なかなか希有な場面に出くわしたものだ。しかもタイミング的にかなりタイムリーである。
何しろさきほどの少女は、おそらく本日この学校にやってきた編入生、千種一華さんその人なのだろうから。
あの天才美少女ギタリスト唯花に似ていると噂だから、まあ、ほぼほぼ間違いないだろう。よもやあれほど似ている容姿の人間は他にいまい。世の中にはとても似た人間が三人いるという噂があるが、あんなものは真っ赤な嘘だ。あれほどそっくりとなると、他人かどうかもいよいよ怪しい。もしかしたら、本当に本当に、唯花本人なのかもしれない。
一度件の編入生を目にしてしまった俺は、いつの間にかそんなことを思うようになっていた。孝文に聞いたばかりのときはほとんど疑ってかかっていたが、あれはなかなか、呆れ顔で頭ごなしの否定も言えなくなる。
しかも俺が準備室で目撃したとき、彼女はいったい何をしていた? アコースティックギターに手を触れようとしてはいなかっただろうか?
あの容姿で肩からギターを提げようものなら……ああ、もしや……これはいよいよ、ひょっとすると、いよいよである。
できることなら声も聞いてみたかったと思うけれど……しかし相手には脱兎のごとき勢いで逃げられたので、今更無理な相談だ。
きっと彼女が逃げたのは、今日一日中、他人からの奇異の視線に晒されてうんざりしていたからだろう。準備室でやっとこさ一人だと思っていたら、そこに突然俺が現れたので、話しかけられる前に逃げたのだ。
その辺りは、今日という編入初日に、彼女がどんな空気の中にいたかを考えれば想像に難くない。あの編入生、もとい千種さんは、今や学校中の注目の的。一年生だけでなく二年生や三年生までその姿を一目見ようと彼女の教室を訪れているらしいのだから、そりゃあもういい加減、放課後くらい一人になりたくもなるだろう。
俺はあれからしばらくボーっとしていたが、ぽつりと残された準備室に長々と居座る用もなく、さっさと立ち去ろうとした。しかしその際、開けっ放しの扉と、それから彼女が飛び出していった拍子に崩れたらしい楽譜の山を見て見ぬ振りすることも憚られ、元通りに整理するという過程を経て今に至る。準備室を出る頃には太陽もすっかり地平線に沈んでしまって、空の雲は残光だけを弱くぼんやりと跳ね返していた。グラウンドで行われている部活動は、軒並み整理運動に入っている。
そうしてようやく帰路に就こうと、とっくにもぬけの殻と化した教室に寄り、荷物を持って昇降口へ向かう道すがら、そもそも何で彼女が準備室にいたのだろうかという疑問を抱いたのは、当然の流れのように思えた。
彼女があの部屋にいた理由、それはいったい何だろう。放課後にもたもた教室にいてはまた見せ物のようになると考え、とりあえず人に会わなくてすみそうなところを探した、なんてところだろうか。でも、それならわざわざ学校には残らず、すぐに下校すればいい。放課後に部活や委員会なんかがなければ、普通の生徒は帰るものだ。まさか編入生に、俺のような放浪癖があるわけでもないだろうに。
とすればやはり、ギターが目当てか? あるいはオーケストラ部に用があったとか。いや、それなら練習が行われている体育館に向かうはずか。
うーん……まあ、今ここで俺が考えたって、すぐにわかるわけがないか。
そういえば結局、鳴海に会うこともできなかったし、なんだかなぁ。どうにも腑に落ちない気分になる。
そんなことを思いながら、昇降口に繋がる職員室前の廊下を通り過ぎようとしていたときだった。
「いい加減にしてください!」
室内から突然、わずかに感情的な、張りのある声が耳に届いた。
俺は思わず足を止め、磨り硝子の窓が隔てる向こう側に目を向ける。いくつか物音や話し声がしていた職員室は、途端に静まり返っていた。
「……その話は、もう何度もお断りしたではありませんか。せっかくのお誘いを、申し訳ないとは思いますが……私はオーケストラ部に入るつもりはありません」
しばらくすると、荒げた声をおずおずと引っ込めるような、丁寧な断りの文句が聞こえてくる。その声音には、何だか聞き覚えがあるように思われた。
対しては、凛々しく大人びた雰囲気の、女性の声が返される。
「……ごめんなさい。しつこく思ったのなら謝るわ。でも、あなたのヴァイオリンには技術があるし、それに……顧問の私が言うのも変かもしれないけれど、うちのオーケストラ部は活気があって、あなたが高校三年間を過ごす環境としても最適だと思うの。だからせめて、是非一度仮入部に」
「ヴァイオリンは、もう随分前にやめました。先生は、私を買い被り過ぎだと思います」
「そんなことないわ。だってあなたは……」
「先生。私はオーケストラ部には入りません。仮入部も、遠慮させてください」
「…………」
室内の声は途切れて、また静かになる。余りに静かで、今俺が歩き出したら、その足音が中まで聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだった。窓越しの緊張した空気が伝わってきて、俺は一歩も動くことができない。
