体育館の方へ歩いていると、ふわふわの三つ編みが目の端を横切った。

「あ、こころ――」

 しかし、彼女はこちらに気づかず、体育館へ入っていく。中は軽音楽部の演奏が始まるようで、観客が多い。上級生の男子生徒たちに割り込まれ、涼香はこころの捜索を諦めた。

『どうもー! 軽音楽部期待の新星、BreeZeでーす!』

 爽やかに快活な麟の声が聞こえる。
 やがて、彼らのステージが始まった。玄関に近い体育館から漏れてくるのは、いくらかぼやけたギターサウンド。ひっきりなしにジャカジャカと掻き鳴らす音の中、麟の涼やかで優しい歌声が響く。流行りの邦楽バンドのコピーを演奏しているらしい。
 それを聞きながら、涼香は正面玄関の露店密集地帯へ足を運んだ。
 剣道部が主催するからあげの露店に、見覚えのある逆立(さかだ)った黒髪の男子が見える。そろそろと忍び寄り、彼の膝の裏目がけて思い切り膝カックンをお見舞いした。

「うわぁっ」

 間の抜けた驚きをし、すかさず優也が振り返る。

「大楠!」
「ぼさっとすんな、寺坂。私の電話、二回も無視してくれちゃって」

 責めるように言うと、彼は慌ててズボンのポケットからスマートフォンを出した。画面を見やり、痛そうに顔をしかめる。

「うっわ、ごめん! クラスのことでなんかあった?」
「ううん。そこに関してはまったく問題ないんだけど……」
「けど?」
「私が会いたかっただけ」

 どれだけ振り切れたとしても、口に出して言うのは照れが生じる。涼香は視線を落とし、優也のすねを軽く蹴った。

「そんな風に言われたら、勘違いしそうなんですけど」

 優也も照れたのか、ぎこちなく笑う。

「勘違いしたらいいじゃん」

 彼の笑顔が固まった。さっきよりももっと大げさに目を開かせる。空を眺め、遠くを見つめてしまい、彼の心がふわふわと浮いていく。そんな気がして、涼香は優也の腕を引っ張った。

「ちょっと、それくらいで浮かれないでよ」
「え? あー……えーっと? ごめん。待って、いま、なにも考えられない」

 とぎれとぎれに言う優也の頬に赤みが差す。すると、背後で剣道部の女子マネージャーがメガホンを持って叫んだ。

「そこー! いちゃいちゃしなーい! 買うか買わないかはっきりして!」
「うわぁっ! 買います! すいません!」

 赤い顔のままで露店へ走る優也。その後ろで、涼香は腹を抱えて笑った。


 体育館は熱狂的な渦を巻いた。壁越しでも、BreeZeの爆音は止まらない。曲がフェードアウトしていくと、二曲目の演奏準備をしているようで、麟のアナウンスが聞こえてくる。

『それじゃあ、初めてつくった曲を、いまから披露したいと思います! 聞いてください。Shooting(シューティング) Star(スター)!』

 柔らかな音色。静かにスロウなドラム。ベースが加わり、やがて麟の歌が重なる。

『人生最後の日に思うことはないか 言うべきことはないか 問うべきものはないか。そんなもの 見つからないって君は涙をポロリこぼしてる』

 歌詞はずっしりと重たく、力強い。そんな歌が風に運ばれてくる。しかし、サビに入るとテンポが変わった。

『どんなに心が壊れても もう立ち上がれなくなったとしても くもった目をこすって あの星をつかもう Shooting Star』

 きっと、あの三人は大丈夫だろう。背中を押すような応援歌を描いていけるなら、なんの心配もいらない。
 間奏のギターとドラムが速い。繰り返しの小節(しょうせつ)と、アップダウンの激しいメロディ。ジーンと全身に染み渡るベースが優しい。
 涼香は体育館へ行く道すがら、BreeZeの曲を口ずさんだ。優しく強いメロディが耳に心地いい。しかし、優也は歌を聞いていないようで、どうにも上の空だ。

