金曜日になった。ついに週末目前である。
ただ依然として、俺が鳴海と言葉を交わしたのは数回だけだった。まともに話をする機会など持てていない。
それは、彼女がとてもとても人気者で周囲と状況がそれを許さない……というのもないわけではないが、どちらかと言えば俺が意気地を出せずに尻込みしているということの方が、原因として大きかった。
身体と意思を動かさなければ、日々は変化がないままにただ過ぎ去ってゆくものだ。
しかし、この日は少しだけ、学校全体の雰囲気が違っていた。
情けなくも俺がまったく行動を起こせずにいたから、何かが痺れを切らして勝手に動き始めてしまったのだろうか。だとすればそれは僥倖か、あるいは奇禍か。どちらにしても、僭越ながら俺も世界の歯車の一部を担っているわけであるからして、その影響をまったく受けないというのも難しい。
早朝に教室で惰眠を貪っていたときは静かだったのに、ホームルーム前に目を覚ましてみると、何やら周りが騒々しかった。初め、俺はそのことに気づきすらしなかったが、次第に噂話が流れてきて、何かが起こっていることを知る。そして心の片隅で、その噂に対する興味をかき立てられた。
やがて昼休みになると、そわそわしていた孝文に連れられて、騒動の渦中へと足を踏み入れることになる。その渦中とは、まさに噂のど真ん中。人の渦に他ならなかった。
「うーん……」
高身長とはいえない孝文が、背伸びをしながら唸っている。
俺はと言えば、隣で人に揉まれながら辟易しつつも、せめて流されないように現在位置を保持していた。
「……ねぇ、そっちはどう? 空の身長なら、見えたりしないかな?」
俺たちは今、自分たちの教室の四つほど隣に位置する、別の一年生の教室前にやって来ている。噂の内容が、今日になってそのクラスに編入生が現れたというものだったからだ。こんな時期に編入生というのは若干妙な話なので、そこそこ野次馬をしたくなる気持ちも、まあ当然と言えば当然か。
しかし今回、やたらと騒動が大きく、教室の前がこんなにも人で溢れかえっている所以は他にもあった。その編入生は、なんとあの天才美少女ギタリストと名高い唯花に似ているらしいのだ。
「……見えるぞ。大量の人の頭がな」
ただし結果はこのザマである。
俺の身長は平均よりも幾分高めだから、人に埋もれて前が見えないことはない。だが、状況はそれ以前の問題だった。想像以上に野次馬の生徒が多すぎて、編入生を拝むどころか、教室に近づくことすらできないのだ。今や全国民が知る有名人の集客力は凄まじいものだ。
こりゃあ……駄目だな。
連綿と続く人間の川をげんなり眺めてそう思い、俺は回れ右をして引き返す。
「あ、ちょっと空ー」
孝文がすぐに小走りで追いかけてくる。
「帰っちゃうの?」
「だってな。近づけもしねーんじゃ、意味ないし」
たぶんこの調子だと、昼休みが終わるまでここで押しくら饅頭に興じる羽目になるだろう。そんなのはごめんだ。
「うーん……まあねぇ。ちぇ……僕も見たかったなぁ。生唯花」
「……生って。外見が似てるだけなんだろ?」
「いーやー、本人だっていう噂だよ」
「嘘つけよ。そりゃ、いくらなんでも無理があるぞ」
なんと。俺が今朝から耳にしている噂とは内容が異なっている。いつから唯花本人が編入してきたことになっているのだろう。随分と尾ひれが付いている。いやむしろ尾ひれが本体みたいな規模の噂になってるじゃねーか。
「千種さんっていうらしいよ。千種一華さん。可愛い名前だよね。やっぱり、髪はブロンドなのかな?」
「まさか。学校に来るなら黒に染めるんじゃないか」
「えー、染めちゃうのー? 黒髪の唯花って、僕、想像つかないなー」
「いやまあ、俺だってそうだけどさ。つっても、ここは芸能人学校とかでもないわけだし……やっぱ金髪は校則に引っかかるだろ」
「校則かぁ……でも、校則で唯花のビジュアルが変わったら、全国的にファンが泣くと思うんだよね。唯花の黒髪ってなんか逆にコスプレみたいだし、いっそ校則を変えた方がいいんじゃない?」
「お前、なかなかすごいこと言うな」
「でしょー。すごくごもっともでしょ」
「すごく無茶苦茶だよ」
国民的アーティストの編入は、よもや校則まで覆すのか。だとすると将来的に生徒手帳にはこう書かれる。
