『ごめんね、涼香。私、そっち行けそうにないわ』

 スマートフォンの向こうで、郁音がしきりに謝ってくる。申し訳なさそうな声を聞いても、涼香は剣呑(けんのん)なため息を吐いた。

「でも、当番は決まってるし……午後のライブが終わったら来れるって話だったじゃん」
『本当に申し訳ない! そこをなんとか! いま、現在進行形で超やばいんで!』
「いま、現在進行形で超やばい状況ってなによ」

 あまりにも抽象的(ちゅうしょうてき)でわけがわからない。
 同じクラスの郁音も、クラスのパンケーキ屋で当番をする運びになっていた。午後一番のステージで、彼女が所属するバンドのライブが行われ、その舞台は成功したはずだ。

『いや、それがさぁ……生徒会長から後夜祭のライブに出てくれって頼まれて』

 低い声音で言うも、言葉の端々には浮かれた感情がにじみ出ている。しかし、友達の成功談を素直に喜べる状況ではない。
 一年二組のパンケーキ屋はそこそこの反響だった。それに、当初から組んでいたスケジュールに穴があくのはよくない。クラスの雰囲気を壊しかねない。郁音のバンドは応援したいが、どちらを優先したらいいのか。

『とにかく、麟が練習するって聞かなくて。だからお願い! 頑張って!』
「あ! ちょっと、郁ちゃん!」

 そうこうしているうちに通話が切れた。

「大楠さーん、ジュース運んでよー」

 後ろから羽村が声をかけてくる。不審めいた声に、涼香は慌てて反応した。

「ごめんごめん」
「んで、美作さんは?」
「郁ちゃんは、ちょっと戻れそうにないらしい……」
「えぇ? 嘘でしょー?」

 悪いのはこちらじゃないのに、なぜか責められてしまう。やはり、こういうハプニングはクラスの雰囲気を悪くするものだ。

 ——このあと、どうしたんだっけ。

 必死に思い出そうと記憶を手繰(たぐ)り寄せる。すると、当番じゃない優也が教室に現れた。

「どうかした?」
「あ、聞いてよ、寺坂ー」

 すぐさま羽村が告げ口をしようとその場から離れる。涼香は客にジュースを配りながら、その様子をちらりと盗み見た。

「まー、しょうがないよ。美作も忙しいんだし。あいつが楽しいんなら、俺は嬉しいよ」

 優也は羽村の文句を笑ってなだめた。小さなえくぼが困っている。それを見れば、羽村も不服ながら頷いた。

「その分、大楠が頑張ってくれるからさ!」

 感心しかけていたらこれだ。まさかこちらに面倒を押しつけてくるとは思いもしない。
 羽村がこちらを見やる。その視線に、わずかな憐れみが見えた。しかし、彼女はそれで納得したらしい。
 これには我慢ならない。涼香はさっさとジュースを運び終え、教壇のカウンターに戻った。すると、口を開く前に優也が満面の笑みで肩を叩いてくる。

「な、大楠! 俺たちでがんばろうよ」
「まぁ、いいけど……」

 不満はなかった。でも、言いくるめられるのは悔しい。不満に口を(とが)らせてみせる。優也の眉がハの字に曲がった。

「え? いや?」
「いや、じゃ、ない……」

 自然と答えるも、すぐに羞恥(しゅうち)が回ったので優也の足を踏んづけた。それを優也はあっさりと飛びのいて回避する。さすがバスケ部。反射神経がいい。
 その時、優也のズボンのポケットからスマートフォンの電子音が鳴った。

「明? どうしたー?」

 思わぬ相手が口から飛び出し、思わず耳を澄ませる。優也に近づくと、彼は少しだけ肩をそらして涼香を見た。動揺の色を浮かべている。こちらに意識を向けているせいで、スマートフォンが耳から離れていった。

『大変なんだよー、助けてくれよー』

 明の嘆きが丸聞こえ。優也は電話に集中しようと、その場から逃げていく。涼香は(たま)らず追いかけた。

「おーおー、そりゃあ大変だなぁ。やべー」

 教室から出て高笑いする優也。彼の足は隣の一組に向かっていた。隣と言っても階段とトイレに挟まれた校舎の最奥である。
 優也はスマートフォンを切ってポケットに押しこんだ。その足は迷いがない。

