十月の夜は思ったよりも冷え込む。頰に受ける風が冷たい。薄暗い道は別世界のよう。ノーカラーのジャケットだけでは心もとない。
夜が更けたくぼ商店街は、無彩色のトンネルだった。ミギワ堂古書店も例外ではなく、眠るようにシャッターが降りている。寒々しい灰色を目の前にすると、あの眩しい夕焼けが恋しくなった。
時刻はもう二十三時も過ぎており、刻々と明日が迫っている。
涼香はシャッターから離れ、一歩下がった。ポケットの中にあるスマートフォンをおもむろに取り出す。あと一分。世界はもうすぐ午前〇時を迎える。
さかさ時計のおまじないは、真夜中の〇時に行わなければならない。そして、北極星を軸に反回転する。右足を引いて左へ全身をひねる。戻りたい時間を念じる。
涼香は目を閉じた。おまじないには「目を閉じなければならない」なんて項目はないが、なんとなく星に願うように期待をこめてみた。
「お願い……」
ゆっくりとまぶたをこじあけるも、無愛想に締め切られたシャッターが目の前にあるだけ。
涼香は埃がこびりついた溝を触った。もう、これだけしか望みはない。タイムリープをしなくては、六年前に失踪したこころを助けることができない。
「お願いだから、六年前に戻して」
ゆかりのない世界だからだろうか。時間を戻すすべは本当にないのだろうか。そうだとしたら、あまりにも無力だ。
結局、自分だけでは道を切り開くこともできない。精一杯の勇気はいつも空振りに終わる。
「どこで間違えたのかな……?」
寂しくつぶやいたその時、景色が滑らかに色を変えた。早戻しの映像を見ているような。同時に、耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がする。
空が、廻る。
濃紺とオレンジと、水色と白。黄色の光源が点滅し、一定の間隔で横切る。色が反発し合う。ぐるぐるとかき混ぜられ、次第に渦を巻いて溶け合っていく。やがて色がもつれ、淡い色は濃い色に飲み込まれていった。
***
バサバサと灰色の鳩が飛び立つ音が聞こえ、目を開けた。遠くでカラスの鳴き声もする。不気味な夜の世界は続いており、景色は変わらない。涼香はミギワ堂古書店の前で佇んでいた。
すると、店の裏口がキィッと甲高い華奢な音を響かせた。思わず電柱に隠れる。
店と隣の古着屋の隙間から小柄な少女が外をうかがいながら出てきた。風呂上がりなのか、量の多い髪の毛はぺしゃんこになっている。顔つきは幼く、あどけない小さな口が不満そうに真一文字を結んでおり、丸い目は緊張で強張っていた。
すぐに、こころだと思った。よそ行き用のようなブラウスと水色のカーディガン、茶色のキュロットスカートという出で立ちで、彼女は淡い水色のランドセルを担ぎながら狭い道を通る。裏の勝手口から抜け出してきたんだろう。
「ふぅ。なんとか脱出できた」
重労働を終えたかのように清々しく息を吸う。そして、きょろきょろと辺りを見回した。
「このへん、全然わかんないなー……駅はどっちだっけ」
右を見て左を見て、首をかしげる。それをしばらく続けていた。道がわからないらしい。
涼香はたまらず電柱から足を踏み出した。
「駅はここを抜けてすぐの道から右に行けばあるよ」
「うわっ! お姉ちゃん、だれ?」
こころの小さな体が大げさに怯えた。
不審者をみるような目つきで警戒され、涼香は両手を小さく挙げた。自分の姿までは六年前に戻っておらず、どうも十八歳のままらしい。不思議に思うも、今はそれどころではない。小さなこころが逃げ出さないように見張る。そして、小動物を相手にするようにこわごわ近いた。
「私は……えーっと、近所に住むお姉ちゃんです。たまたま見かけたから声をかけただけ。子どもがこんな時間に出歩いたらダメよ。帰りなさい」
「やだ」
こころはふくれっ面で涼香を睨んだ。いつも笑顔の彼女には似合わない、その反抗的な表情に驚く。
「だって、あたしの家はここじゃないもん」
きっぱり言い、こころはポケットからメモ帳を出した。ファンシーなキャラクターがプリントされたメモ帳の中央に、丸っこい文字で住所が書いてある。
「ここがあたしの元のおうち。学校も転校になっちゃうし、あともう少しで卒業なのにタイミング悪いじゃない。だから、卒業するまでお父さんのとこに置いてもらおうと思って」
「それ、お母さんには言ってるの?」
「言うわけないでしょ。お母さんはお父さんのこと、大嫌いだもん。お父さんもお母さんのことが大嫌い。あたしは、どっちの味方にもなれないから、一応言うこと聞いてるけど、もう我慢の限界」
