スマートフォンのアラームで目が覚めた。ベッドから飛び起きると、もう文化祭の朝がきている。
 涼香はアラームを止めようと、画面を触った。明からの連絡はまだない。このまま中途半端に終わらせたくはないのに、彼が応じてくれなきゃ次に進めない。
 こうなったら、彼のクラスで待ち伏せしようか。いや、そんなことをしたら優也がいい顔をしないかもしれない。余計にこじれたら困る。でも、悩むよりも先に動きたい。

「よし」

 制服をひっつかみ、秒で着替えた。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、食卓に座るエプロン姿の母と目が合った。

「おはよー。今日はなんだか張り切ってるのねー。文化祭だから?」
「違うよ。そんなんじゃない。文化祭よりも大事なことがあるの」

 冷たく突っぱねると、母は肩をすくめて笑った。マグカップのコーヒーを音を立てて飲む。すると、インターホンのチャイムが鳴った。

「あ、こころちゃん、来たんじゃない?」
「え?」

 振り返ってモニターを見ると、ふわふわの三つ編みがカメラをのぞきこんでいた。
 待ち合わせなんてしてないはずだ。怪訝に思い、涼香はテーブルの朝食を無視して玄関に飛んだ。扉を開ける。

「おはよ! 涼香!」

 晴れやかな笑顔が近い。昨日の憂さを思わせない彼女の登場に、涼香は両目をしばたたかせた。

「おー……おはよー」
「今日は高校〝初めて〟の文化祭だね! 気合いれて楽しもう!」

 朝日を背に屈託ない笑顔を見せる顔が眩しくて、怖い。
 決められたセリフを話す彼女を前にして、全身が強張った。

 ***

 なんの冗談だろう、これは。この世界は、いったいなんなんだろう。
 どうして、過去に戻っているんだろう。タイムリープはしないと誓ったはずだ。おまじないも使ってない。
 今日は明と話して、友情に蹴りをつける。そして、優也と不安定な未来を描きながら、こころと一緒におもしろおかしく過ごすはずだった。それで納得しようと思った矢先に、また振り出しに戻るなんて。
 放心したまま、こころに急かされて通学路を歩く。商店街の朝はのんびりとしていて、あちこちに青浪高校文化祭のポスターが貼ってあった。パンフレットと同じ女子高生が笑顔を向け、大きな明朝体が「第四十三回 青浪高校文化祭」と主張している。それを見ると、やはり過去に戻って居ることを実感してしまい、足がすくんだ。

「んもう、涼香! どうしたの? 調子悪い? 今日は文化祭だっていうのに、そんな顔してー」

 無邪気なこころに、笑顔を返す元気はない。眉をひそめたままでいると、こころは今度は心配そうに顔をのぞきこんだ。

「涼香、だいじょうぶー?」
「ううん。ちょっと……」
「具合悪いの? 朝ごはんは食べた? 実行委員が元気ないと困るよー」
「ごめん」

 混乱のせいで会話がままならない。浮かれるこころには悪いが、この状況を脳が拒否している。それでも道は続いている。

 ——考えろ。

 鈍く固まった思考を無理やり回した。

 ——考えろ。この状況をどうするか、考えて答えを見つけなきゃ。

 こうなっては、間違った世界を選ぶわけにいかない。もう間違えてはいけない。全員の気持ちが見えている以上は、このループの始まりを正す必要がある。
 過去が「逃げるな」と責めるなら、もう一度チャンスをくれるなら、今度こそ誰もつらい思いをしない世界へ導きたい。その責任がある。