「うっわー。本当にやべーな。全然はけてないじゃん」

 そんな声が聞こえ、涼香も一組をのぞいた。仕切りで見えない。

「そうなんだよ。やばいんだよ。それもこれも全部、僕の発注ミスのせい」

 どんよりと暗い明の声が聞こえた。涼香は仕切りからこっそり顔を出してみた。

「大丈夫?」

 見てみると、何段も積み重なったクーラーボックス。その一つに敷き詰められた大量のカップアイスがざっと二十、いや三十個ほどか。これがあと四ケースもある。

「なんとか売ろうとがんばってたんだけど、もう十四時でしょ。一般開放が十六時までなのに、まだ半分以上も残ってるの」

 一組の実行委員である、おとなしそうな女子生徒が小声で教えてくれた。

「しかも、ここって階段とトイレに挟まれてて、あんまり目立たないんだよね。場所が悪すぎ」

 明を見ると、彼は深刻に思い詰めた顔をしていた。いまにも泣き出しそうな。それを押しとどめているような表情をしている。

「売り子して校舎の中もまわったら?」
「それは朝からずっとやってる。でも、今日は気温も低いし、あんまり売れ行きがよくないみたいで」

 優也の提案に明がすぐに返す。全員が沈黙(ちんもく)する中、涼香は素早く頭を働かせた。

「……じゃあさ」

 全員の目がこちらに集中した。目のやり場に困り、とりあえず優也を見る。

「うちで半分引き取ろうよ。二組のパンケーキに使おう」
「それはちょっと、厳しいんじゃね」

 優也は煮え切らない様子でもごもごと言った。どのクラスも、材料費は決まっており、売り上げによっては赤字を切る。その調整は生徒会が担っているが、急な予定変更をされては多方面に迷惑がかかるだろう。

「んじゃあ、こうしよう。これの三分の一をうちで引き取る。で、はけそうならまた追加で引き取る。一組はもうこの際、後夜祭返上で売り子してがんばるしかないよ」

 強い口調で提案すると、優也が頷いた。明の顔がパッと華やぐ。

「ありがとう! 助かる!」
「がんばるのはそっちだからね? うちは、あくまで手伝うだけ」
「それでもいいよ! ってか、それしかないよ! うわぁ、二組マジ神様」

 調子のいいことを言うが、明も朝からずっと悩んでいたんだろう。一組全員からの非難を受けるのはつらい。せっかくのお祭りなのに。

「優也、ありがとう! この恩は一生忘れない!」

 明は優也に頭を下げた。そして、アイスのケースをまたいで涼香の元へ行く。

「君もありがとう! 名前は? あなたはどこの女神様ですか?」

 調子のいい言葉なのに、顔が真剣なので涼香は拍子抜けした。勢いに押され、後ずさる。

 ——そっか、明は私のこと、まだ知らないんだ。

「大楠です。大楠涼香」
「ありがとう、大楠! この恩は一生忘れないから! なんならしばらく君の奴隷(どれい)になる!」
「大げさだなぁー」

 奥で優也が笑い飛ばした。アイスのケースを抱え、涼香の肩をつかむ。

「そうと決まれば、さっさと売ろうぜ」

 そのまま廊下までズルズルと引きずられた。明が拝みながら見送る姿が遠のいていく。

「……大楠、ありがと」

 二組へ戻る途中、優也が耳元で言った。

「あいつ、同じバスケ部の杉野明っていうんだけど」

 知ってる。でも、いまは知らないふり。明は目立ったプレーはしないが、些細なフォローがうまいらしい。散々教えてくれたからよく知っている。でも、本番に弱くて、たまに変なミスをする。一度ミスしたら、不調が続いてしまうとか。この件も明ならやりかねないミスだ。
 涼香は小さく笑った。想定外の事態に巻きこまれるのも意外と楽しい。お祭りにはうってつけのイベントだ。それに、この事件はあとあと功を奏することを知っている。
 涼香は余裕たっぷりに笑った。

「全然いいよ、これくらい。だって、あのひと、あんたの友達でしょ?」
「うわ、超やさしー。いがーい」
「何が意外よ」
「だって、いつもはそんな優しくないしー?」

 照れ隠しに冷やかしてくる。そんな彼の腕を親指で突き刺した。

 ***

「はー、なるほどねぇ。それでアイスパンケーキに」

 こころが感心深げに言った。ポップコーンとからあげ、焼きそば、わたあめを抱え、頭には(きつね)のお面をつけている。文化祭を満喫(まんきつ)しているようでなによりだ。

