くない?」
涼香は目をそらした。
「えーっと……」
「同中なのは知ってるけどさ。みんなのスケジュールちゃんと考えてるのに、あの子だけ特別扱いはちょっとどうなの?」
「郁ちゃんは部活が忙しいからさ。そのぶん、私がやるし」
やんわりなだめすかそうと口走ると、羽村は不満ながらも頷いた。
ふいっと、きびすを返してしまい、パンケーキ班に帰っていく。
羽村が攻撃的な理由はわかっている。優也のことが好きだから、涼香への態度がきつい。輪をかけて当番じゃないのに働いている。彼女の気持ちを考えると、態度の意味もよくわかる。泣いていた彼女の姿が記憶に新しい。ここで有耶無耶にするのは良くない。
「羽村さん!」
思わず呼び止めた。ショートボブが驚いたように揺れる。
「ちょっと、話があるんだけど」
「えっ」
予想外のことに、羽村は眉を困らせた。
校舎の最上階、音楽室の前はひと通りが少なかった。その廊下で二人は対峙する。階下では三年生の模擬店が賑やかだ。
「この忙しいときになんの話? 告白でもするの?」
羽村は冗談めかして笑った。それに対して、涼香は顔に力を入れる。
「告白といえば告白なんだけど。いや、なにを勘違いしてるかはわかんないけどさ」
軽口を真面目に受け取っていては話がどんどんずれていきそうだ。「こほん」と咳払いし、改めて羽村と向き合った。
「今日、寺坂に告白しようと思うんだ」
静かに堂々と話す。しかし、心臓は脈拍が速くてせわしなかった。これを羽村に聞かれていないか不安になりながらも、彼女の苦々しい目を見つめる。
「へぇ。そっか。わざわざ報告どうも」
羽村は気だるそうにカーディガンのポケットに手をつっこんで、くるりと背を向けてしまった。
「あーあ。文化祭中に嫌なこと聞いちゃったぁ。それにしても、よくわかったね。私が寺坂のこと、好きだって」
「まぁ。私のこと、あんまり良くは思ってないみたいだし。はっきりさせとこうと思って」
「そこまで露骨な態度はとってなかったはずなんだけど。まぁ、大楠さんのこと、はっきり言って嫌いだし、嫌な言い方はしたかもしれないけどさ」
嫌い、とはっきり言われると、目のやり場に困った。はっきりしようと決めたのに、心に迷いが生じてしまう。
「でも、早めに言ってくれて助かったよ。私も、寺坂に告白するつもりだったから」
羽村は背中越しに敗北の笑いを上げた。
「いや、マジでさぁ、最初から負け戦だったわけで。寺坂は大楠さんのことが好きだってバレバレだし。最初から勝ち目がないもん」
なんとも返せない。ただ黙っているしか選択肢が見つからない。慰めの言葉も彼女を煽るだけだろう。涼香は後ろ手を組んで佇んでいた。羽村がちらりと振り返る。
「そんな顔しないでよ。もっとさぁ、こう、勝ち誇った顔でいてよ。でないと、大楠さんのこと悪者にできないでしょ」
「いや、それは勘弁して」
悪者にはなりたくない。他人に嫌われるのは怖い。憎まれているとわかっているクラスメイトと、あと二年も同じ教室で過ごすなんてゾッとする。
そんな涼香に、羽村は「ぶはっ」と吹き出した。
「冗談じゃん。なに真面目に考えてんの」
「だって……」
「あははは! おもしろいわー、大楠さん。とっつきにくいと思ってたけど、実は天然って感じ?」
羽村は腹を抱えて笑った。無防備で愉快な声が反響する。そんな彼女を見て、涼香はどうにも呆けたままで立ち尽くした。
「聞いてもいい?」
散々笑ったあと、羽村は喉を引きつらせながら言った。
「寺坂のどこが好き?」
「えっ」
そんな質問が飛んでくるとは思わず、涼香は身構えていた体をさらに強張らせた。
考える。優也の好きなところ……優しくて頼りになる。でも、それ以上に、彼のことを好きでいる原動力はなんだろう。難しい。言葉が出てこない。
「……自然な、ところ?」
ひねり出した答えは、自分でもしっくりくるものではなかった。