「こころ、私のほっぺた叩いて」

 すっかり黙ったこころに、涼香は唐突に頬を差し出した。しかし、こころは乗り気じゃない。

「えぇー? なんでまたそんなこと」
「いいから! 気合いを入れる感じで、一発お願い」

 強い口調で言うと、こころは困惑気味に笑いながら手を振りかざした。パーン!と、勢いよく水平に手のひらが頬をはじく。

「……いっ、たぁぁーっ!」

 ビンタをくらった頬をさすり、思わずその場でうずくまった。飛び出た涙をぬぐい、深呼吸する。

「涼香ー、本当に大丈夫? 昨日、頭でも打った?」

 半ば恐れが混じった声音でこころが聞いてくる。涼香は痛みにうめきながらも、ようやく腹をくくった。

「オーケー、大丈夫。ちょっとこれから起きる未来に不安を感じてただけなの。でも、こころのおかげで目が覚めたわ」

 こうなったら一からやり直そう。誰も傷つかない世界を手にいれる。最後の悪あがきだ。

「ほら、こころ。行くよ。開会式に遅れちゃう」

 呆気にとられるこころの手を引っ張り、涼香は商店街の道を早足で歩いた。


 桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十二回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。
 目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
 校門をジャンプするようにまたいでアーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
 どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、なに一つ差異がない。
 こころを見やれば、彼女はキラキラと目を輝かせている。好奇心旺盛なプードルみたい。どこまでも変わらない景色は結局飽きがこないもので、祭りの空気に飲まれていきそうだ。
 しかし、呆けていては結局同じことの繰り返し。せっかく戻れたのなら、このピンチをチャンスに変えなくてはいけない。そのためには、なるべくこころに干渉(かんしょう)せず、明と郁音を助け、羽村と和解し、優也の告白を早めないといけない。

 ——やることが多い……

 気が遠くなりそうだが、こころに気合いを入れてもらった頰はまだ熱を持っていた。
 怖気付いたって、世界は待ってくれない。グズグズしていられない。

「あぁー!」

 昇降口に入る寸前で、涼香は芝居がかった素っ頓狂な声をあげた。

「え? なになに? どうしたの?」

 肩を上げて大げさに驚くこころ。危うくローファーを落としかける。

「私、一組に用事があるんだった。なんか、アイスがいっぱい届いちゃったんだって。それで、生徒会からお願いされてたの。忘れてた」

 早口に勢いよく言うと、こころは首をかしげた。疑う素ぶりもなく、目をぱっちり開いて「ありゃー」と残念がる。

「んじゃ、先に行ってるね」
「はいはーい」

 上履きを履いて、教室まで行く。こころは二組へ元気に入っていき、その後ろ姿を見送る。

「おはよー!」
「おはよー、右輪。あれ? 大楠は?」

 優也の声が耳を通り過ぎる。

「あー、なんかね、一組に用事があるんだってー」

 二人の軽い会話を聞きながら、一組の教室へ素早く向かう。まずは明の様子を見に行こう。
 そっとのぞくと、一組は明を中心にお通夜(つや)状態と化していた。どうやらこの世界は最初とほぼ同じ時間軸をたどっているらしい。それなら都合がいい。
 後ろめたいあの出来事を思い返すと、どこかからか勇気が湧いてきた。

「なにかあったの?」

 白々しく声をかけてみると、明が顔を上げた。目が合う。彼は顔色が悪く、目の前に高く積み上げられたクーラーボックスを忌々(いまいま)しそうに見やった。
 誰もなにも言わないので、一組の実行委員である女子生徒がこちらに駆け寄ってきた。

「見てのとおり、最悪な状況だよ」
「やばそうだね」
「まぁね。うちの発注係……杉野がミスっちゃって。おかげでアイスが五〇〇個。さすがに売り切れる気力もないから、この状態よ」
「あらまー、大変だねぇ」

 他人事のように失笑してみると、蒼白(そうはく)な明がじっとこちらを見つめた。そんな彼に、涼香は気丈に声をかける。

「あんた、寺坂の友達だっけ?」
「え? あー……うん。そうだけど」

 深刻な声で力なく笑いかけてくる。クラスの非難を受ければ、そんな顔にもなるだろう。涼香は呆れの息を投げつけた。

「そのアイス、うちのパンケーキに使ってもいい?」
「へ?」

 明だけでなく、一組の生徒たちの顔色がわずかに明るくなった。ざわつく教室を見回し、息を吸い込む。

 ——怯むな。助けるって決めたでしょ。

「寺坂と話し合って、いくつかうちで引き取るからさー、そんな暗い顔しないでよ。せっかくのお祭りなんだから」

 凍っていた教室が熱を帯びる。明は両目をしばたたかせ、そして、ゆるゆると力を抜いた。廊下にいる涼香の元へ駆け寄ってくる。

「ありがとう! マジで助かる! ほんと、ありがとう!」

 勢いよく飛び込んでくるので、後ずさって回避した。それでも明は涼香の手をつかもうと手を伸ばす。嬉しさで周りが見えていないようだ。
 しかし、彼の目に留まった時点で、この状況は想定内だ。

「まだ決定じゃないからね。それに、頑張るのは一組だから!」
「わかってる! でも、この危機を救ってくれることには変わりないだろ。女神様じゃん。名前教えて」

 さらりと懐に潜りこもうとしてくるのは、彼の性格なんだろう。そんな彼に恋心を抱かせたのは、まさしくこの瞬間だと感じる。
 ここで名乗るべきか。いや、どうせあとでバレることだ。

