時間というのはきっと、夢の狭間に似ているんだろう。幾重にも連なった記憶のフィルムをたどる。どうにも心地が悪く、ぬかるみを歩いているような気がした。
帰り道がない。もしかすると、また間違えたのかもしれない。
「いやぁ……本当にどうすんだこれ」
とぼけたひとりごとでも吐かなければ、恐怖感を拭えることはできなかった。
『大楠さんってさ』
ふと、背後で女の子の声が聞こえた。小学校低学年くらいの女の子が嫌みたらしく笑っている。小学二年のころの記憶だ。名前も覚えていない相手だが、言葉の棘はやけに鮮明だった。
『つり目だし、おでこ広いし、かわいくないよね。ピンク、似合ってないよ』
その悪態が懐かしく、傷口をえぐる。
小学校二年生だった涼香は、ピンク色の小物を集めていた。ピンク色のフリルや、さくらんぼの髪留めが好きだった。
映像が切り替わる。
『涼香? 今日はさくらんぼ、つけなくていいの?』
学校へ行く間際、母に聞かれた。
『もうつけたくないの。私には似合わないから』
それを冷たく突っぱねてしまい、翌日からはデニムの服を選んで着るようになった。長い髪の毛も一つにくくって、髪ゴムは無地の青色で。
いま思えば、自分の好きなものを否定されたからずっとふてくされていたんだろう。傷ついたときくらい隠さずにいられたら、まだこんなことにはならなかったのかもしれない。そんな時代が猛スピードで目の前を駆け抜けていく。
涼香は、記憶の海に溺れた。
学年が上がっても、中学校に上がっても、とくに好きなものはなく、こだわりもなく、部活も熱心じゃなかった。毎日楽しければそれでいい。成績も中の上くらいを保っておく。
断片的に自分の軌跡をたどれば、いつの間にか優也の顔が頻繁に現れるようになった。ほんの数年前のことなのに、一瞬の出来事を大事にしていたわけではなく、おぼろげにぼやけている。
『大楠って、女子っぽくないから話しやすいよなー』
優也とは中学で出会った。同じ班で、同じ委員会。そこから話す機会が多くなった。
――どうせかわいくないですよーだ。
ふてぶてしい優也の顔を蹴飛ばすと、映像が淡い気泡となって消えていく。もっと深く沈んでいけば、濃厚な青の中に光を見つけた。
高校の入学式。浮かなくて、変わりばえしない世界をぼんやりと眺めているだけの映像が淡々と流れていく。そこに、こころの姿はない。
「やっぱり、こころとは出会えないのかな」
そこからは記憶に新しい時間が流れていく。こころがいないだけで、日常は淡々と過ぎていく。それはどうにも味気ない世界だ。
「――涼香」
足元から、はっきりと声が聞こえてきた。見下ろすと、海の底に人影がある。
手を伸ばしてこちらを見ているのは――
「こころ!」
ふわふわの三つ編みが、暗い水底で揺れていた。
***
底に足がつくと、浮遊感がなくなった。急激に体重を取り戻し、ぬかるんだ地面にめり込んでいく。それをこころが引っ張り上げてくれた。
「ここ、どこ?」
こころは頼りなく苦笑した。その笑顔を見ると、安堵してしまう。すっかり涙もろくなった目尻を押し、涼香は天を仰いだ。
「私たち、帰れるのかなー」
「どうだろ。あたしが思うに、ここは〝時空の狭間〟なんだよね。ゴミ箱みたいな場所」
「時空の狭間? ゴミ箱? なんだそれ!」
素っ頓狂に聞くと、こころは気まずく眉をひそめた。
「タイムリープを繰り返して迷子になっちゃって、その末路みたいな?」
「うわ、最悪な結末じゃん」
思わず天に向かって絶叫すると、暗い天井がわずかに揺らいだ。声が反響し、波紋が広がっていく。涼香は肩を落としてうずくまった。
「涼香……」
こころの声が降ってくる。耳だけで聞き取り、涼香は顔を上げずに「ん?」と軽く返した。すると、髪の毛に涙が滴り落ちてきた。
「ごめんね。こんなことに巻きこんで」
おそるおそる顔を上げると、こころが涙をこぼしていた。暗く淀んだ瞳で、顔をぐしゃぐしゃにしてしゃくり上げる。そんなこころのスカートを引っ張った。
「もう、泣かないでよ」