「あ、郁ちゃんのライブ、最高だったよ!」

 そう言ってスマートフォンを見せてくる。動画を撮ってくれていたらしく、画面に指が触れると、たちまちギターとノイズが混ざった音が反響した。ザカザカとした大音量が耳をつんざく。すぐさま動画を止めたが、パンケーキを食べる客の視線が痛い。

「し、失礼しましたぁー」

 涼香は慌てて裏声を出した。こころが申し訳なさそうに頭を下げる。

面目(めんぼく)ない……」
「もう。しょうがないんだから。その動画、あとで送って」
「了解」

 こころはすごすごとスマートフォンをカーディガンのポケットにしまった。

「まぁ、アイスの件は売り上げがかなりいいので、むしろうちの成績も爆上(ばくあ)がりでさ」

 涼香は得意げに笑った。横では優也が電卓をパチパチ鳴らして計算している。

「ほう、どれどれ」

 こころが優也のノートをのぞき込む。赤字どころか一組の材料費も還元できそうだった。しかし、優也は腕を組んで難しい顔をしている。

「でもまぁ、約束は約束だしな。うちも材料分使い切ってるし、もう店もしめないと」

 時刻は十五時五十五分。一般開放時間は残り五分を切った。客足もそぞろになっており、ジュースだけが余っているような状況だ。

「涼香、片付(かたづ)けはあたしがやっとくし、いまのうちに色々見てきたら?」

 こころが元気よく提案した。

「そーだね。でも、こころがからあげ買ってきてくれたし、これでいっかな」

 味見のために甘いものを食べすぎて腹は満たされているが、やはりしょっぱいものも食べたい。こころが抱えてきたものをパクパク口に放り込んでいく。

「うーん。それじゃあ、あたしはもう一回、まわってこよう……化学(かがく)同好会の『ばけがく実験室』に行きそびれてて」
「行っておいでー」

 軽く手を振って追いやる。こころは嬉しそうに目を輝かせた。

「んじゃ、涼香のために動画撮ってきてあげるー!」
「いや、別に、ばけがく実験室には興味ないんだけど!」

 追いかけるように言うも、こころは猛ダッシュで教室を出て行った。

「……行かなくていいのか?」

 横から優也が苦笑まじりに言った。

「うーん……まぁね」

 優也と一緒にいたいから、なんて口が()けても言えない。曖昧(あいまい)に返事をしてしまい、優也は「ふーん」と軽々しく唸る。

「じゃあ、あとは後夜祭だなぁ」

 その声に少しだけ哀愁(あいしゅう)を感じた。
 お祭りが終わる。楽しかった時間は必ず終わってしまう。えも言われぬ寂寞(せきばく)を涼香も感じた。このままでいたい。でも、時間は無情だ。
 やがて、十六時のチャイムが鳴った。

『放送部からのお知らせです。これをもちまして、一般開放を終了させていただきます。また、生徒は後夜祭の準備のため、十六時半以降より後片付けを始めてください。ご協力よろしくお願いします』

「あーあ。終わっちゃうね」

 思わず言うと、優也も気まずそうに頷いた。

「そうだな。ライブ、観たかったなー」
「あとでまた観たらいいじゃん。郁ちゃんも出るってよ」
「そうなんだけどさ」

 なんだか煮え切らない。優也はそわそわと落ち着きなく、肩を回した。これは、告白のタイミングをうかがっているのでは。
 そう予想していると顔が熱くなり、涼香は教壇から降りた。

「どこ行くんだよ」

 聞かれてすぐには答えが思いつかない。引き止めるような言い方に、涼香は戸惑った。逡巡する。不自然な間があいた。

「えーっと……トイレ」
「あ、そう……行ってらっしゃい」

 優也は頰を引きつらせて眉をひそめた。手で追い払われる。それに甘えて、廊下へ逃げた。


 足取り軽やかにトイレへ急ぐ。しかし、急ブレーキをかけて立ち止まった。トイレの奥に人影が二つあった。同じクラスの女子二人。一方はこころで、もう一方は羽村だった。入口から遠ざかり、壁に張り付いて見守る。
 どういうことだろう。こころは化学同好会の催しに出かけたはずだ。