口調は厳しいが、顔が幼いので大した威嚇にはならない。こころはランドセルを背負い、ため息を吐いた。
「だから、あたしもやりたいことをやるの」
「そう……それはいいんだけどさ……」
涼香はジャケットのポケットに入れていたスマートフォンを出した。
「実はもうとっくに終電過ぎてるんだよね」
「えっ!?」
こころは丸い目を開かせた。そして、大げさな身振りで頭を抱える。
「そ、そんな! あたしの計画が、ここで、こんなとこでっ……まさか、あなた、あたしの計画を邪魔しにきた未来人なの!?」
「み、未来人?」
「だってそうでしょ! わざわざあたしの行動を阻止しにくるなんて! それともお母さんが雇ったスパイ? あ、その線もありえるわ……」
「テレビの見過ぎじゃないかな」
「ドリーミーリリーに全部書いてあるのよ。お姉ちゃん、知らないの?」
ドリーミーリリーとは。思い出すまでにそう時間はかからず、涼香はすぐに「なるほど」と合点した。
このミギワ堂古書店に置いてあるアニメ原作の漫画だ。涼香も愛読していたタイムリープ物語。
なるほど、どうりで無駄に想像力が豊かな子どもだ。この好奇心が「さかさ時計のおまじない」を確かなものにしたんだろうか。しかし、詰めが甘い。
的を射た発言にヒヤリとするも、なんとか皮肉を突き返すくらいの余裕はあった。
「ドリーミーリリーなら、こんな下手な家出なんかしないでしょ。残念でした」
その言葉が決定的となり、こころはガックリと崩れるようにその場にうずくまった。さながら悲劇のヒロインだ。
「あーあ、最悪……未来人に止められたら、もう絶対に無理じゃん」
どこまで本気だったのかわからないが、決意はもろく崩れたらしい。そんな彼女に近づき、涼香もしゃがみこんだ。
「ねぇ、名前は?」
「こころ」
すぐに返ってくる声は元気がない。慰める言葉が見つからず、涼香も項垂れて唸った。
「えーっと、こころちゃん。転校は嫌かもしれないけど、そこで新しい友達が待ってると思うよ」
「待ってないよ。だって、みんな仲良しじゃん。よそ者は迫害されるんだから」
小学六年にして難しい言葉を知っているものだと感心するべきか。しかし、意外と繊細な悩みを抱えているものだ。そんな彼女の悩みに寄り添うのが難しい。
涼香はまたも深く唸った。こわごわと言葉を探す。
「それは……こころちゃん次第だよ。そうやってひねくれて、ツーンとしてたら誰だって近づきたくないでしょ?」
いつか、こころが言ったもの。彼女の思考をなぞるように言葉を思い出す。すると、こころはちらりと顔を上げた。その隙をつくように彼女の頰をつかむ。
「ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくないじゃん。いま私が『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ」
「ぶっふふふ。なにそれ、超ウケる」
こころは口をすぼめて吹き出した。その笑顔を見ると安心できる。
「でもその通りかもしれないねー。そっかぁ……」
納得はしてくれたものの、彼女はまだ煮え切らない様子だ。
そして、迷うように言った。
「……あたしね、おじいちゃんのことは好きだよ。お父さんもお母さんも。だから、本当は家出なんてしたくないの」
「うん」
「お父さんとお母さんが離ればなれになるのは嫌なの。それにね、学校での時間も好きなの。友達と楽しく毎日遊びたいの。でも、それがもうできないんだ」
顔を上げたこころは笑っていた。つらいものを隠すように、目尻が小刻みに震えている。口元は無理やり上に引っ張ったようで、不恰好な笑顔が恐ろしく似合わなかった。
「ねぇ、お姉ちゃん。あたしね、考えてもわからないことがあるんだけど」
「なに?」
「どうして好きなひとと結婚したのに毎日喧嘩するのかな?」
無垢で無邪気な問いが、胸に突き刺さる。顔を強張らせるも、こころは純粋な目で続けた。
「どうして好きだったはずなのに、仲が悪くなるの? どうして離婚するなら結婚したの? お互いに嫌いなら、どうしてあたしを生んだの? っていつも考えてるんだけど……答えが見つからないから悲しいし、それを聞いたらダメなんだろうなって。だからあたしは、ずっと我慢してた」
それがこころが抱える喪失感。ずっと塞がらない隙間だらけの心で「楽しいことを探さないといけなかった」と語るあの横顔を思い出す。
虚しい衝撃がじわじわと目頭を刺激した。目の前にいるこころも瞳を潤ませる。