「ねぇ」

 たまらず優也に話しかけた。しかし、彼は素っ気ない。こちらを見ようともしない。

「BreeZeのライブ、観に行かない?」
「いま、それどころじゃねぇよ」

 優也はどうにも無口で、話しかけなければ反応してくれなかった。
 ひとが多いと話ができないので、涼香も諦めて体育館裏へと向かう。すると、彼はようやく我にかえったようで「あれっ?」と辺りを見回した。
 冷たいコンクリートの塊が置いてある寂れた場所。隅にはボールかごが追いやられており、雨ざらしになったと思しき湿ったバスケットボールが転がっている。優也の秘密基地だ。

「ここ……」
「私のお気に入りスポットなんだー」
「嘘つけ。なんでお前がここ知ってんだよ」
「秘密」

 いたずらに言えば、彼はなにかに耐えるように顔をしかめた。しかし、口が緩む。慌てて真顔を装うも、頰を膨らませてうつむいた。情緒不安定だ。

「おーい、(もだ)えるなー。しっかりしろ、寺坂」
「いや、だって。今日のお前、めちゃくちゃかわいいから。なんだよ、それ。反則だろ」

 なんとなく複雑な気分になる。何度も時間を戻って、ようやくつかんだ恋の感覚と彼の取り扱い方法だから、ここまでしなければいけないという途方(とほう)もない虚しさを感じた。とは言え、彼の反応は素直に嬉しい。
 コンクリートの上に座り込んで、優也を見上げる。横に座るよううながすと、彼はまたも顔をしかめた。

「えーっと、大楠さん? 隣いいんですか?」
「いいですよ。て言うか、そんなに意識されるとこっちまで緊張する」

 イライラと言えば、彼は素直に座った。それでも絶対にこちらを見ない。

「寺坂」

 語気を強めると、優也は肩を上げて、ようやくこちらを見た。

「はい……」
「私、寺坂のことが好きなの……だから、私とつき合って」

 彼が意識するから、触れてもないのに緊張が伝染した。何度も繰り返したはずのシチュエーションなのに、初めての感覚に毎度のごとく(おぼ)れていく。

「返事、してよ」
「へっ? え、あ、あー……はい」

 なんとも言えない返事だ。優也はかすれた喉を整えようと咳払いした。しかし、うまくいかなかったようでむせた。ムードに欠ける。涼香はもう一度急かした。

「ねぇ」
「はい。えっと、はい。俺も好きです」

 優也は顔をうつむけて、声を強張らせた。早口で答えられ、やはりムードに欠ける。
 涼香は彼の顔をのぞいた。目が合わない。逃げるようにそらされ、追いかける。何度かの応酬で、優也は観念したように涼香の手を引っ張った。ぐいっと体が優也の胸に引き寄せられる。
 視界は白。少し陰る。