「お騒がせしてすみません。失礼しました」
やがてそんな言葉が聞こえ、傍にある扉がゆっくりと開かれた。必然的に俺は、中から出てきたその人物と目が合うことになる。既に何となく予想はついていたが、現れたのは鳴海だった。
「あ……」
ほとんど吐息そのもののような反応だ。いつも彼女が見せる笑顔はそこにはなく、消沈の雰囲気が漂っている。
「よ、よう」
空気が気まずくなるのを避けようと、俺はあえて何でもなさそうに声をかけた。まるで、あたかも今し方、たまたまここを通りかかったような感じで気軽な挨拶を……いや、さすがにそれは無理だとしても、とにかく自分は何も聞いていない。そんな体を装いたかった。
盗み聞きというのは、一般的には故意でなくともそれに該当するのだろうか。決してそんなつもりはなかったし、実際にはほとんど最後の方しか聞いていないから、できればセーフ判定をもらいたいところだ。誰に対してというわけでもなく、俺は心の中でそんな言い訳を訴えた。
「……大江君。帰るの、随分遅いのね。もう、外も暗くなるのに」
鳴海は踵を返し、俺に背を向けながらそう言った。表情は長い髪に隠れて見えなくなる。
「ああ、まあな。鳴海は……」
「私は、ちょっと……」
ちょっと、か。
気になるかどうかで言えば、当然、気になる。とはいえ、ここで下手に尋ねてしまっては、わかりやすい露骨な墓穴を掘るだけだ。迂闊な質問をしてはいけない。
俺がそうやって発言をためらっていると、彼女は早々とまた口を開いた。
「あ、そうだ……私、まだ教室に荷物置きっぱなしなの。もうすぐ最終下校時刻だから、大江君も急いで帰った方がいいわね。門、閉められちゃうから」
そしてそのまま、彼女はこちらを振り向くことなく「じゃあね」と残して走り去る。別れ際に振られた白い手を何となく目で追っていると、すぐにその姿は廊下の曲がり角に消えてしまった。
「…………」
俺は一人、わずかに音を取り戻した職員室前の廊下で立ち尽くす。生徒の下校を促すチャイムが校舎に響く中、胸にはよりいっそう、鳴海のことを気にする感情が巡っていた。
彼女は音楽準備室で寂しそうにギターを弾いていた。彼女はオーケストラ部に誘われている。彼女はヴァイオリンが上手だが、もうやめてしまったらしい。他にも色々、彼女に関することがいくつか、頭に浮かんでは消えていく。
ただ、このとき俺が一番に気になったのは、もっと単純なことだった。それがチャイムの鳴り終わる余韻に混じって、無意識に口から零れ落ちる。
「…………教室、そっちじゃないんだけどな……」
鳴海の向かった先は、俺たちの教室とは正反対だ。教室に向かうのなら、俺とすれ違って、俺の来た道を逆に辿る必要がある。だって俺は、今まさにそこから歩いて来たのだし、他のルートではかなり遠回りだ。
それに、さきほど俺が立ち寄った際、教室にはもう誰もおらず、誰の荷物も残っていなかった。だから、鳴海がそこに荷物を取りに戻るというのは、いささかおかしな発言でもある。
となると、さっきの鳴海は少し様子がおかしかったし、やはり俺と顔を合わせたのが気まずかったのかもしれない。
でもそれにしたって、あんな見え透いたその場しのぎの嘘を残して立ち去るなんて、あまり彼女らしくない。少なくとも、俺がこれまでに抱いた彼女の印象と比べると、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
完璧に見えたはずの彼女の中に、ぽつりぽつりと、見え隠れする小さな違和感。
そう、それは違和感だ。今の俺では、その気持ちを別の言葉で表すことも、もっと詳しく表すことも、できはしない。ただ何となく、鳴海の様子が明らかにいつもと違っていたことだけが、如実に胸に引っかかった。
外の景色は朱色から藍色に移り変わっていて、その変化はきっと、好奇心や猜疑心、興味や不安が入り交じるほどに色を変えていく俺の感情と似ている気がした。太陽が消えて温度の下がった外界から入り込む風が、ひやりと俺の心を撫でた。
何しろさきほどの少女は、おそらく本日この学校にやってきた編入生、千種一華さんその人なのだろうから。
あの天才美少女ギタリスト唯花に似ていると噂だから、まあ、ほぼほぼ間違いないだろう。よもやあれほど似ている容姿の人間は他にいまい。世の中にはとても似た人間が三人いるという噂があるが、あんなものは真っ赤な嘘だ。あれほどそっくりとなると、他人かどうかもいよいよ怪しい。もしかしたら、本当に本当に、唯花本人なのかもしれない。
一度件の編入生を目にしてしまった俺は、いつの間にかそんなことを思うようになっていた。孝文に聞いたばかりのときはほとんど疑ってかかっていたが、あれはなかなか、呆れ顔で頭ごなしの否定も言えなくなる。
しかも俺が準備室で目撃したとき、彼女はいったい何をしていた? アコースティックギターに手を触れようとしてはいなかっただろうか?
