濃い青空と、西に向かう夕陽の色がやけにきれいだった。青とオレンジの隙間(すきま)に緑と黄色のグラデーションが(にじ)み、さながら水をたっぷり含んだ水彩画のよう。

『さぁ、みなさんお待ちかね! 今年もきたぞ! 後夜祭の時間だーっ!』

 開会式とは打って変わって、生徒会長のテンションが高い。グラウンドステージでは全校生徒が思い思いに(つど)っている。
 涼香とこころは後列にいた。前列は三年生がほとんどで、最後の文化祭を楽しんでいる。そんな彼らに向かって、生徒会長もステージ上からマイクを片手に堂々たる司会進行をしていく。

『これもひとえに、みなさんのおかげです! 今年も無事、後夜祭を開催することができます! 毎年先生たちに交渉するの大変なんですよー。まぁ、来年も開催できるようにがんばりますので。みなさん、ご協力よろしくお願いします!』

 拍手喝采(はくしゅかっさい)アメアラシ。時折、飛び交う声援に生徒会長は上機嫌に応えている。生徒たちの熱気がグラウンドに充満した。ざわめきが波打つ。

『それではさっそく、毎年恒例、部門賞の発表をします! 模擬店部門、()えある第三位は——』

「ねぇ、こころー」

 ステージを見ようとぴょこぴょこ飛ぶこころの袖を引っ張る。

「なーにー?」
「あんた、寺坂をどこにやったの?」
「へ?」

 鋭い問いに、こころは上げていたかかとを落とした。首をかしげてキョトンとする。このごに及んでまだしらばっくれる気だろう。
 優也はどこにもいなかった。それに、制服の群れから優也の背中を探り当てるのは不可能だ。彼が図書室にいることは知っているが、涼香はあえてこころに揺さぶりをかける。

「あんたが裏であいつに告白させようとしていることはわかってんの。ネタは上がってんだ」

 こころは口を横に引き結んで、笑いをこらえた。頬がプルプル震えている。

「そ、そんなこと、してないよ」
「バレバレだから。朝からずっとそんな感じじゃん」
「だって……」

 観念(かんねん)したのか、こころは肩を落とした。止めていた息を吐き出す。

「サプライズのほうが、涼香も告白オーケーするかなぁって思って」
「好きでもない相手から急に告白されてもオーケーするわけないでしょ」

 ピシャリと言い放つと、こころは衝撃を受けたように口を大きく開いた。「はわわ」と口を震わせ、彼女は校舎の最上階を見やった。やはり、図書室を選んだのはこころだった。

「……でも、あいつのことは嫌いじゃないから、別にいいんだけどね」
「えっ? ってことは?」

 落ち込んだこころの目がとたんに生き返る。その視線から逃げようと、涼香も校舎の最上階を見た。優也の姿を探すも、彼の影はどこにもない。
 その時、ステージ前方が歓喜の声で湧き上がった。

『模擬店第一位は、野球部の焼きそば亭! おめでとうございます! 代表者は上がってくださーい』

 太い絶叫と拍手。この歓声に気を取られ、涼香はカーディガンのポケットにあるスマートフォンの着信に気づけなかった。

「あーっ! 涼香! スマホ! スマホ鳴ってるよ!」
「え? あ、ほんとだ!」

 慌ててポケットを探る。画面の表示は「寺坂優也」だった。待ちかねた連絡に、胸がドキリと高鳴る。

「もしもし? 寺坂?」
『……悪い、大楠』

 返ってきたのは、盛り上がるステージに負けそうなほど弱い声。画面を耳に押し当て、もう一方の手で耳を塞ぐと、優也の長いため息が聞こえてきた。

『えーっと……いまから図書室に来てくれ。大事な話があるんだ』

 告白。告白だ。
 心臓はせわしなく動き、周囲の騒々しい音が一気にかき消えた。瞬間、その場は涼香だけの独壇場(どくだんじょう)のように思えた。
 記憶の中では、このとき彼に向かって散々な文句を垂れていた。それをこころがおさめ、(なか)ば強制的に図書室へと連れて行かれた。でも、いまは違う。