「見んな、バカ」
「照れてるの?」
「照れてるよ。悪りぃかよ」
「悪いね。かなり。しかも、超かっこ悪い」

 シャツの中で悪態をつくと、頭の上から低い音が唸った。

「うるせぇ、黙れ。俺から告白するタイミング奪いやがって」
「それはごめん」

 それでも、こころや優也よりも先回りする必要がある。運命を変えるには、それが最善のはずだ。

「大楠って、大胆(だいたん)なんだなー」
「そう、かな?」
「うん。でも、それが大楠っぽい、かも」

 汗くさい。でも、嫌なにおいじゃない。
 心臓の鼓動が速い。緊張している。多分、お互いに。
 そのとき、静かだった空間にカランと何かが転がる音がくぐもって響いた。

「寺坂」

 涼香は優也の胸を押して身をよじった。少し離れる。

「のど飴なめてるでしょ」

 聞けば彼は、いたずらがバレた子どものように唇を結んだ。そして、奥歯で飴を噛み砕く。証拠隠滅しようとしてももう遅い。

「なんでわかったの?」

 優也はこくんと喉を動かして聞いた。対し、涼香は上目遣いにささやく。

「秘密」
「はぁ……敵わねぇー」

 優也は頭を抱えてうずくまった。
 明からもらっただろう、薄荷味ののど飴は爽やかだ。その香りに気が滅入りそうになったが、すぐに振り払って過去にふたをした。
 これから先、どうなるかはわからない。でも、彼にとって最善の道なら、なにを犠牲にしてもいとわない。そんな感情が一気にあふれた。
 全身を駆け巡る熱いもの、それは血か愛か。どちらにしても、いまこの瞬間だけは幸福のままで留めておこう。
 二人でいると、永遠を感じた。いまこの瞬間が清々(すがすが)しく、澄み渡っているように思えた。風は優しくて、少し肌寒いくらいがちょうどいい。ふわふわと甘くて、それでいて繊細で、夢見心地でいられる。どんな困難も乗り越えられる、なんて恋愛ソングのフレーズみたいにくすぐったいものが、次から次へと胸の内にあふれてくる。

「……あー、もうそろそろ交代の時間だ」

 優也は心底残念そうに言った。

「え、もう?」
「うん。本音言えば、このままサボってしまいたいけど、そういうわけにもいかねぇし」
「実行委員だもんね……しょうがない」

 散々わがままを通してきたから、潔く引こう。そんな涼香のひたいを、優也が指で軽くはじいた。

「またあとでな」
「うん」

 少し、心臓が窮屈になった。離れてしまうのが寂しくて仕方ない。こんなに優也のことが好きになっていたなんて、思っていなかった。同時に、彼を絶対に失いたくないと強く思った。
 そんな涼香の胸中を悟ることはなく、優也は思い出したように言った。

「あ、そうだ。右輪に言っといてほしいんだけどさ。あいつ、俺とお前の仲を取り持とうとしてたんだよ。でも、それももう必要ないから。ごめんって言っといてくれない?」

 その言葉で、わずかに熱が引いていく。この空間にこころが混ざるのが、少し嫌だった。そんな気持ちを抱くのも嫌だ。

「あー……そうなんだ」

 口は白々しく嘘をついた。優也に悟られないよう、細心の注意を払って笑う。

「こころったら、本当お節介なんだから」
「つーか、両思いなら、こんな回りくどいことしなくてもよかったんだよ。一番仲がいいのに、そこんとこの情報共有はしてねぇんだな。普通、好きなひとのことなら一番近くにいる友達に言うもんじゃねぇの?」

 優也の疑問はもっともだろう。
 たしかに、こころから「好きなひといるの?」とは、これまで一度も聞かれたことがない。優也がこちらに片思いしている前提で、あれこれと画策していたのだ。しかし、どうして彼女は、一番近くにいる親友ではなく優也に協力するという手段を選んだのだろう。

「じゃあ、よろしくな」

 優也が機嫌よく片手を挙げて離れていく。彼の後ろ姿を見送りながら、涼香は一人、寂れた体育館裏で考えた。
 ここまで、順調にことが進んでいる。明のこと、羽村のこと、郁音のこと、優也のこと。すべてがうまくいっている。残るは、こころだ。

「そう言えば、どうして私はこころと一緒にいられないんだろ」

 思えば、幾度(いくど)となく同じ時間を過ごしているのに、この文化祭中でこころと行動していることがない。気がつけば、彼女は目の前からいなくなる。しかし、そこはかとなく彼女の足跡はある。
 こころは常に先回りしていた。それは優也に協力するため。しかし、両思いであることを知っていれば彼女は優也に回りくどい真似をさせる必要がない。恋愛事情をほのめかしたことはなく、またこころも興味がないように振舞っていた。最初は。最初のうちはそうだった。だから、こころが知る由もない。
 それでも、何かがおかしい。
 優也に協力するのなら、こちらにもそれとなく匂わせるべきだ。気づけなかっただけだろうか。それとも、気づかせないようにしているのか。少なくとも、最初のルートでは気づかなかった。
 いくら彼女が涼香を助けることを生きがいにしているとはいえ、どうにもやり方が不自然だ。