あの容姿で肩からギターを提げようものなら……ああ、もしや……これはいよいよ、ひょっとすると、いよいよである。
できることなら声も聞いてみたかったと思うけれど……しかし相手には脱兎のごとき勢いで逃げられたので、今更無理な相談だ。
きっと彼女が逃げたのは、今日一日中、他人からの奇異の視線に晒されてうんざりしていたからだろう。準備室でやっとこさ一人だと思っていたら、そこに突然俺が現れたので、話しかけられる前に逃げたのだ。
その辺りは、今日という編入初日に、彼女がどんな空気の中にいたかを考えれば想像に難くない。あの編入生、もとい千種さんは、今や学校中の注目の的。一年生だけでなく二年生や三年生までその姿を一目見ようと彼女の教室を訪れているらしいのだから、そりゃあもういい加減、放課後くらい一人になりたくもなるだろう。
俺はあれからしばらくボーっとしていたが、ぽつりと残された準備室に長々と居座る用もなく、さっさと立ち去ろうとした。しかしその際、開けっ放しの扉と、それから彼女が飛び出していった拍子に崩れたらしい楽譜の山を見て見ぬ振りすることも憚られ、元通りに整理するという過程を経て今に至る。準備室を出る頃には太陽もすっかり地平線に沈んでしまって、空の雲は残光だけを弱くぼんやりと跳ね返していた。グラウンドで行われている部活動は、軒並み整理運動に入っている。
そうしてようやく帰路に就こうと、とっくにもぬけの殻と化した教室に寄り、荷物を持って昇降口へ向かう道すがら、そもそも何で彼女が準備室にいたのだろうかという疑問を抱いたのは、当然の流れのように思えた。
彼女があの部屋にいた理由、それはいったい何だろう。放課後にもたもた教室にいてはまた見せ物のようになると考え、とりあえず人に会わなくてすみそうなところを探した、なんてところだろうか。でも、それならわざわざ学校には残らず、すぐに下校すればいい。放課後に部活や委員会なんかがなければ、普通の生徒は帰るものだ。まさか編入生に、俺のような放浪癖があるわけでもないだろうに。
とすればやはり、ギターが目当てか? あるいはオーケストラ部に用があったとか。いや、それなら練習が行われている体育館に向かうはずか。
うーん……まあ、今ここで俺が考えたって、すぐにわかるわけがないか。
そういえば結局、鳴海に会うこともできなかったし、なんだかなぁ。どうにも腑に落ちない気分になる。
そんなことを思いながら、昇降口に繋がる職員室前の廊下を通り過ぎようとしていたときだった。
「いい加減にしてください!」
室内から突然、わずかに感情的な、張りのある声が耳に届いた。
俺は思わず足を止め、磨り硝子の窓が隔てる向こう側に目を向ける。いくつか物音や話し声がしていた職員室は、途端に静まり返っていた。
「……その話は、もう何度もお断りしたではありませんか。せっかくのお誘いを、申し訳ないとは思いますが……私はオーケストラ部に入るつもりはありません」
しばらくすると、荒げた声をおずおずと引っ込めるような、丁寧な断りの文句が聞こえてくる。その声音には、何だか聞き覚えがあるように思われた。
対しては、凛々しく大人びた雰囲気の、女性の声が返される。
「……ごめんなさい。しつこく思ったのなら謝るわ。でも、あなたのヴァイオリンには技術があるし、それに……顧問の私が言うのも変かもしれないけれど、うちのオーケストラ部は活気があって、あなたが高校三年間を過ごす環境としても最適だと思うの。だからせめて、是非一度仮入部に」
「ヴァイオリンは、もう随分前にやめました。先生は、私を買い被り過ぎだと思います」
「そんなことないわ。だってあなたは……」
「先生。私はオーケストラ部には入りません。仮入部も、遠慮させてください」
「…………」
室内の声は途切れて、また静かになる。余りに静かで、今俺が歩き出したら、その足音が中まで聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだった。窓越しの緊張した空気が伝わってきて、俺は一歩も動くことができない。