「なんていうか。絡みうざいし、めんどくさいやつなんだけど、でもたまに優しいし、面白いし。でも、それよりももっと別のところが好き、みたいな。うまく言えない」
一緒にいて安心する。でも、気が抜けない。世話を焼きたくなる。気持ちが勝手に動いてしまう。感情が動かされる。それを言葉に表すのは難しい。
羽村は「ふうん?」と不服そうな顔で首をかしげた。
「早速ノロケかー。ますます手が出せないわー」
「そんなつもりはないよ!?」
これでは逆効果じゃないか。焦って弁解するも、羽村はケラケラ笑って相手にしてくれない。
「それじゃあ、幸せになってよね。でないと、許さないから」
突きつけられた言葉は軽くも、涼香の胸にぐさりと突き刺さった。言葉が重い。
彼女も優也に焦がれて、玉砕覚悟でも告白しようと決めていた。それを最初に潰しておいて、果てには破局する。そんな未来を知ったとき、羽村はどんな顔をするんだろう。近い未来、彼女がなおも涼香を責めていたのは、複雑に絡んだ悔しさといらだちからくるものなのかもしれない。
「わかった。がんばる」
口の中が渇きそうなくらい、緊張がどっと押し寄せる。
そんな涼香の心境を知ってか知らずか、羽村はニッと歯を見せて笑った。
「期待してる」
涼香はやはり笑えなかった。
未来がわかっているから、彼女に釘を刺しただけに過ぎない。もしも、彼女がここで諦めずに優也へ告白していたらどうなっていたんだろう。結果はわかっていても、果たしてこれが彼女のためになるのだろうか。
最初はこころによって阻止された。次は涼香本人から阻止された。いつも潔く負けを認める羽村の気持ちを、いまさらになって深刻に受け止める。
――ずるくてごめん。
他人の犠牲なくしては青春時代の上書きもままならないらしい。
羽村が教室へ戻ろうと階段を降りていく。そのあとを追いかけようと一歩踏み出した瞬間、背後で大きな怒声がつんざいた。
「もういい! わかった。もういい。オレ、部活やめる」
音楽準備室から聞こえたそれは、二人の足を止めた。
「え、なに……?」
羽村に聞かれるも、涼香だってわかりようがない。首をかしげた。
「なんだろ?」
降りかけた階段をそろそろ戻ると、音楽準備室ではしんと静かな怒りが立ち込めていた。長身の男子と、小柄な男子が睨み合う。その間にはベースギターを持ってうろたえる郁音の姿が。
「郁ちゃん?」
思わず声をかけると、部員全員が鋭い眼光でこちらを見た。高身長のメガネ男子は、BreeZeのドラムを担当する若部雫。そして、小柄で丸い髪型の男子はBreeZeのギターボーカルであり、部長の伊佐木麟。どうやら二人が口喧嘩している最中だったらしい。そのただならぬ気迫に心臓が縮む。
「……ほらね。現在進行形で超やばい非常事態」
おどけるように言う郁音だが、そこには助けを求めるような節があった。
「喧嘩? 喧嘩なの?」
羽村もおろおろと言う。すると、三人が一斉に「違う!」と叫んだ。皮肉なことに息がぴったりである。これが喧嘩じゃなかったらなんだというのか。
羽村はすぐにスマートフォンを出した。
「通報しよう」
彼女の判断は正しいだろう。しかし、郁音が男子二人の間を割り、羽村のスマートフォンを抑えた。
「大丈夫だから! あぁ、ほら。雫、落ち着こうよ。麟も。もうすぐライブなのに、そんなんでどうするの」
なだめようとする彼女に、雫と麟の顔は暗い。じっとりと重たい空気をまとわせている。
涼香はおそるおそる聞いた。
「どうしたの?」
「簡単に言うと、雫の冗談を真に受けて、麟が激怒した。って感じ」
郁音はひっそりと耳打ちした。
「ライブ前だから、麟がトゲトゲしてるのね。そんな麟を茶化した雫が悪いっていうか……」
「俺のせいかよ」
ツーンと冷たい雫の目が郁音を責める。上から見下ろされると威圧的で怖い。涼香と羽村は無意識に互いの手を握った。
「やっぱ通報しよう……」
羽村がスマートフォンを構える。それを郁音がまた止めた。その応酬は無駄だと思う。