「ほんとのところ、どうなの? 大楠さんからそういう話、聞いてないの?」

 羽村の問い。切り取った言葉の筋からなにも読み取れず、涼香は固唾(かたず)を飲んだ。

「うーん。まぁ、そうだなぁ。涼香って、そういうの隠したいひとだし」
「はぐらかさないでよ。だって、寺坂は大楠さんのことが好きでしょ? 見てれば分かる」

 羽村のいらだった声に、涼香は息を飲んだ。すかさず、こころの緩やかな笑いがこぼれる。

「確かに、寺坂くんってわかりやすいよねぇ。あたしも困ってるんだよー。見ててやきもきしちゃうっていうか」
「そういう話をしてるんじゃなくて!」

 きつい声がトイレ内を震わせた。あまりにも切迫しているので、涼香もこころも、羽村でさえ息をひそめる。少しの間をあけ、羽村は声を落とした。

「大楠さんは、寺坂のことどう思ってるのって聞いてるの」
「だからぁ、そういう話はしたがらないひとだからぁ」
「仲がいいなら聞いてるでしょ? 教えてよ。でなきゃ、私、いつまでたっても諦められないじゃん」

 悲痛にも似た言葉が、涼香の胸に突き刺さった。体が硬直して動けない。羽村の気持ちを、いままで一度だって考えたことがなかった。
 彼女も優也のことが好きだった。だから、いつも涼香に突っかかってくる。それは三年に上がっても変わらない。どうして気がつかなかったんだろう。

「そっか。そうだよね……羽村さんも、つらいよね」

 こころもおどけた調子を崩しており、真剣に言った。ため息を吐いたのはどっちだろう。二人の間に沈鬱(ちんうつ)な空気が流れる。

「涼香はね、いい子なんだよ」

 やがて、こころが苦笑交じりに言った。

無愛想(ぶあいそう)だから誤解(ごかい)を招きやすいんだけど、実はよく笑うし、よく食べるし、恥ずかしがり屋で、めんどくさがりで、()(しょう)で、目の前のことしか見えてない。みたいな」
「はぁ」
「でね、恋愛に(うと)いの。自分の気持ちに気づかなかいほど鈍感なの」
「ん? それって」
「うん。まぁ、そういうこと。素直じゃないから認めてくれないだろうけど、あたしはそうだと確信してるね」

 自信たっぷりに言い切ってくれる。こころの透き通ったまっすぐな言葉に、涼香は口を抑えた。うっかり息を漏らしそうになった。
 そんなこちらの感動もつゆ知らず、話は続く。

「あーあ。羽村さんってば、真剣だからさぁ。これじゃあ、どっちを応援したらいいかわかんないじゃん」

 羽村はぎこちなく唸った。彼女も悪気はないのだろう。気まずそうなため息がとめどなく漏れている。

「気持ちはそのままでもいいと思うよ。忘れずにとっときなよ。次のひとのために」
「それ、遠回しに諦めろって言ってるよね」
「まぁまぁまぁ、恋心というのはどんな困難にも立ち向かえる希望なんだよ。ね、そう思えばこんな失恋もかすり傷だよ」

 そっとのぞくと、羽村は顔をうつむけていた。カーディガンの袖で目元を拭う。

「……あーもう、わかったよ。引き止めてごめんね」

 敗北の声は、無理をするような明るさがあった。そこにこころが穏やかにも咎めるような言葉をかける。

「じゃあ、もう涼香にきつい言い方しないでね?」
「うん。そうする。でも、やっぱり大楠さんもはっきりしてくれなきゃ、嫌かも」
「そこはあたしがなんとかするよ」

 こころはなおも自信満々に言った。どこからその自信が湧くのだろうか。呆れを通り越して感心してしまう。これには羽村も不審感を抱いたらしい。

「ほんとかなー」

 声をうわずらせ、彼女はきびすを返した。トイレから出てこようとしている。慌てて階段まで逃げ込むも、羽村はこちらに気がつかず、教室へ戻って行った。
 こころもトイレから出てきた。やけに清々しそうな顔をしている。

「ふぅ。いいことしたなぁ」
「……こころ」

 階段から呼びかけると、こころの肩がびくりと飛び上がった。

「え? あれー? なんで!?」

 頭の裏で手を組んで体を横へ傾ける。その大げさな仕草に呆れ、涼香は階段を駆け上がった。こころの脇腹に親指をねじ込む。

「うあっ」

 地味な攻撃にこころがくずおれた。