『生徒心得。頭髪は整髪、清潔に留意し、高校生らしい身なりに心がけること。ただし金髪は可。』
ありえん。
「いくら唯花でも、制服に金髪は似合わないだろ。むしろその方がコスプレだ」
「んー、そうかなー。まあ、確かにそうかもねぇ」
孝文は俺の隣で首を捻り、名残惜しそうに後ろ歩きをしてみせる。
「あー。どっちにしても、早くこの目で見てみたいなー。何たって、稀代の天才美少女ギタリストだもんなー」
「本人かどうかはともかく、編入してきたのならそのうち顔くらい見られるだろ」
今日は編入初日らしいが、何もこれからずっと、あんなに人が集り続けることはないはずだ。じきに騒動も収まるだろうし、一度と言わず、すぐに二度も三度も見られるようになる。同じ学校なのだから、他クラスといえど話す機会もあるかもしれない。
「でもさ、本当に本人だったら、これってすごいことだよねー。是非、生であのギターを聞いてみたいよ」
本人だったら、ねぇ……。果たして、そんなことがあるだろうか。
唯花は既に、俺たちとは違う世界の人間だ。テレビの向こう、ラジオの向こう、インターネットの向こう側。いくつものメディアを挟んだ反対側に生きていて、俺たちの世界には、その音楽だけが届いてくる。そういう存在だ。少なくとも俺はそう感じている。
そんな彼女が、ある日突然、この学校に? そんなのまるで……まるで唯花が、俺たちと同じように登校して、授業を受けて、昼食を食べて、部活をして……そんな生活をするかのように、思えるではないか。
ああ、いや、でも……もしかしたら、それはそれで当たり前なのかもしれないな。彼女もあくまで、歳は俺たちと同世代。立場はどうあれ年齢的には、一人の女子高生であることに変わりはない、はずなのだから。
そんなことを考えてしまったからだろうか。俺はふと、編入生が唯花本人だと信じてもいないのに、こんなことを口にしていた。
「……もし、唯花みたいな有名人でも、こうやって俺たちみたく学校に通うんなら……例えば、部活とかやったりもすんのかな」
きっとそれは、俺が心の片隅で部活動の選択に悩んでいたことも関係がある。
編入生も一年生だから、基本的に一度は部活動に参加することになるだろう。別にそれは、彼女が唯花本人であっても、そうでなくても同じである。
だが、しかしだ。
「え? 部活?」
「ああ。もし本当に編入生が唯花だったとして、それでも、この学校には軽音部がないだろう?」
そうなのだ。現在、この学校には軽音部、もしくはそれに類する部は存在しない。
だからといって俺には、ギターを手にせず別のことをしている唯花など、想像することができなかった。それは、俺自身がサッカー以外のことをしている自分を想像することができないのと、似たような思考回路なのかもしれなかった。
もしも唯花がこの学校で部活動を選ぶのだとしたら、いったいどんな選択をするのだろう。もしかしたらとても迷うのではないだろうか。そう思えてならなかった。
「確かに、そうだね。うちにある音楽関連の部活で入るとするなら……声楽部、いや、それよりはオーケストラ部かな? どっちみち、ギターは関係ない分野だけど」
「ギターのピックをヴァイオリンの弓に持ち替えるとか、そういう展開になりそうだな」
「び、微妙だね、それは……」
「微妙っつーか、無理だろうな。いっそピックでヴァイオリン弾けばいいんじゃねーか」
「うわー、空も相当無茶苦茶言うね」
まあ極端な話、部活動でなければギターが弾けないわけでもない。もしそうやって悩む事態になったとしても、とりあえず幽霊部員としてどこかに所属し、学校の外で音楽活動をすることも可能なわけだ。そういう点で、俺とは状況が違うとも言える。
いや、別に俺が気にすることでもないか。そもそも根本からして、編入生が唯花なわけがないのだし。こんな、もしもの中のもしも話をしても仕方がない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがて俺は自分の教室に到着した。
室内はほとんどもぬけの殻だ。とっくに昼食も済んだ時間だし、いつも賑やかに雑談している生徒は皆、編入生の野次馬に向かったのだろう。