すると、麟がいらだたしげに息を吐いた。彼らからすれば涼香と羽村は闖入者だ。怒るのも無理はない。
「とにかく、オレが辞めればいいわけだろ。今日でBreeZeは解散だ。それでいい」
あまりにも投げやりな言葉だ。この態度に、雫が「はー?」と呆れた。こちらも鼻息が荒い。
「だから、なんでそういう発想になるわけ? お前のそういうとこがほんと合わねー。うざいし、暗いし、本気すぎてバカみてー」
「遊びでやってんじゃねぇんだよ。こっちは真剣なんだ。それをバカにしやがるお前の無神経なとこがムカつくんだよ」
「いい加減にしろ! どっちもどっち!」
いつの間にか郁音も参戦した。引き止める間もなく、彼女も感情を二人にぶつけていく。
「いつまで駄々こねてんの! 他人にまで迷惑かけないでよ! 文化祭なんだから、楽しんでやればいいじゃん!」
「そうだよ。私、BreeZeのライブ、楽しみにしてるんだよ」
涼香も横からこっそり応戦した。羽村が驚いてこちらを見ている。彼女だけでなく、メンバー全員の目も涼香に注がれた。
「えーっと。なにがあったかは知らないから、横からごちゃごちゃ言いたくないけどさ。もっと、気楽に構えてていいと思う。大丈夫だよ」
このバンドは成功する。絶対に。
確信めいた言葉に、三人は顔を見合わせた。
「なにを根拠にそんなこと」
麟が言う。彼は思ったよりも神経質な性格らしい。自信がなさそうな声に、涼香は呆れて笑った。
「根拠はない。三人の曲が好きってだけでしゃべってるから」
「涼香……あんた、私らのライブ、まだ観たことないでしょ」
今度は郁音が呆れた。痛い指摘に涼香は失笑に切り替えた。
「えーっと……まぁ、それくらい楽しみにしてるんだから。そんな顔で舞台に立ってほしくないってこと!」
慌ててごまかした割には、うまくまとまった気がする。
「いきなり現れてなにを言い出すんだよ、まったく」
雫が気を抜くように笑った。脱力気味に猫背になる。そんな彼の腹を郁音がパンチする。麟はまだ顔を赤くしていたが、熱はそろそろ引いてきたらしい。
「っていうか、いまさらなんだけど。お前、だれ?」
麟が怪訝に言う。すると、郁音が彼の頭を小突いて紹介した。
「私の友達。我が一年二組の文化祭実行委員だよ」
「へー」
「ついでに言うと、バスケ部一年の寺坂の彼女」
羽村が言う。振り返ると、彼女は意地悪そうに笑った。すると、意外にも雫が納得した。
「寺坂の彼女かー、なるほどなぁ」
「知り合い?」
「うん。あいつ、面倒見がいいからちょっと世話になったことがある」
麟の問いに、雫はあっさり答える。さきほどまで喧嘩していたとは思えないほど、あっさりと打ち解けていた。
「え? 待って? 涼香、いつの間に寺坂とつき合ってたの?」
納得していないのは郁音だった。喜びとも非難ともとれない、挙動不審になっている。
場を収めるつもりがいじられることになるとは思わず、涼香は勢いよく部室の扉を閉めた。
「いいからさっさと仲直りして!」
捨て台詞を吐くと、扉の向こうから三人の苦笑が聞こえた。
最初の世界では午後のライブ後に連絡があったはずだ。怪訝に思い、涼香はすぐに電話に出た。
「どうしたの?」
『ごめんね、涼香。私、そっち行けそうにないわ』
スマートフォンの向こうで、郁音が申し訳なさそうに言った。
「え? ライブは午後からでしょ?」
『そうなんだけどさ……いま、現在進行形で超やばい非常事態発生中』
「いま、現在進行形で超やばい非常事態ってなによ」
あまりにも抽象的でわけがわからない。
一年二組のパンケーキ屋は一般解放された午前中は客足がピークだった。当番じゃない羽村やこころまでが裏でパンケーキを焼く作業に徹している。生徒会からの差し入れであるアイスに手を出せないほど忙しい。
そんなクラスの雰囲気を壊しかねない郁音の不在である。しかし、彼女のバンドは応援したい。
『とにかくごめん! この埋め合わせは必ず!』
「あ! ちょっと、郁ちゃん!」