「お騒がせしてすみません。失礼しました」
やがてそんな言葉が聞こえ、傍にある扉がゆっくりと開かれた。必然的に俺は、中から出てきたその人物と目が合うことになる。既に何となく予想はついていたが、現れたのは鳴海だった。
「あ……」
ほとんど吐息そのもののような反応だ。いつも彼女が見せる笑顔はそこにはなく、消沈の雰囲気が漂っている。
「よ、よう」
空気が気まずくなるのを避けようと、俺はあえて何でもなさそうに声をかけた。まるで、あたかも今し方、たまたまここを通りかかったような感じで気軽な挨拶を……いや、さすがにそれは無理だとしても、とにかく自分は何も聞いていない。そんな体を装いたかった。
盗み聞きというのは、一般的には故意でなくともそれに該当するのだろうか。決してそんなつもりはなかったし、実際にはほとんど最後の方しか聞いていないから、できればセーフ判定をもらいたいところだ。誰に対してというわけでもなく、俺は心の中でそんな言い訳を訴えた。
「……大江君。帰るの、随分遅いのね。もう、外も暗くなるのに」
鳴海は踵を返し、俺に背を向けながらそう言った。表情は長い髪に隠れて見えなくなる。
「ああ、まあな。鳴海は……」
「私は、ちょっと……」
ちょっと、か。
気になるかどうかで言えば、当然、気になる。とはいえ、ここで下手に尋ねてしまっては、わかりやすい露骨な墓穴を掘るだけだ。迂闊な質問をしてはいけない。
俺がそうやって発言をためらっていると、彼女は早々とまた口を開いた。
「あ、そうだ……私、まだ教室に荷物置きっぱなしなの。もうすぐ最終下校時刻だから、大江君も急いで帰った方がいいわね。門、閉められちゃうから」
そしてそのまま、彼女はこちらを振り向くことなく「じゃあね」と残して走り去る。別れ際に振られた白い手を何となく目で追っていると、すぐにその姿は廊下の曲がり角に消えてしまった。
「…………」
俺は一人、わずかに音を取り戻した職員室前の廊下で立ち尽くす。生徒の下校を促すチャイムが校舎に響く中、胸にはよりいっそう、鳴海のことを気にする感情が巡っていた。
彼女は音楽準備室で寂しそうにギターを弾いていた。彼女はオーケストラ部に誘われている。彼女はヴァイオリンが上手だが、もうやめてしまったらしい。他にも色々、彼女に関することがいくつか、頭に浮かんでは消えていく。
ただ、このとき俺が一番に気になったのは、もっと単純なことだった。それがチャイムの鳴り終わる余韻に混じって、無意識に口から零れ落ちる。
「…………教室、そっちじゃないんだけどな……」
鳴海の向かった先は、俺たちの教室とは正反対だ。教室に向かうのなら、俺とすれ違って、俺の来た道を逆に辿る必要がある。だって俺は、今まさにそこから歩いて来たのだし、他のルートではかなり遠回りだ。
それに、さきほど俺が立ち寄った際、教室にはもう誰もおらず、誰の荷物も残っていなかった。だから、鳴海がそこに荷物を取りに戻るというのは、いささかおかしな発言でもある。
となると、さっきの鳴海は少し様子がおかしかったし、やはり俺と顔を合わせたのが気まずかったのかもしれない。
でもそれにしたって、あんな見え透いたその場しのぎの嘘を残して立ち去るなんて、あまり彼女らしくない。少なくとも、俺がこれまでに抱いた彼女の印象と比べると、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
完璧に見えたはずの彼女の中に、ぽつりぽつりと、見え隠れする小さな違和感。
そう、それは違和感だ。今の俺では、その気持ちを別の言葉で表すことも、もっと詳しく表すことも、できはしない。ただ何となく、鳴海の様子が明らかにいつもと違っていたことだけが、如実に胸に引っかかった。
外の景色は朱色から藍色に移り変わっていて、その変化はきっと、好奇心や猜疑心、興味や不安が入り交じるほどに色を変えていく俺の感情と似ている気がした。太陽が消えて温度の下がった外界から入り込む風が、ひやりと俺の心を撫でた。