目覚めると、いつの間にか外には雨が降っていた。
 何となしに寝ぼけ眼を時計に向け、そして、俺は思わず飛び上がる。
「うおっ!」
 示されていた時刻は午後三時。とても昼過ぎとは言い難い時刻だった。
「やべぇ! おい千種! 学校行くぞ!」
「んー……」
 俺は信じられないほど寝起きの悪い千種を何とか起こし、ボサボサの髪やクタクタの制服を可能な限り整えてやって、彼女の手を引き急いで学校まで向かった。
 千種の家からは遠く離れた俺たちの学校。四十分ほどかけて到着し、すぐに鳴海の携帯に連絡する。
『ちょっと大江君! あなた、今何時だと思ってるの!』
「わりぃ! じゃなくて、ほんとごめんなさい!」
『まあいいわ! さっさと一華連れて屋上に来なさい!』
「え? 屋上? 何で?」
『いいから早く!』
 彼女は短く文句と用件だけを告げると、そのまま電話を切ってしまった。
 何やらよくわからなかったが、俺は言われた通りに屋上へと出向く。
 すると、広い空間のど真ん中に鳴海がいた。降りしきる雨の中、赤い大きな傘を差して立っている。俺の開いた扉の音に気づいたのか、その場でくるりと振り向いた。
「ほんと、遅すぎよ。おかげで準備万端だわ」
 彼女の周りにはいくつもの傘があった。大きいもの、小さいもの。黒、青、白、オレンジ、ピンク。花柄、チェック、果てはビニールのものまで。それら全てが、開いた状態で地面に蒔いたように置かれていた。そしてその下には、黒いコードや筐体が見える。
「な……なんだ、これ?」
「アンプよ。ギターとマイクの。ここの真下って放送室なのよ。窓からコード延ばして電源引いて、校内放送に繋いである。スイッチを入れれば流せるわ。傘はクラスの人とか、知り合いに借りた」
 鳴海は澄ました顔で答えつつ、手元で鍵をくるくると弄んでいた。おそらく放送室のものだろう。
「時間も時間だし、こんな天候だからか、みんな体育館のステージに釘付け。おかげで色々やり易かったわ。本当はあなたにも手伝ってほしかったけどね」
 奇怪な光景。見渡す限りの傘の花。でも、すぐに理解する。
 これは、どう見たってライブの準備だ。
「まさか……ここでやるのか?」
「あら、違うの? てっきり私は、ここでやるのだと思っていたけれど」
 いや、正直、今の今まで場所のことなんて考えていなかった。
 鳴海は続ける。
「実際、やるならここが一番適した場所よ。体育館はそもそも学校祭のステージになってるから、私たちが使うことはできないし、運動場は模擬店でひしめき合ってるもの。だからと言って、狭っ苦しい空き教室でやるなんて御免だし」
 俺は唖然として、返す言葉が見つからない。
「でも、そういう理由がなくったって、私はここでやる以外にはないと思ってたけどね。だってあなた、言ったじゃない。ここから新しい夢を追うって。これは、その第一歩なんでしょう?」
 鳴海の目は、まっすぐに俺を見ていた。そして次の瞬間、不適な笑みでニヤリと告げる。
「まあ、私は別に、中止にしたって構わないけれど。生憎と、ほら、雨も降ってるし……ねぇ?」
 しかしその笑みからは、言葉通り中止にしようなんて意図は、微塵も感じられなかった。彼女はその口と表情で、まったく反対のことを語っている。きっと彼女の真意は、こうだ。
 まさか今更、やめるなんて言わないわよね?