引き止めるのも虚しく、ブツリと通話が切れた。
「大楠さーん」
後ろから羽村が声をかけてくる。不審めいた声に、涼香は慌てて反応した。
「はーい」
「さっきの誰?」
電話していたところを問い詰められる。さすが目ざとい。もとより、涼香への不満を抱いている彼女である。
涼香は素直に素早く言った。
「郁ちゃんだよ。ちょっと今日は戻れそうにないらしくって」
「えぇ? 嘘でしょー?」
悪いのはこちらじゃないのに、なぜか責められる。涼香は唇を噛んだ。やはり、こういうハプニングはクラスの雰囲気を悪くするものだ。
優也はいまはバスケ部の催しに顔を出している最中で、教室で涼香を助けてくれる人はいない。頼みの綱であるこころはフライパンとずっとにらめっこしている。そうこうしているうちに、羽村が詰め寄った。
「ねぇ、大楠さん。前から思ってたんだけど、美作さんに甘くない?」
涼香は目をそらした。
「えーっと……」
「同中なのは知ってるけどさ。みんなのスケジュールちゃんと考えてるのに、あの子だけ特別扱いはちょっとどうなの?」
「郁ちゃんは部活が忙しいからさ。そのぶん、私がやるし」
やんわりなだめすかそうと口走ると、羽村は不満ながらも頷いた。
ふいっと、きびすを返してしまい、パンケーキ班に帰っていく。
羽村が攻撃的な理由はわかっている。優也のことが好きだから、涼香への態度がきつい。輪をかけて当番じゃないのに働いている。彼女の気持ちを考えると、態度の意味もよくわかる。泣いていた彼女の姿が記憶に新しい。ここで有耶無耶にするのは良くない。
「羽村さん!」
思わず呼び止めた。ショートボブが驚いたように揺れる。
「ちょっと、話があるんだけど」
「えっ」
予想外のことに、羽村は眉を困らせた。
校舎の最上階、音楽室の前はひと通りが少なかった。その廊下で二人は対峙する。階下では三年生の模擬店が賑やかだ。
「この忙しいときになんの話? 告白でもするの?」
羽村は冗談めかして笑った。それに対して、涼香は顔に力を入れる。
「告白といえば告白なんだけど。いや、なにを勘違いしてるかはわかんないけどさ」
軽口を真面目に受け取っていては話がどんどんずれていきそうだ。「こほん」と咳払いし、改めて羽村と向き合った。
「今日、寺坂に告白しようと思うんだ」
静かに堂々と話す。しかし、心臓は脈拍が速くてせわしなかった。これを羽村に聞かれていないか不安になりながらも、彼女の苦々しい目を見つめる。
「へぇ。そっか。わざわざ報告どうも」
羽村は気だるそうにカーディガンのポケットに手をつっこんで、くるりと背を向けてしまった。
「あーあ。文化祭中に嫌なこと聞いちゃったぁ。それにしても、よくわかったね。私が寺坂のこと、好きだって」
「まぁ。私のこと、あんまり良くは思ってないみたいだし。はっきりさせとこうと思って」
「そこまで露骨な態度はとってなかったはずなんだけど。まぁ、大楠さんのこと、はっきり言って嫌いだし、嫌な言い方はしたかもしれないけどさ」
嫌い、とはっきり言われると、目のやり場に困った。はっきりしようと決めたのに、心に迷いが生じてしまう。
「でも、早めに言ってくれて助かったよ。私も、寺坂に告白するつもりだったから」
羽村は背中越しに敗北の笑いを上げた。
「いや、マジでさぁ、最初から負け戦だったわけで。寺坂は大楠さんのことが好きだってバレバレだし。最初から勝ち目がないもん」
なんとも返せない。ただ黙っているしか選択肢が見つからない。慰めの言葉も彼女を煽るだけだろう。涼香は後ろ手を組んで佇んでいた。羽村がちらりと振り返る。
「そんな顔しないでよ。もっとさぁ、こう、勝ち誇った顔でいてよ。でないと、大楠さんのこと悪者にできないでしょ」
「いや、それは勘弁して」
悪者にはなりたくない。他人に嫌われるのは怖い。憎まれているとわかっているクラスメイトと、あと二年も同じ教室で過ごすなんてゾッとする。