「わかった」

 優也の言葉を聞きたい。もう一度、彼の告白を受けて、今度こそ優しくなりたい。優也に見捨てられないように。その思いが強くなる。どこからかみなぎってくる感情の波に流されていく。
 通話を切り、スマートフォンをポケットに押しこんだ。ふと、こころと目が合う。

「いがーい」

 彼女は冷やかすように笑った。なんだか、優也にも同じことを言われたような。

「意外ってなによ」
「だって、いつもの涼香なら拒否って罵倒(ばとう)くらいはしてるでしょ」
「今日の私は、いつもとは一味(ひとあじ)違うのよ」

 ふふん、とひと差し指を立て、ニヒルに笑ってみせる。こころが盛大に吹き出した。

「みたいだね! 文化祭効果? やだぁ、超かわいいー!」

 口に手を当ててはやしたててくる。トンっと肩を押され、涼香は群れから追い出された。

「んじゃ、行ってきなよ」
「うん」

 集いの群れから一歩ずつ離れる。こころが手を降って見送ってくれ、涼香も小さく手を振り返した。

 ——ありがとう、こころ。

 なんだかんだ裏で手を回して、優也とうまくいくように場を整えてくれたんだろう。
 思えば、彼女の行動は不自然だ。実行委員の推薦から、ここまでの経緯(けいい)もすべて計画のうち。優也と涼香を近づけさせるためのお節介(せっかい)恋敵(こいがたき)になりそうな羽村までもを黙らせてしまい、優也に告白させるまでの段取りをしている。用意周到な親友の作戦に悔しく思いつつ、涼香は階段をのぼりながら笑った。
 やっぱり、こころにはかなわない。

『次はゲーム部門にいきましょう! 第三位——』

 生徒会長の声が遠ざかっていく。外の熱気とは裏腹(うらはら)に、廊下はしんとしずかで一切ひと気がない。ところどころに祭りの残骸(ざんがい)があり、あの高揚が忘れ去られたように寂しい。
 エモーショナルな気分になると、余計に緊張感が(つの)った。一段上がるごとに期待がふくらむ。心音が耳に近い。脳がどくどくと膨張する。心臓の鼓動が速くなり、息が上がった。手すりを持つ指先に熱がこもる。顔が熱い。血流に飲まれて目眩がしそう。
 落ち着け。落ち着いて、慌てないで、冷静になって——でも、ダメだ。先がわかってるせいで、余計に感情が忙しくぐるぐると循環(じゅんかん)する。
 図書室は校舎の最上階、東側の最奥に位置する。ステージがまるまる視界におさまる絶好の穴場で、ほどよく熱と遠い。図書室を選んだ理由がなんとなくわかった気がした。どこまでも抜け目がない。
 もし、優也から告白されて、付き合うことになったら。それはきっと、甘く楽しい生活のはじまりだ。浮き足立った妄想(もうそう)がめくるめく。
 しかし、それもつかの間で、涼香はふと足を止めた。

「……待って。このままじゃ、私、優也と破局するんじゃ」

 冷水をかぶったような感覚がし、期待と高揚が一気に沈んだ。お祭りムードと初恋気分に浸っていたせいですっかり忘れていた。
 破局の未来——自暴自棄になって、うまくいかなくなって、クラスからも迫害される。そんな世界への道順をもう一度たどるつもりか。ここまで順当に過去をさかのぼっているだけで、ほとんど変わっていない。涼香は頭を抱えた。

「いや、でも……これが本当にタイムリープってわけじゃないかもしれないし」

 夢なら夢のままでいい。それにしてはリアルな世界だ。たとえ夢の世界だけでも最善な道を選びたい。どうしたら、変えられるんだろう。どんな選択が正しいのか。
 最善策が見つからない。嫌な想像がよぎると、足がまったく動かなくなった。
 グラウンドではすでにかがり火が上がり、オレンジの火の粉が青い夕焼けに向かって散る。壁に当たり、くぐもったエレキギターのジィィィンと絞るような音が聴こえ、後夜祭もフィナーレを告げていた。グズグズしている暇はない。