室内に入ろうとしたところで、しかし一つだけ人影が目に入った。長い髪の流れる背中がぴんと伸び、前を向いて座っている。どうやら読書をしているようだ。
「あ、鳴海さんだね」
隣で孝文がぽつりと呟く。
「クラス中が野次馬に行ったってのに、真面目だな」
思うに、鳴海だって間違いなく友人から誘われたことだろう。それなのに一人でここにいるということは、誘いを断りでもしたのだろうか。珍しいこともあるものだ。確かに鳴海は、編入生の物見遊山を面白がるような性格には見えないけれど。
俺が教室の入り口で立ち止まっていると、孝文がさきほどの続きとばかりに話を続ける。
「そういえばオーケストラ部で思い出したんだけど、鳴海さんって言えば、彼女も割と有名だよね」
「有名? 顔が広いっていう意味でか?」
「いや、それとはまた別で。何でも、オーケストラ部の先生が入れ込んでるらしいよ。部活に入らないかって何度も誘っているみたい」
「鳴海を?」
「うん。彼女の家、ヴァイオリン教室みたいなんだ。詳しくは知らないけど、彼女もヴァイオリンが弾けるのかな」
「……ふぅん」
孝文のその話は、俺には少し意外だった。
正直、俺は彼女のことを何も知らないので、家がヴァイオリン教室でも、実績あるオーケストラ部から逆指名を受けていても、珠玉のヴァイオリン名手でも、それを疑う道理はない。
しかし俺は一度、彼女がギターを弾く姿を見ているのだ。あれはヴァイオリンではなく、確かにアコースティックギターだった。
もしかして彼女は、ギターとヴァイオリンの両方を弾くことができるのだろうか。ピックと弓の二刀流か? それはそれで、本当なら随分な才能人だと言わざるを得ない。そりゃあ世の中には、そういう人もいくらかいるのかもしれないけれど。
背後から眺めている俺たちの視線に、彼女は気づいていないのか、はたまたまったく意に介していないのか。振り向く様子はなく黙々と読書を続けている。
邪魔するのは気が引けた俺は、彼女から目を離し、ゆっくりと足音をたてずに自席に戻った。
ふっと一息つくのと同時に、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴った。
ただ依然として、俺が鳴海と言葉を交わしたのは数回だけだった。まともに話をする機会など持てていない。
それは、彼女がとてもとても人気者で周囲と状況がそれを許さない……というのもないわけではないが、どちらかと言えば俺が意気地を出せずに尻込みしているということの方が、原因として大きかった。
身体と意思を動かさなければ、日々は変化がないままにただ過ぎ去ってゆくものだ。
しかし、この日は少しだけ、学校全体の雰囲気が違っていた。
情けなくも俺がまったく行動を起こせずにいたから、何かが痺れを切らして勝手に動き始めてしまったのだろうか。だとすればそれは僥倖か、あるいは奇禍か。どちらにしても、僭越ながら俺も世界の歯車の一部を担っているわけであるからして、その影響をまったく受けないというのも難しい。
早朝に教室で惰眠を貪っていたときは静かだったのに、ホームルーム前に目を覚ましてみると、何やら周りが騒々しかった。初め、俺はそのことに気づきすらしなかったが、次第に噂話が流れてきて、何かが起こっていることを知る。そして心の片隅で、その噂に対する興味をかき立てられた。
やがて昼休みになると、そわそわしていた孝文に連れられて、騒動の渦中へと足を踏み入れることになる。その渦中とは、まさに噂のど真ん中。人の渦に他ならなかった。
「うーん……」
高身長とはいえない孝文が、背伸びをしながら唸っている。
俺はと言えば、隣で人に揉まれながら辟易しつつも、せめて流されないように現在位置を保持していた。
「……ねぇ、そっちはどう? 空の身長なら、見えたりしないかな?」
俺たちは今、自分たちの教室の四つほど隣に位置する、別の一年生の教室前にやって来ている。噂の内容が、今日になってそのクラスに編入生が現れたというものだったからだ。こんな時期に編入生というのは若干妙な話なので、そこそこ野次馬をしたくなる気持ちも、まあ当然と言えば当然か。
しかし今回、やたらと騒動が大きく、教室の前がこんなにも人で溢れかえっている所以は他にもあった。その編入生は、なんとあの天才美少女ギタリストと名高い唯花に似ているらしいのだ。