そんな涼香に、羽村は「ぶはっ」と吹き出した。
「冗談じゃん。なに真面目に考えてんの」
「だって……」
「あははは! おもしろいわー、大楠さん。とっつきにくいと思ってたけど、実は天然って感じ?」
羽村は腹を抱えて笑った。無防備で愉快な声が反響する。そんな彼女を見て、涼香はどうにも呆けたままで立ち尽くした。
「聞いてもいい?」
散々笑ったあと、羽村は喉を引きつらせながら言った。
「寺坂のどこが好き?」
「えっ」
そんな質問が飛んでくるとは思わず、涼香は身構えていた体をさらに強張らせた。
考える。優也の好きなところ……優しくて頼りになる。でも、それ以上に、彼のことを好きでいる原動力はなんだろう。難しい。言葉が出てこない。
「……自然な、ところ?」
ひねり出した答えは、自分でもしっくりくるものではなかった。
「なんていうか。絡みうざいし、めんどくさいやつなんだけど、でもたまに優しいし、面白いし。でも、それよりももっと別のところが好き、みたいな。うまく言えない」
一緒にいて安心する。でも、気が抜けない。世話を焼きたくなる。気持ちが勝手に動いてしまう。感情が動かされる。それを言葉に表すのは難しい。
羽村は「ふうん?」と不服そうな顔で首をかしげた。
「早速ノロケかー。ますます手が出せないわー」
「そんなつもりはないよ!?」
これでは逆効果じゃないか。焦って弁解するも、羽村はケラケラ笑って相手にしてくれない。
「それじゃあ、幸せになってよね。でないと、許さないから」
突きつけられた言葉は軽くも、涼香の胸にぐさりと突き刺さった。言葉が重い。
彼女も優也に焦がれて、玉砕覚悟でも告白しようと決めていた。それを最初に潰しておいて、果てには破局する。そんな未来を知ったとき、羽村はどんな顔をするんだろう。近い未来、彼女がなおも涼香を責めていたのは、複雑に絡んだ悔しさといらだちからくるものなのかもしれない。
「わかった。がんばる」
口の中が渇きそうなくらい、緊張がどっと押し寄せる。
そんな涼香の心境を知ってか知らずか、羽村はニッと歯を見せて笑った。
「期待してる」
涼香はやはり笑えなかった。
未来がわかっているから、彼女に釘を刺しただけに過ぎない。もしも、彼女がここで諦めずに優也へ告白していたらどうなっていたんだろう。結果はわかっていても、果たしてこれが彼女のためになるのだろうか。
最初はこころによって阻止された。次は涼香本人から阻止された。いつも潔く負けを認める羽村の気持ちを、いまさらになって深刻に受け止める。
――ずるくてごめん。
他人の犠牲なくしては青春時代の上書きもままならないらしい。
羽村が教室へ戻ろうと階段を降りていく。そのあとを追いかけようと一歩踏み出した瞬間、背後で大きな怒声がつんざいた。
「もういい! わかった。もういい。オレ、部活やめる」
音楽準備室から聞こえたそれは、二人の足を止めた。
「え、なに……?」
羽村に聞かれるも、涼香だってわかりようがない。首をかしげた。
「なんだろ?」
降りかけた階段をそろそろ戻ると、音楽準備室ではしんと静かな怒りが立ち込めていた。長身の男子と、小柄な男子が睨み合う。その間にはベースギターを持ってうろたえる郁音の姿が。
「郁ちゃん?」
思わず声をかけると、部員全員が鋭い眼光でこちらを見た。高身長のメガネ男子は、BreeZeのドラムを担当する若部雫。そして、小柄で丸い髪型の男子はBreeZeのギターボーカルであり、部長の伊佐木麟。どうやら二人が口喧嘩している最中だったらしい。そのただならぬ気迫に心臓が縮む。
「……ほらね。現在進行形で超やばい非常事態」
おどけるように言う郁音だが、そこには助けを求めるような節があった。
「喧嘩? 喧嘩なの?」
羽村もおろおろと言う。すると、三人が一斉に「違う!」と叫んだ。皮肉なことに息がぴったりである。これが喧嘩じゃなかったらなんだというのか。
羽村はすぐにスマートフォンを出した。
「通報しよう」