 隣の千種も、同じように感じたのだろう。既に背負ったギターを下ろし、ごそごそとケースから取り出している。
 そのとき、俺は思わず心が躍った。顔がにやけるのが我慢できない。震える声を抑えながら、ようやく鳴海に、力強く答えを返した。
「やるよ。もちろんやるさ!」
 俺も背負ったギターを取り出す。
 鳴海曰く、これはゲリラライブ、ではないとのことだった。
 学校祭の三日目は、ステージ兼閉会式を経て本来は三時半に終わる予定で、四時から片づけの時間になっていたらしい。間の三十分はバッファーだ。どうせ押し気味のスケジュールになるだろうからという、要は調整時間といったところ。実際、今日の予定は二十分押していて、三時五十分に終了、四時から片づけに変更されているのだとか。
 俺たちが演奏を目論んでいるのは、その十分の間だった。
「つまり私たちは、何も学校祭のスケジュールに割り込んで、ゲリラライブをやるってわけじゃないのよ。閉会式後の余剰時間に、盛り上がった学校祭の熱気に当てられて、ちょっとギターの演奏をするだけ。それだけよ」
 だから悪いことをするわけじゃあないわ、と鳴海は言う。
 それを聞いて、俺はある意味呆れた。
「お前……それ完全に悪党の理論じゃねぇかよ」
「正しいことを言ったまでよ」
 正しくない。
 いきなり何を言い出すのかと思えば、随分と言い訳じみた論理である。自分の荷担している悪事に理屈で苦しい弁護を垂れているあたり、本当に律儀なんだなぁ、こいつ。そう思わされる。
「まあ……何でもいいけどさ。これがライブでも、そうじゃなくても」
「あら、そうなの。あれだけ言ってたんだから、こだわりでもあるのかと思ったけど」
「別に俺は、ライブをすることにこだわったんじゃないよ。三人で弾くことにこだわったんだ。大事なのは、俺たち三人が、ここで一緒に弾くことだろ」
「へぇ、いいこと言うじゃない」
「本当だぞ? たとえ上手くいかなくても、意味はある。価値はあるって思ってる」
 俺は、演奏直前のギターの微調整をしながら鳴海と話す。
 彼女の方はもう既に済ませてあるのだろう。両手の塞がった俺の頭上に、傘を差してくれている。
「そこは嘘でも、必ず上手くいくって、言ってほしいわね。ねぇ、一華?」
 鳴海が千種に声をかける。
 千種も早々と調整を終えたようで、気づくと傘を持ちながら突っ立って雨雲を見上げていた。そしてそのまま、ただ微笑む。
「うん。きっと、大丈夫だよ」
 俺は再び鳴海の顔を見る。すると、彼女も同じように微笑んでいた。
 心地良い時が刻一刻と進む。
 止まない雨。果てしない曇天。
 やがて屋上に、俺と鳴海と千種が立つ。ギターを構え、まるで合図のように三人で互いの顔を見る。
 時計の針が三時五十分を指し、そして、俺たちは一斉に手に持った傘を投げ捨てた。
 勢いよく弦を弾くと、校内に突然、何の前触れもなくギターの音色が響き渡った。音量調整はあらかじめ鳴海がしたのだろうが、随分と大きくて少し驚く。校内放送にしてはかなりのボリュームだ。
 でも、一つの動揺もなく、指先が自然と曲を奏でてくれた。
 出だしは軽快に駆け出すような早々としたリズム。何度も練習した最初のフレーズ。じめりとしけった空気の中、静寂を切って広がる音に乗り、揺れる身体が弦の間を、五線譜の上を走り出す。
 短いイントロを経て、俺の歌うべき一つ目の言葉が訪れた。
『さあ、夢の音色を奏でよう』
 校内に流れる自分の声。マイクに拾われ、曲と共鳴し、やがて天に吸い込まれてゆく。不思議な感覚だ。まるで声に自分の意識が乗っているかのように、視界が広がる。
 そして、歌い出したそのときだった。
 離れて見える体育館の扉が開き、中から生徒が溢れ出してくる。ステージと閉会式を終えた直後だからか、随分と騒がしい感じがした。鳴海の言い訳じゃないが、たぶん彼らも、祭りの熱気に当てられているのだろう。興奮冷めやらぬ、といった様子だ。
 俺はフェンスに近寄り、眼下の彼らに向かって叫ぶ。
『前へ前へ、憧れを胸にただ駆ける。遠い遠い空の彼方の君に惹かれて』
 放送からではない俺の地声が、いくらか届いたことだろう。生徒の塊の中で数人が上を見上げ、こちらに気づく。位置的に、鳴海や千種の存在に気づいた人もいるはずだ。
 体育館から校舎へ向かって、人の流れが加速する。雨は変わらず降っているが、我先にと屋根のない道を通ってくる生徒まで現れた。たちまち校舎の下は人間の波で埋め尽くされる。
 それを見て、俺はよりいっそう、弦を弾く手に力を込めた。