「だって、あたし、余計なことして涼香を困らせてばっかりで、幸せになって欲しかっただけなのに、その願いが届かなくて……」
こころが悔やんでいることは目に見えて明らかだった。
その気持ちが痛いほど伝わる。友人のために必死に過去を変えては落胆し、諦めがつかなくなって、それはいつしか「使命」とすり替わる。
彼女は目尻をぐぐっと押しながら続けた。
「あぁ、ダメだ。結局、あたしは涼香のこと考えてるふりして、理想を押しつけてただけだった。ここに引きずりこまれて、ようやく気づいたよ。本当にごめんなさい」
「あー……うん、まぁ、それは否めないわ」
泣きじゃくる彼女を前にして、感情が動かないはずがない。それでも、お互いに泣き合っていては話が進まないだろう。ぐっとこらえて、こころの手を引き寄せる。すると、彼女はようやくしゃがんだ。
「いい? こころ」
うつむき加減のこころに、涼香は真剣な目を向けた。声音は少しだけ低い。
「私もね、こころにはずっと笑っていてほしいし、悩まないでほしい。私のことで深刻に考えないでほしいし、期待もしないでほしい。ほら、私も押しつけるよ」
「でも、あたし……」
「もういい。いいってば。私も共犯だから。こころだけに押しつけるつもりはないよ。友情に理屈や公式は不要。感情を優先させるべし。それが私の青春哲学、でしょ?」
「あはは……はぁ、やられたー」
おどけた声で言えば、こころは吹き出して笑った。高く伸びやかな笑い声が響くと、一緒に笑い出したくなる。
たっぷりの涙を滴らせ、ひとしきり笑うと彼女は上目遣いに見た。
「許してくれる?」
「許す」
「また友達になってくれる?」
「当たり前じゃん。ここまで私の人生に干渉しといて、いまさらなに言ってんの」
背中を思い切り叩くと、こころの体が大きく前のめりにぬかるみへ沈んだ。仕方なく引っ張り上げる。なんとなく気恥ずかしくなり、涼香はため息混じりに言った。
「――私が壊れて、立ち上がれなくなったのを知ってるんだよね?」
こころの表情が固まった。
「うん。連絡もつかなくなって、家に行っても会えなくなった」
「それで、私の過去を変えようとした。でも、私が途中参戦してきたからうまくいかなくなった。そういうこと?」
「そう。何度も何度も涼香がついてくるから、最後のタイムリープではなにもしないことに決めたの。そしたら、涼香が倒れちゃって……たぶん、あの時、あたしたちはタイムリープのタブーに触れちゃったんだよ。それで、こんなことに」
「はぁ……意味わかんない」
単なるおまじないがこんな事態を引き起こすなんて。お互い、もっと慎重になるべきだ。涼香は項垂れて反省した。
「タイムリープってなんなんだろうね。条件さえ合えば、手軽にできちゃうじゃん。危ないわー」
「普通、タイムリープできたら浮かれるものじゃない? あたしは浮かれたよ。これで過去を変えてやるって、まるで主人公になった気分だった」
いくらか吹っ切れたのか、こころもあっけらかんと言う。対し、涼香は「ふん」と鼻で笑った。
「こころみたいに使命感も正義感もないからねー。やっぱり私は、そこまで器が大きくないんだよ」
出した答えは情けないものだった。でも、納得して出した結論だから落胆はなく、むしろ気楽なものだった。
こころの顔を見ると、彼女は不満そうに口を尖らせた。
「でも、ここまで来てくれたじゃない」
「今日だけはいいの。もうこれっきりだから」
恥じらうと、こころが脇腹を突いてきた。地味な攻撃をかわし、たっぷりの意地を見せてふんぞり返る。
「感情をフルに使うのが面倒だし、そもそも悩みたくない。他人の人生を左右する存在にもなりたくないし、誰かの生きがいになるのも荷が重い……でも、この先、なにがあるかわかんないじゃん。楽しいことだけじゃないし。それはわかってるけど、心配されたくないし、この逃避癖は抜けそうにない。誰かに頼るっていう発想がないと、すぐにへばってる」
何度も繰り返してようやくわかった自分の本性。
きっと、これからもそういう風に生きていく。