「……見えるぞ。大量の人の頭がな」
ただし結果はこのザマである。
俺の身長は平均よりも幾分高めだから、人に埋もれて前が見えないことはない。だが、状況はそれ以前の問題だった。想像以上に野次馬の生徒が多すぎて、編入生を拝むどころか、教室に近づくことすらできないのだ。今や全国民が知る有名人の集客力は凄まじいものだ。
こりゃあ……駄目だな。
連綿と続く人間の川をげんなり眺めてそう思い、俺は回れ右をして引き返す。
「あ、ちょっと空ー」
孝文がすぐに小走りで追いかけてくる。
「帰っちゃうの?」
「だってな。近づけもしねーんじゃ、意味ないし」
たぶんこの調子だと、昼休みが終わるまでここで押しくら饅頭に興じる羽目になるだろう。そんなのはごめんだ。
「うーん……まあねぇ。ちぇ……僕も見たかったなぁ。生唯花」
「……生って。外見が似てるだけなんだろ?」
「いーやー、本人だっていう噂だよ」
「嘘つけよ。そりゃ、いくらなんでも無理があるぞ」
なんと。俺が今朝から耳にしている噂とは内容が異なっている。いつから唯花本人が編入してきたことになっているのだろう。随分と尾ひれが付いている。いやむしろ尾ひれが本体みたいな規模の噂になってるじゃねーか。
「千種さんっていうらしいよ。千種一華さん。可愛い名前だよね。やっぱり、髪はブロンドなのかな?」
「まさか。学校に来るなら黒に染めるんじゃないか」
「えー、染めちゃうのー? 黒髪の唯花って、僕、想像つかないなー」
「いやまあ、俺だってそうだけどさ。つっても、ここは芸能人学校とかでもないわけだし……やっぱ金髪は校則に引っかかるだろ」
「校則かぁ……でも、校則で唯花のビジュアルが変わったら、全国的にファンが泣くと思うんだよね。唯花の黒髪ってなんか逆にコスプレみたいだし、いっそ校則を変えた方がいいんじゃない?」
「お前、なかなかすごいこと言うな」
「でしょー。すごくごもっともでしょ」
「すごく無茶苦茶だよ」
国民的アーティストの編入は、よもや校則まで覆すのか。だとすると将来的に生徒手帳にはこう書かれる。
『生徒心得。頭髪は整髪、清潔に留意し、高校生らしい身なりに心がけること。ただし金髪は可。』
ありえん。
「いくら唯花でも、制服に金髪は似合わないだろ。むしろその方がコスプレだ」
「んー、そうかなー。まあ、確かにそうかもねぇ」
孝文は俺の隣で首を捻り、名残惜しそうに後ろ歩きをしてみせる。
「あー。どっちにしても、早くこの目で見てみたいなー。何たって、稀代の天才美少女ギタリストだもんなー」
「本人かどうかはともかく、編入してきたのならそのうち顔くらい見られるだろ」
今日は編入初日らしいが、何もこれからずっと、あんなに人が集り続けることはないはずだ。じきに騒動も収まるだろうし、一度と言わず、すぐに二度も三度も見られるようになる。同じ学校なのだから、他クラスといえど話す機会もあるかもしれない。
「でもさ、本当に本人だったら、これってすごいことだよねー。是非、生であのギターを聞いてみたいよ」
本人だったら、ねぇ……。果たして、そんなことがあるだろうか。
唯花は既に、俺たちとは違う世界の人間だ。テレビの向こう、ラジオの向こう、インターネットの向こう側。いくつものメディアを挟んだ反対側に生きていて、俺たちの世界には、その音楽だけが届いてくる。そういう存在だ。少なくとも俺はそう感じている。
そんな彼女が、ある日突然、この学校に? そんなのまるで……まるで唯花が、俺たちと同じように登校して、授業を受けて、昼食を食べて、部活をして……そんな生活をするかのように、思えるではないか。
ああ、いや、でも……もしかしたら、それはそれで当たり前なのかもしれないな。彼女もあくまで、歳は俺たちと同世代。立場はどうあれ年齢的には、一人の女子高生であることに変わりはない、はずなのだから。
そんなことを考えてしまったからだろうか。俺はふと、編入生が唯花本人だと信じてもいないのに、こんなことを口にしていた。
「……もし、唯花みたいな有名人でも、こうやって俺たちみたく学校に通うんなら……例えば、部活とかやったりもすんのかな」
きっとそれは、俺が心の片隅で部活動の選択に悩んでいたことも関係がある。