「大楠?」

 階段の上から優也の声が聞こえた。慌てて階段を駆け下りてくる。

「おい、大丈夫か? 具合悪い?」

 涼香は顔を上げて彼を見つめた。動揺(どうよう)を悟られたくないのに、すがるように見てしまう。

「ごめん、大丈夫。全然、そういうのじゃないから……」
「無理すんなよ。顔色悪いぞ」
「うわー、最悪。寺坂に見られたー」

 あえて抑揚(よくよう)のない声でおどけたが、虚しいだけだった。優也は笑ってくれない。心配そうに肩をつかんで、階段に無理やり座らせる。彼は涼香の前に回り込み、仁王立(におうだ)ちした。

「全然来ないからさ、不安になって来てみれば。そんなに具合が悪いなら、わざわざ来なくてよかったんだよ」
「だから違うってば! ただ……ちょっと……」

 なんて言えばいいんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃでまとまらない。

 ——いまの私は、一体どこにいるの?

 急に足元がみえなくなってしまい、怖気づいた。そんな不安を彼に話したところで解決するはずがなく、むしろ変な目で見られそうで怖い。
 その時、グラウンドからの大歓声が壁を突き抜けた。

『どうもー! 軽音楽部期待の新星、BreeZeでーす! 今日は本当に楽しかったです! ありがとう!』

 郁音が所属するバンドが登場したらしい。部長の麟が元気よく声を張り上げる。

『初めてつくった曲を、いまから披露したいと思います! みんな、盛り上がっていきましょう! popshower!』

 その前振りから、すかさずドクンと心臓が跳ねるようなベース音がはじけた。ギターとドラムが重なる。アップテンポの曲が、どうにもこの場にそぐわない。

怖気(おじけ)づいたって 世界は待ってくれないんだ 切り(ひら)いてけ いまそこに新しい世界が待ってる』

 爆音と爽やかな詞が駆け抜ける。随分と荒っぽく、力強い詞だ。その声に二人は震えた。
 あのときと同じ。でも、場所が違う。こんな湿っぽい階段じゃ、ステージは見えないのに、彼との距離が近いから動けずにいる。
 背中を押すようなフレーズを受け、先に動いたのは優也だった。

「なぁ、大楠」
「はい……」

 優也につられ、涼香もかしこまって返事する。その反応に、優也は顔をしかめて笑った。えくぼがへこんで、くっきりと見える。

「なんか今日のお前、いつもより女子っぽいな」
「なによ、その言い方。私、これでも一応女子なんですけど」

 ひどい言い草につい文句を飛ばしてしまう。すると、優也は安心したように破顔(はがん)した。

「そうそう、それ。やっぱそっちのほうがお前らしいわ」
「かわいくなくてごめんなさいねぇ」
「別にかわいくないなんて言ってねーだろ。お前はそのままがいいよ」

 優也はゆるゆるとしゃがみこみ、手すりを握った。目と目が合い、同時にそらした。

「……俺が呼び出したのはさ、お前に話があって」
「うん」
「えーっと……」

 声が徐々にトーンダウンする。彼も緊張で言葉がうまく出てこないらしい。それはわかっているのだが、彼の言葉を聞きたいばっかりに思わずせっついた。

「なに?」
「いや、えーっと、だから……」
「もう。はやく言ってよ。あんた、朝からずっとそんな調子じゃん。こころがどれだけ世話を焼いてくれたと思ってるの」
「そうだけど! あー、くそっ。なんでバレてんだよ」
「ほら、待ってるよ。早くして」

 いらだたしく急かしたら、彼の口はますます固くなった。
 いつもこうだ。普段はおしゃべりなのに、二人きりになると黙り込んでしまう。それをからかうのが楽しく、あの不安が一気に吹き飛んだ。
 涼香はライブの音に合わせてパタパタ足踏みをした。