「それに気づけただけ、今回のことは大収穫でしょ。だから、こころも自分を責めないでね」
膝に顔を埋めて言うと、こころはぽっかりと口を開けた。みるみるうちに目が潤んでいく。やがて感極まって、涼香の肩にしがみついてきた。
「すーずーかぁー」
「あーもう、泣くなってば!」
鬱陶しく追い払うも、無下にはできない。こころの肩を抱くと、彼女の涙が服に染み込んだ。ぐすぐすと鼻をすする音がこもる。背中をトントン叩くと、こころはようやく落ち着きを取り戻して笑った。
「落ち着いた?」
「うん。泣いたらスッキリした」
「それなら良かった」
肩に染み込んだ涙のあとを見ながら、涼香は苦笑いした。
「はぁー……あとは、どうやってここから脱出するかだね」
こころが言う。彼女が満面に笑うので、涼香も口角を上げた。
「困ったもんだねー。あはは」
「あはははは」
「笑ってる場合か。本当にどうすんの」
一転して辛辣に言うと、こころは顔を引きつらせた。
「それについてはずっと考えてるんだけどね……まぁ、あたしたちは過去を変えまくったせいで、世界から爪弾きにされたんだよ」
「はぁ」
「タイムリープって、やり方もいろいろだけど、制約も様々なのね。タイムリープそのものを悟られてはいけないとか、過去改変をしてはならないとか、観測者は過去の人にタイムリープを教えてはいけないとか」
「それ、全部アウトじゃん」
どんどん希望が失せていく。せっかく前向きになったのに、世界から爪弾きにされては元も子もない。
こんな状況にいてもなお、涼香はどこか他人事に考えていた。現実逃避というやつか。
考えることをやめると、こころが横で唸った。
「まず、どうしてこんな場所に閉じ込められたのかだよね。涼香に知られたからだと思ってたんだけど、どうもそうじゃないような気がしてきた」
「と言うと?」
「涼香もあたしと同じ時間でタイムリープしてると勘違いしていたわけで、その時点で『知られてはいけない条件』は成立しない」
人差し指を立てて言う彼女の声はしっかりしていた。説得力がある。涼香は感心げに頷いた。
「あとは、過去改変をここまで繰り返していていまさらアウトっていうのも考えにくいよね。ここで『過去改変をしてはならない条件』も消える」
二本目の指が立つ。涼香は固唾を飲んで見守った。こころの口がますます真剣になる。
「だからあたしは『観測者は過去の人にタイムリープを教えてはいけない条件』が当てはまったのかなって思ったの。でも、それも違うんじゃないかって思ってる」
「と言うと?」
「こうしてまた会えたってことが証拠だよ」
気取った口調で言うこころ。どうやら調子を取り戻したらしく、その憎めない笑顔を見ていると悔しくなった。鼻をつまむ。「んにゃっ」と猫のように呻いた。口をパクパクするので、すぐに手を離した。
「あたし、てっきり涼香が助けにきてくれたのかと思ったんだよー」
鼻を痛そうに揉むこころの声。それに対し、涼香は「はぁ?」と大きな声を上げた。
「だって、過去のあたしを助けてくれたでしょ? あそこがあたしの分岐点だったんだね」
こころはにんまりと笑った。どうやら、あの一連の様子をここから見ていたらしい。
一気に恥ずかしさが全身に回り、涼香は顔をしかめた。
「まぁね。でないと、こころがいない未来になっちゃうみたいだし。でも考えが甘かったよ。結局、帰り道がわかんないし……」
考えがまとまらない。条件をつぶしても、ここから脱出する方法はわからないのだ。
天はどこまでも暗い。手を伸ばすと、暗い色がさざなみを打つ。
しばらく、お互いに沈黙した。しかし、意味のない時間だった。
「こういうとき、小説や漫画だったら、男の子が助けにきてくれるんだよね。ほら、ロマンチックな展開」
こころが笑いながら言った。彼女も考えることをやめたらしい。
「寺坂くん、来てくれないかなー。杉野くんでもいいけどさ」
「あの二人じゃ無理でしょ。優也はともかく、明はタイムリープのこと信じなかったし」