「大楠です。大楠涼香」
「大楠さん! 了解、覚えた。さっそく優也に相談してみる。こっちから改めてお願いするよ」
「そうだね。それがいいかも」
「よし! そうと決まればいますぐ二組に行こう!」

 意気揚々と廊下へ飛び出す明。教室は安堵であふれている。それを尻目に涼香は、明のカーディガンを引っ張った。

「待って、杉野。アイスの件と引き換えに、ちょっとお願いがあるんだけど」
「え? なに? なんでも言ってよ。いつでも下僕(げぼく)になるから」
「下僕にはならなくていいし、むしろやめてほしいんだけど」

 ペースを乱されそうになるも、どうにかこちらに引き込んでいく。いま思えば、彼の顔は緩んでいて隙だらけだ。まったく、こんなにわかりやすい男だったとは。
 涼香は笑顔を保とうと、頰の筋肉を持ち上げた。

「あのね。寺坂のことについて、協力してほしいの」

 どのみち、アイスクリーム事件が今日ならば、遅かれ早かれ、彼を助けるというルートが決まっている。それを逆手(さかて)にとって、彼には恩を与える。そうすることで明が優也を裏切るルートが消える。それが狙いだ。
 明は不思議そうに首をかしげた。

「優也に? うん、まぁ、それは全然いいんだけど。って言うか、僕たち親友ですし」
「その友情をどうかそのままにして。あいつが部活で困ったとき、一番に助けてくれるのは杉野だと思うから。お願い」

 言ってみたら、とんでもなく変な頼みごとだと思った。案の定、明は眉をひそめてしまっている。

「うーん。よくわかんないけど、いいよ。って言うか、僕たち親友ですし」

 同じことを二回も言わなくていいのに。やけに強調するものだから、彼らの友情もしっかり固いのがよく伝わる。涼香は思わず吹き出した。

「仲いいんだね」
「んー、まぁ、悪くはないよね。あいつ、練習に付き合ってくれるし。そこそこ顔も広いし、頼りになるし。あっ、知ってる? 軽音部の若部ってやつが先輩に絡まれたとき、速攻で間に入ったんだよ。いやー、あれはかっこよかったね。僕は絶対にできない」

 自慢げに語る明の勢いは止まらない。そんな話は聞いたこともなかったが、どこかで雫が「世話になった」と語っていたような。

「そっか。寺坂って、優しいんだね」

 好きなひとのかっこいい一面を知り、顔がにやけてしまった。なんだかこちらまで嬉しくなるから不思議だ。
 そんな涼香をのぞきこみ、明は合点したように手をポンと打った。

「大楠さんって、優也のことが好きだったりする?」

 その質問は予想外だった。明の顔は好奇心に満ちている。まだ自覚がないんだろう。この目を、彼の目を二度とくもらせたくない。
 用意周到に彼の思いを摘み取ることを選び、涼香はゆっくりと頷いた。

「うん。そうだよ……だから、お願いね」
「そっかー。優也のやつ、愛されてるなぁ。うらやましいな、ちくしょー」
「あいつにはまだ内緒にしといてね。今日、告白する予定だから」
「オーケー、オーケー。大楠さんの頼みならなんなりと。任せてよ。うまくいくように取り持とうか?」
「そこまでは頼んでないし、頼まない。寺坂が誤解したらどうしてくれんのよ」
「あー……それもそっかぁ」

 喉の奥を引きつらせて笑う彼の枯れた声。それを聞くと、どうにも心臓を引っ掻くようで、たちまち寂しくなった。

「でも、大楠さんが優也のこと思ってくれるのは素直に嬉しいかな。それに、どうやら似たもの同士みたいだし。お似合いだよ」
「そうかな……」
「そうだよ。他人を助けるなんて、そうそうできることじゃないよ」

 明の言葉のひとつひとつが、胸に沁みる。
 これから先も彼の願いを聞くことはできないから。それならせめて、最初から希望を持たせないようにする。それが最善だ。彼が早めに諦めて、こちらに傾かないように。

 ——ごめんね、明。

 その言葉は、絶対に言えない。まだ無自覚な明の笑顔を見つめると、いたたまれなくなった。後ろ手を組んで、彼の横をすり抜ける。

「じゃあ、契約成立ってことで。一組を助けてあげる」
「よろしくお願いします」

 二組までの道のりは短い。そのわずかな時間を惜しむ間もなく、涼香は教室へと駆けた。