「『怖気づいたって世界は待ってくれない』ってよ。『グズグズすんな 顔上げろ』」
「うーん……」
「『クヨクヨしたって始まらない 愉快な世界で彩ってみせろよ』」

 歌詞をそのまま引っ張り出して言えば、優也もうるさそうに顔をしかめてくる。

「あーもう! うるせーな! お前、ちょっと黙れ」

 手すりをつかんで、彼は涼香の肩をつかんだ。顔が近い。唇が触れる。彼のまつげが近くて、目の中に入ってしまいそう。頭は真っ白で、体は自分のものじゃないように思えた。
 突然の暴挙に、時が止まった。

「……ごめん」

 いつの間にか離れていた。それでもまだ、息ができない。さっきまで塞がれていた口をなぞって、涼香は目を大きく開かせたまま唖然(あぜん)と優也を見つめた。心臓が痛いほど、激しく脈打つ。耳が赤くなっているような気がし、涼香は落ち着きなく耳たぶを引っ張った。

「ごめん! ほんと、ごめん……いや、だって、お前があんまりにもうるさいから」

 無理やりキスしておいて、こちらのせいにするとは何事だ。

「嫌だったら、ごめん。ってか、嫌だよな。ほんとごめん」

 彼はしきりに謝り、逃げるように涼香から離れた。手すりを離し、立ち上がる。その腕を思わずつかんだ。

「いや、じゃ、ない……よ」

 喉を振り絞って出たのは、弱々しく小さな声。思わぬハプニングに頭がついていけない。唇をなめると、うっすらと薄荷(はっか)の味がして、透き通った爽やかさに甘さを感じた。

「だから、ごめんとか、言わないで」

 手のひらの熱がそのまま彼に伝わってしまうんじゃないかと不安になった。でも、いま彼の手を離したら、どんな未来が待っているかわからない。

「そ、っか……」

 優也も(かす)れた声で返した。慌てて咳払いして、照れくさそうに笑う。

「あの、大楠」
「はい……」
「俺と、付き合って」

 かがり火と、にぎやかな声と群青、そして超高速のギターサウンドを背にして。ギュルギュルとフィルムを巻くような音がする。

「俺、本気だから。お前のこと、好きだから」
「うん……」

 手首をつかんで、不安そうな目を向ける彼をじっと見つめる。もう、絶対に離したくない。

「こんな私で、いいの?」
「うん」
「私、口悪いじゃん。すぐ叩くし、怒るし、冷たいし、優しくないよ」
「お前は優しいやつだよ。面倒見もいいし、頼りになる」

 きっぱりと言われ、涼香は顔を上げた。ただただ純粋に嬉しくて、心が舞い上がっていく。

「本当にいいの?」

 涼香は震える声で聞いた。

「いいよ」

 優也は力強く言った。喉が干上がって、声が出ない。息だけが上がって、心臓が早く鳴る。心音がうるさくて、それは一体どちらのものかわからなかった。

「——優也」

 思わず名前を口にした。その瞬間、優也の顔が強張る。

「ん?」
「ギュって、していい?」

 それは、彼が言うはずだったセリフ。
 優也が好きだ。いままで、自然と目で追いかけていた。仲が良くて、話をしていたら楽しかった。悪態も照れ隠しで、気を引くためだった。そうだと思う。彼への気持ちがいまになってはっきりと色濃くなった。
 優也は迷うように、黙ったまま両腕を広げた。その中に飛び込むと、優しく抱きとめてくれた。
 視界は白。少し陰る。汗くさい。懐かしい彼のにおい。
 優也は広い手のひらで涼香の頭をなでた。その動きがぎこちなく、指先は震えていた。それを感じとって、涼香はただただ優也のシャツに顔をうずめたままでいる。耳を澄ませると、彼の心臓の鼓動が速い。

「私も、優也が好き」

 ありったけの勇気を振り絞って言ってみた。その声は、届いただろうか。
 返事がないので、おそるおそる顔を上げる。

「えっ……?」

 甘やかな空気を残したまま、優也の姿が消える。視界が暗転した。