「なんで、幸せって壊れちゃうんだろうね。あたしが悪いのかな? みんなと仲良くしたいだけなのに、その願いはいつも届かないよ」
こころの目から大粒の涙がこぼれた。それでも彼女は自嘲気味に笑うから、言葉に詰まった。
そうやっていつも、涙をこらえていたんだろう。本当は涙もろいくせに、笑って我慢していたんだろう。
頰をつまんで口角を持ち上げようとするこころを見ていられなくて、たまらず抱きしめた。
「なんでだろうね。それは、私にもわかんない……多分、好きなひとと一緒にいられない世界もあるにはあるんだけど、それなら、ほかの大事なひとを傷つけないようにするしかないんだと思う」
「でも、お母さんたちはそれをしてくれないよ」
「だったら、こころが大事にしてあげて。大丈夫。絶対できるから。こころは涙より笑ってる顔のほうがいいよ」
「笑えなくなったらどうしたらいいの?」
「私が笑わせてやる。うんざりするくらい笑い疲れさせてやるから。だからさ、こころ。お願いだから、帰ってきて」
静かに鼻をすすってしゃくりあげるこころを強く抱きしめる。次第に視界がぼやけていき、涙が止まらなくなった。
「ごめんね。こころはずっと考えてくれたのに、答えを見つけようとしてくれてたのに。私は独りよがりで鈍感で、気づこうともしなかった。そんな私を助けようとしてくれてたのに、私、友達失格だよ」
「……ごめん、お姉ちゃん。なに言ってんのか全然わかんない」
こころが涙を拭いながら身をよじる。気が抜けた風船みたいに笑う彼女に、涼香も泣きながら笑った。
「そうだよね、ごめん。なんか、私の友達と重なって見えて」
「そっかぁ。その友達も大変なんだろうねー」
こころはポケットから小さなティッシュを出した。盛大に音を立てながら自分の鼻を噛むと、こちらにもティッシュを差し出してくれた。一枚もらい、涼香も鼻を噛む。もう一枚もらって涙を拭いた。
「でも、お姉ちゃんの友達は嬉しいと思うよ。会ったことないからわかんないけど、お姉ちゃんがそんな風に思ってくれてるなら、嬉しいと思う」
「そうかな?」
「うん。だって、あたしが嬉しいから。ギュッてされたの、すっごい久しぶり。ありがと!」
えへへと照れくさそうに笑うから、涼香は彼女の赤い鼻をつまんだ。「んにゃっ」と猫のように呻く。
「子どものくせに生意気」
「えー? どういうことー? あたし、なんで怒られてんのー?」
小さくてもこころはこころだ。励ますつもりが励まされてしまったことに悔しくて、それを言えるわけがなく、涙でふやけた鼻をつまんでからかう。すると、こころが逃げるように涼香の手を叩き落とした。
「んもう! これ以上、鼻が高くなったらどうしてくれるのよ!」
「そんなに高くないよ」
「なにをー! 失礼な!」
どうやら本当に怒らせたらしく、こころはすくっと立ち上がった。
「あーあ、これで家出はできなくなっちゃった。お姉ちゃんのせいで興ざめだよ。帰って寝るー」
「はいはい。風邪ひかないようにあったかくして寝るんだよ」
「子ども扱いしないで!」
ビシッと指を突きつけられ、涼香は両手を小さく挙げた。顔はどうにも笑いを隠せず、それがこころのしかめっ面を緩ませた。
「……なんだかよくわかんないけど、ありがとね。なんか、あたし頑張れそう」
「それは良かった」
涼香も立ち上がる。こころはランドセルを担ぎ、建物の隙間へと足を踏み入れた。ちらりとこちらを振り返る。
「バイバイ」
「バイバイ。もう家出しないでね」
「わかってるー!」
明るい声が闇に消えていく。その後ろ姿をいつまでも見送った。
過去を変えるのは重罪だと痛いほど知った。それでも、こころが消えてしまう未来を塞ぐことはできたはずだ。
これからどうなるんだろう。
いくつもの可能性を考えては消していく。優也と別れる世界、明と付き合う世界、こころと出会わない世界、どん底を味わう世界、甘く優しい世界もなくはない。この選択が正しいのか間違いなのか、誰にもわからない。
「――でも、もうタイムリープはしない。させない」
眼前に続く暗いトンネルは未来を暗示しているようだった。ゆっくり足を踏み出すと、あっという間に音を崩れていまいそう。それくらい不安定な道を、強くしっかり踏みしめて歩く。歩いて、歩いて、歩いて、家路までの道を歩く。
冷たい風が髪をさらい、涼香は首をすくめて身震いした。帰り方なんてわからないが、とにかく前だけを見つめる。
ふと、空を見上げると星のまたたきが視界を埋めた。
黒く塗りたくったような背景に白い点描。まばたきをするたびに星が点滅する。吸い込まれそうな黒に手を伸ばすと、空が時計回りに旋回した。