「そっかぁ。まぁ、でもここで杉野くんが来てくれたら、あのひとの株、爆上がりなんだけどな。颯爽と助けにやってくる王子様になってくれればいいのに。論理も制約も吹っ飛ばして、丸く収めてくれて」
「王道展開ね……でも、私はそういうベタな話は嫌いだなー。別に、女の子が女の子を助けに行ったっていいじゃん」
「それもそうかー」
こころはくすぐったそうに笑った。その横顔に人差し指を突き刺す。
「て言うか、もし戻れたとしても明とは喧嘩しないでね?」
「うーん。それは杉野くん次第」
いたずらな返答に、涼香はため息を吐いて諦めた。これは前途多難だ。しかし、いつまでも現実逃避していてはいよいよ帰れない。大事なことがわかったいまこそ、彼らの元へ帰るべきだ。
涼香はゆらりと立ち上がった。
手を伸ばしても、景色はとくに変わりない。膨大な闇の世界に早くもうんざりしている。
「そう言えば、さかさ時計のおまじないって、なんで『さかさ時計』って言うの?」
ふと思い当たったことをこころに聞く。彼女は思案げに首をかしげた。
「過去にさかのぼることができるから、じゃない?」
「だったら『過去時計』でもいいじゃん」
「えー? 語感がよくないよー」
「そういう問題か」
真面目に聞いたこちらがバカだったと反省する。
呆れて腰に手を当てていると、こころはなにかに引っかかった。顎に手を当てて真剣に考える。
「さかさ……さかさま……逆巻き。逆巻きの時空間」
それは彼女が読んでいた本のタイトルだ。
「ここは時間の狭間。記憶の海の底。右輪こころが家出をしない世界で止まっている状態」
ゆっくりと思い当たるようにつぶやいていく。
「いまここで、さかさ時計のおまじないをしてみたら、どうなると思う?」
こころの問いに、涼香の思考は錆びついた歯車のように鈍った。
「どういうこと?」
「だから、逆さまなのよ。いま、ここは過去の世界。いわば、あたしたちが住むべき場所の反対世界。ここでおまじないをしたら、未来方向へ進めるってわけ! 帰れるんだよ! うん、絶対そうだ!」
こころは興奮気味にまくしたてた。その勢いに乗せられ、涼香の頭の中で砂時計がくるりとひっくり返る。しかし、不安は拭い去れない。
「本当にそううまくいく?」
「理論上ではね」
「なにその都合がいい展開」
改めて確認し合うと、お互いに顔が引きつった。その顔を見て、吹き出す。二人は口を押さえ、体をくの字に曲げて笑った。
明るい声が反響すると、天の水面が激しく震える。波紋が広がっていき、四方八方が音の渦をつくった。
目尻に涙がたまってしまい、指で拭い取る。こころは目を腫らしているから痛そうだ。
「一人で行わなければならない、〇時に行わなければならない、北極星を軸にするっていう方法が見事に破られるわけだけど、試す価値はある」
ひとしきり笑い、こころはかしこまるように直立した。涼香も合わせて、彼女の目の前に立つ。二人で向かい合い、なんとなく手をつないだ。
「涼香」
「ん?」
「もし、あたしたちが出会わない世界にたどり着いたら……」
打って変わって静かなこころの声。彼女の指は少しだけ震えていた。それを包むように強く握る。震えが伝染しそうで怖かった。
「大丈夫だよ。そのときはさ、また会いに行けばいいじゃん。家近いんだし」
「そうだよね……うん。大丈夫。あーもう、誰かさんの鈍感がうつればいいのに!」
この期に及んで、そんな言い方はないだろう。文句を言いかけるも、言葉が出てこなかった。かわりに愉快な笑いがこみ上げてしまう。
「それじゃ、元の場所で答え合わせしよっか」
いつか交わした約束を思い出しながら言うと、こころは「あいたた」と顔をしかめた。
「そんな約束もしたね……じゃあ、お互い健闘を祈ろう!」
こころが手を振り払った。一歩後ずさって、反回転。同時にきびすを返すと、こころの姿が見えなくなった。互いに背中合わせで深呼吸を三回繰り返す。
そのとき、真っ暗だった視界が反転した。白い光がまぶたを刺激する。体が上昇していく。
耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がした。