 これは、余剰時間のお遊び演奏。その表現はこれ以上にないほど的確で、過不足なく俺たちの行為を表している。
 別にそれでもいいのだと、俺は答えた。その言葉にまったくもって嘘はない。仮にこの演奏を、他の誰が聴いていなくても、確かに意味はあるのだから。揺るぎない価値があるのだから。
 俺たち三人がこの屋上でギターを弾くこと。千種と鳴海が手を取り合って、そして彼女らと一緒に俺が弾くこと。それが今、全てなのだという想いに偽りはない。
 だけど――。
 俺は忘れていた。
 俺と一緒に弾いている二人が誰なのか。彼女たちが誰なのか。彼女たちの弾くギターが、どんな力を持っているのか。
 彼女たちはその昔、毎夜あの駅前で、途方もなくたくさんの人々を魅了したのだ。あのストリートライブで、この曲で、どんな人の足をも止めて見せたのだ。
 俺もその一人だった。
 だからこそ俺は、二人の演奏を失いたくなかった。
 だからこそ俺は、もう一度二人の演奏を聴きたかった。
 だからこそ俺は、彼女たちに心から惹かれた。
 二人は俺に夢を見せた。サッカーという夢を失い、もはや何も持たなかった俺に、もう一度新しい夢を見せてくれた。
 そんなギターが、今、ここで流れている。誰も彼も、魅了されて、聴きたがって、押し寄せてきて当然なのだ。
『綺麗事ばかりじゃない世界。不条理ばかり溢れる世界。叶わない届かないたどり着けない。それでも……』
 全体として快活な曲調も、ここで少し勢いを潜める。それでも、それでも、と絞り出すように俺は歌う。
 ああ、それでも。
 忘れられない想いが、譲ることのできない想いが、確かにあって。だけど苦しみも悲しみも、憎しみだって、もちろんあるはずで。
 何かをひたすらに追い続けることはとても難しい。ときには道の途中で諦めてしまって、手をついて倒れ、立ち止まってしまうこともあるのだろう。
 それでも。
 俺は再び前へ進む。きっと何度だって、今度は彼女たちと一緒に進もう。そう決意して、だから歌う。
 やがて、背後から扉の開く音が大きく響いた。振り返ると、下に集まった生徒の一部がこの屋上にまでなだれ込んでいる。
 千種は驚きながらも嬉々としてギターを弾いている。
 鳴海はやれやれと呆れた様子で微笑みながら弾いている。
 俺も彼女たちも、押し寄せた生徒も雨に濡れて、しかし、熱気が雨雲を押し退けるように、気づけば雨足は弱まっていた。
 地上では生徒に紛れて、教師の姿も目に入った。険しい表情でこちらに向かって何かを告げている。しかし聞こえるはずはない。周りは音楽と生徒の歓声でいっぱいだ。おそらく俺たちを止めようとしているのだろうが、屋上まで埋め尽くされた人の波がそれを邪魔して通さない。
 一瞬のうちに屋上は生徒で溢れ返った。それぞれ思い思いに叫んだり飛び跳ねたり、燃え上がる炎のように収拾がつかなくなっていた。
 俺はそれに負けないよう、マイクに向かって声を張る。
『何十回何千回何万回。躓いて倒れて立ち止まっても、何度でも進み、輝く』
 演奏は終盤に差し掛かった。観客のムードも高まる一方だ。このまま最後まで弾ききれる。
 千種と鳴海も同じ想いを感じたのか、そのとき一瞬だけ目が合った。パラパラと降る雨水さえも一瞬で沸騰に導くように、三人で観客の興奮を引っ張っていく。
 たった数分の短い曲。気づけばもう、終わりはすぐそこまで迫っている。
 でも俺は、長い長い旅の果てを見るような気分だった。これ以上ない充足感に手が伸びるとともに、限界まで叫んだ喉が悲鳴を上げる。
 たどり着いたという感覚。まだ終わってほしくないという感覚。心にある全ての感覚を纏め上げ、余さず歌に込めて紡ぐ。
 この曲は、鳴海と千種の大切な曲だ。だから俺は、それに見合うような歌詞を与えたつもりだった。悩んで悩んで、もしかしたら生まれてこの方、こんなにも悩んだことはないのかもしれないと思うほどに、悩んでこの曲の歌詞を書いた。俺の思いつく限りの、彼女たちへの感謝の言葉。俺を救った曲の形。俺の憧れた彼女たちそのもの。
 その曲を締めくくる最後を、ついに叫ぶ。
『夢見た空を、君の手を引いて翔ける』
 止まない歓声。沸き立つ周りの生徒たち。演奏を終えて立ち尽くす三人と対称的に、いつまでも熱気は冷めていかない。
 あとはもう、なるようになればいいかな。
 そんな風に思ったとき、ふと雨が止んでいることに、俺は気づいた。
 緩慢な動作で天を見上げる。雲間から差し込む太陽の光。赤くなり始めた朱色の光が、俺と鳴海と千種を照らす。
 三人の長い影が、寄り添うように彼方まで延びている。俺はそれを、満たされた想いで眺めていた。