「んー……?」

 考え始めると、ますます気になってしまう。
 逆はどうだろうか。もしも、気づかせないように仕向けられていたとしたら。こころはなんでも先回りしていたから。いつでも涼香よりも先回りして、なんとか危機回避しようとしているみたいだ。最悪の結末を知っているかのように。これではまるで、こころもタイムリープしているような――

「……いや、いやいや。ありえないって」

 その考えは飛躍(ひやく)している。
 涼香は空を仰いだ。青く透き通った空をぼんやり眺める。
 その時、視界が青から黒へと一変した。

「え?」

 目をこする。空は変わらずそこにある。不審に思っていると、今度はチカチカと光が点滅した。また景色が暗転する。電気をつけたり消したりするように、不安定に切り替わる。

「え? なに?」

 立ち上がろうと床に手をつくも、途端に目の前が暗がった。瞬間、脳内に亀裂が入るような痛みが走る。

「……っ!」

 電熱を浴びたように心臓が跳ね上がった。全速力で走ったあとの速い鼓動。呼吸が乱れた。脈打つ痛みが心臓から脳へぐるぐると巡る。次第に、ギュルギュルとフィルムを巻くような音が聞こえてきた。回転する音がやがて、甲高く衝突する。
 瞬間、いくつもの記憶が重なり、ゆがみが生じた。車酔いしたように三半規管が狂っていく。

 ――怖い。怖い。怖い怖い怖い。

 糸で引っ張られているかのように頭が痛む。声が出ない。助けを呼ぼうと手を伸ばしても、ここは誰も通らない体育館裏。祭ばやしが遠い。
 いつの間にか床に伏していた。視界は相変わらず、有彩(ゆうさい)無彩(むさい)を繰り返している。きっと、バチが当たったんだろう。何度もタイムリープをして、過去を書き換えてきたから――いや、今回は違う。
 さかさ時計のおまじないは使ってないのに、なぜか、いつの間にかタイムリープに巻き込まれている(・・・・・・・・)

「……涼香?」

 誰かが近づく。足音がバタバタと駆け寄り、肩に手が触れた。

「涼香!? 涼香っ!」

 ――こころ?

 返事をしようとするも、声にならなかった。

「涼香、ねぇ、大丈夫!? 聞こえる?」

 頭痛で目が開けられない。それでも、彼女が近くにいることを感じた。震えがわずかに引いたような気がする。それでも、いままでに感じたことのない息苦しさが怖い。

「やだ、どうしよう……こんなことになるなんて……」

 こころも気が動転(どうてん)しており、声が裏返っている。涼香を覆うように背中へ腕を回す。しがみつくと、いくらか落ち着きを取り戻せる。かじかんだ指先に熱が戻ってきた。

 しかし、こころは動揺しきっており、背中をさすりながら口走った。

「なんで、どうして……まさか、また(・・)時空が狂ったのかな……?」

 その言葉の違和感に、ひらめきを得たように脳内が冴え渡った。
 彼女の袖を力強く握る。やっと出た声に疑心を込める。

「また?」

 問うと、こころは涼香を凝視した。もたれかかった涼香を突き放す。その仕草に驚き、涼香は顔をしかめたまま聞いた。

「今なんて言った? あんた、なんか知ってるの?」

 思い当たった嫌な想像。否定してくれることを強く願った。「なんでもないよ」とおどけた苦笑を返して欲しい。失笑でもいい。その期待は見事に打ち砕かれた。
 恐ろしいものでも見るように、こころは両眼を開いて涼香を凝視したままで、時が止まる。
 こころの沈黙に、涼香は喪失感を抱いた。いくらか落ち着きを取り戻しても、混乱はいまだ拭えない。それどころか、何かがふつふつと煮立つようで、しかしこの感情の正体がわからなかった。気分の寒暖差が激しい。上昇しては下降する、ジェットコースターのような。
 とにかく、早く答えが欲しい。

「――さかさ時計のおまじない」

 やがて、こころは静かに言った。感情がどこにも無い、色のない顔で。

「どうして、涼香も一緒に戻ってしまったんだろうね」

 恐れと絶望が入り混じっている彼女の目は、いつか見た暗く淀んだものが渦巻いていた。