編入生も一年生だから、基本的に一度は部活動に参加することになるだろう。別にそれは、彼女が唯花本人であっても、そうでなくても同じである。
だが、しかしだ。
「え? 部活?」
「ああ。もし本当に編入生が唯花だったとして、それでも、この学校には軽音部がないだろう?」
そうなのだ。現在、この学校には軽音部、もしくはそれに類する部は存在しない。
だからといって俺には、ギターを手にせず別のことをしている唯花など、想像することができなかった。それは、俺自身がサッカー以外のことをしている自分を想像することができないのと、似たような思考回路なのかもしれなかった。
もしも唯花がこの学校で部活動を選ぶのだとしたら、いったいどんな選択をするのだろう。もしかしたらとても迷うのではないだろうか。そう思えてならなかった。
「確かに、そうだね。うちにある音楽関連の部活で入るとするなら……声楽部、いや、それよりはオーケストラ部かな? どっちみち、ギターは関係ない分野だけど」
「ギターのピックをヴァイオリンの弓に持ち替えるとか、そういう展開になりそうだな」
「び、微妙だね、それは……」
「微妙っつーか、無理だろうな。いっそピックでヴァイオリン弾けばいいんじゃねーか」
「うわー、空も相当無茶苦茶言うね」
まあ極端な話、部活動でなければギターが弾けないわけでもない。もしそうやって悩む事態になったとしても、とりあえず幽霊部員としてどこかに所属し、学校の外で音楽活動をすることも可能なわけだ。そういう点で、俺とは状況が違うとも言える。
いや、別に俺が気にすることでもないか。そもそも根本からして、編入生が唯花なわけがないのだし。こんな、もしもの中のもしも話をしても仕方がない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがて俺は自分の教室に到着した。
室内はほとんどもぬけの殻だ。とっくに昼食も済んだ時間だし、いつも賑やかに雑談している生徒は皆、編入生の野次馬に向かったのだろう。
室内に入ろうとしたところで、しかし一つだけ人影が目に入った。長い髪の流れる背中がぴんと伸び、前を向いて座っている。どうやら読書をしているようだ。
「あ、鳴海さんだね」
隣で孝文がぽつりと呟く。
「クラス中が野次馬に行ったってのに、真面目だな」
思うに、鳴海だって間違いなく友人から誘われたことだろう。それなのに一人でここにいるということは、誘いを断りでもしたのだろうか。珍しいこともあるものだ。確かに鳴海は、編入生の物見遊山を面白がるような性格には見えないけれど。
俺が教室の入り口で立ち止まっていると、孝文がさきほどの続きとばかりに話を続ける。
「そういえばオーケストラ部で思い出したんだけど、鳴海さんって言えば、彼女も割と有名だよね」
「有名? 顔が広いっていう意味でか?」
「いや、それとはまた別で。何でも、オーケストラ部の先生が入れ込んでるらしいよ。部活に入らないかって何度も誘っているみたい」
「鳴海を?」
「うん。彼女の家、ヴァイオリン教室みたいなんだ。詳しくは知らないけど、彼女もヴァイオリンが弾けるのかな」
「……ふぅん」
孝文のその話は、俺には少し意外だった。
正直、俺は彼女のことを何も知らないので、家がヴァイオリン教室でも、実績あるオーケストラ部から逆指名を受けていても、珠玉のヴァイオリン名手でも、それを疑う道理はない。
しかし俺は一度、彼女がギターを弾く姿を見ているのだ。あれはヴァイオリンではなく、確かにアコースティックギターだった。
もしかして彼女は、ギターとヴァイオリンの両方を弾くことができるのだろうか。ピックと弓の二刀流か? それはそれで、本当なら随分な才能人だと言わざるを得ない。そりゃあ世の中には、そういう人もいくらかいるのかもしれないけれど。
背後から眺めている俺たちの視線に、彼女は気づいていないのか、はたまたまったく意に介していないのか。振り向く様子はなく黙々と読書を続けている。
邪魔するのは気が引けた俺は、彼女から目を離し、ゆっくりと足音をたてずに自席に戻った。
ふっと一息つくのと同時に、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴った。