彼女の判断は正しいだろう。しかし、郁音が男子二人の間を割り、羽村のスマートフォンを抑えた。
「大丈夫だから! あぁ、ほら。雫、落ち着こうよ。麟も。もうすぐライブなのに、そんなんでどうするの」
なだめようとする彼女に、雫と麟の顔は暗い。じっとりと重たい空気をまとわせている。
涼香はおそるおそる聞いた。
「どうしたの?」
「簡単に言うと、雫の冗談を真に受けて、麟が激怒した。って感じ」
郁音はひっそりと耳打ちした。
「ライブ前だから、麟がトゲトゲしてるのね。そんな麟を茶化した雫が悪いっていうか……」
「俺のせいかよ」
ツーンと冷たい雫の目が郁音を責める。上から見下ろされると威圧的で怖い。涼香と羽村は無意識に互いの手を握った。
「やっぱ通報しよう……」
羽村がスマートフォンを構える。それを郁音がまた止めた。その応酬は無駄だと思う。
すると、麟がいらだたしげに息を吐いた。彼らからすれば涼香と羽村は闖入者だ。怒るのも無理はない。
「とにかく、オレが辞めればいいわけだろ。今日でBreeZeは解散だ。それでいい」
あまりにも投げやりな言葉だ。この態度に、雫が「はー?」と呆れた。こちらも鼻息が荒い。
「だから、なんでそういう発想になるわけ? お前のそういうとこがほんと合わねー。うざいし、暗いし、本気すぎてバカみてー」
「遊びでやってんじゃねぇんだよ。こっちは真剣なんだ。それをバカにしやがるお前の無神経なとこがムカつくんだよ」
「いい加減にしろ! どっちもどっち!」
いつの間にか郁音も参戦した。引き止める間もなく、彼女も感情を二人にぶつけていく。
「いつまで駄々こねてんの! 他人にまで迷惑かけないでよ! 文化祭なんだから、楽しんでやればいいじゃん!」
「そうだよ。私、BreeZeのライブ、楽しみにしてるんだよ」
涼香も横からこっそり応戦した。羽村が驚いてこちらを見ている。彼女だけでなく、メンバー全員の目も涼香に注がれた。
「えーっと。なにがあったかは知らないから、横からごちゃごちゃ言いたくないけどさ。もっと、気楽に構えてていいと思う。大丈夫だよ」
このバンドは成功する。絶対に。
確信めいた言葉に、三人は顔を見合わせた。
「なにを根拠にそんなこと」
麟が言う。彼は思ったよりも神経質な性格らしい。自信がなさそうな声に、涼香は呆れて笑った。
「根拠はない。三人の曲が好きってだけでしゃべってるから」
「涼香……あんた、私らのライブ、まだ観たことないでしょ」
今度は郁音が呆れた。痛い指摘に涼香は失笑に切り替えた。
「えーっと……まぁ、それくらい楽しみにしてるんだから。そんな顔で舞台に立ってほしくないってこと!」
慌ててごまかした割には、うまくまとまった気がする。
「いきなり現れてなにを言い出すんだよ、まったく」
雫が気を抜くように笑った。脱力気味に猫背になる。そんな彼の腹を郁音がパンチする。麟はまだ顔を赤くしていたが、熱はそろそろ引いてきたらしい。
「っていうか、いまさらなんだけど。お前、だれ?」
麟が怪訝に言う。すると、郁音が彼の頭を小突いて紹介した。
「私の友達。我が一年二組の文化祭実行委員だよ」
「へー」
「ついでに言うと、バスケ部一年の寺坂の彼女」
羽村が言う。振り返ると、彼女は意地悪そうに笑った。すると、意外にも雫が納得した。
「寺坂の彼女かー、なるほどなぁ」
「知り合い?」
「うん。あいつ、面倒見がいいからちょっと世話になったことがある」
麟の問いに、雫はあっさり答える。さきほどまで喧嘩していたとは思えないほど、あっさりと打ち解けていた。
「え? 待って? 涼香、いつの間に寺坂とつき合ってたの?」
納得していないのは郁音だった。喜びとも非難ともとれない、挙動不審になっている。
場を収めるつもりがいじられることになるとは思わず、涼香は勢いよく部室の扉を閉めた。
「いいからさっさと仲直りして!」
捨て台詞を吐くと、扉の向こうから三人の苦笑が聞こえた。