突如、快活な声をかけられる。
 心臓を跳ねさせた私は慌てて手のひらを握りしめると、机の下に隠した。
 見上げると、爽やかな容貌の男子に間近から覗き込まれていることに、また鼓動が弾む。
「あ……お、おはよう。西河(にしかわ)くん」
 同じクラスの西河くんは、にこりと笑う。 
 切れ上がった涼しげな眦、まっすぐに通った鼻筋、薄い唇は怜悧にも見える。精緻に整えられている面立ちなのに、精悍な印象を彼は与えた。背が高く、すらりと伸びた手足は常に美しい所作を見せる。
 誰に対しても人当たりが良い、成績優秀なイケメン。それが西河くんだ。
 当然女子からの人気は高く、数多の女子が彼に告白しては玉砕したと、沙耶を通して聞いていた。実は沙耶も西河くんのことが好きなので、そういった相談も受けていた。私としては、西河くんと友人というわけでもないので、どうにもできないのだけれど。
 朝の挨拶のあと、西河くんは至極当然のように口にする。
「古典のノート、あとで見せてくれる?」
「……どうして」
 西河くんのほうが成績が良いのは明らかだ。クラストップなのだ。
 それなのに、なぜ私のノートを借りる必要があるのか理解できない。
「見たいから」
 さらりと告げる西河くん。
 理由になっていない気がする。
「……そうなんだ」
「それじゃ、あとで」
 軽く手を挙げた西河くんは自分の席に戻っていった。
 彼とは席が近いわけではなく、特に仲が良いというわけでもなく、もちろん幼なじみだとかいうわけでもない。
 なぜ、わざわざ私に声をかけるのだろう。
 彼は今日のように逐一私に挨拶をして、それから何らかの事柄を話していく。
 正直言って、迷惑だった。
「ねえ」
 後ろの席の沙耶に、つんと突かれる。
 振り向けば、沙耶は拝むように両手を合わせながら小声で囁いた。
「西河くんのノートも借りてよ。それ、あたしにもあとで見せて」
「あー、交換ね。わかった」
 西河くんが私に構うので、沙耶は当初それを気にしていた。
 けれど、私が西河くんに興味がないことをはっきり告げたら安心したようだった。
 自分の好きな人が友人のことを好きかもしれないという状況は、とても気になるだろう。
 私は西河くんに何の感情も抱いていないので、何かが起こるわけはなかった。
 それに西河くんが特別に可愛いわけでもない平凡な容姿の私に声をかけるのは、ただ、からかっているだけなのだと思われた。 
 ああいう完璧な男子は、自分に興味がなさそうな女子の気を引こうとでも思っているんじゃないかな。どんな女でも自分に惚れないと許せないみたいな。
 そういった恋愛の駆け引きのようなものに付き合わされることが、心底うんざりする。
 未来のない私には、恋愛なんて縁のないことだから。
 今日は仕方なく、古典のノートを念入りに取らなければならないようだった。
「古典の授業は五時限かぁ……」
 私は溜息を吐きながら、鞄からノートとペンケースを取り出した。

 頬を流れ落ちる汗の雫は、感情のない涙と変わらない。
 七月の教室はうだるような熱気が籠もり、生徒たちは下敷きを団扇代わりにして扇いでいる。そんなことをしても熱風が撹拌されるだけのことで、全く涼しくはならない。何もしないよりはまし、という気休め程度だ。
 熱気の籠もる教室で、黒板に向かっていた古典の先生がハンカチで汗を拭いながら振り向いた。
「古文単語のハ行上二段活用、こふ。じゃあ……西河、次の例文を読んでみろ」
 先生は汗ひとつ掻いていない西河くんを指名する。女子たちが色めき立って、目を見開いた。
 私はのちほど西河くんにノートを見られてしまうので、まともな記述になるよう必死に黒板を書き写す。
「はい」と短い返事をして音もなく立ち上がった西河くんは、古典の教科書を手にして読み上げる。
「君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば、頼まぬものの恋ひつつぞ経る」
 伊勢物語の一文が、流麗な声音で綴られる。その響きに、教室中が息を呑む気配が張り詰めた。
 綺麗な声だな、と思う。
 続いて先生は西河くんに解釈を求める。
「あなたが来ようと言った夜ごとに、むなしく時が過ぎてしまったので、もうあてにしていませんが、やはりあなたを慕いながら過ごしています」
 低いけれど凜とした声音が、すうっと耳を通して体内に染み込んでいく。
 恋人を慕いながらも、来てはくれないのに諦めきれないという恋の歌は、恋を知らない私の胸にも切なく響いた。
 先生から正解の賞賛を浴びた西河くんは着席しようとして屈んだとき、ちらりとこちらに目を向けた。
 私を、見た……?
 なんだろう。
 きちんと書いたか、と問われているようにも感じた。
 正解がわかっているのなら、私のノートを見なくてもいいと思うのだけれど。
 この、西河くんの視線が謎だった。
 それは廊下ですれ違ったとき、教室にいるときなど、ふいにやってくる。
 特に彼が女子に囲まれているときや、告白を断って教室に戻ってきたときなどは必ず視線を巡らせてから、私に視点を固定させるのだ。まるで捜しているものを見つけたかのように。
 喉に絡みつくような、この破片をどのように解けばよいのか、それとも何もしないほうがよいのか、私はわからなくて途方に暮れた。
 チャイムが校舎全体に鳴り響く。
 どうにか、人に見せられる程度のノートに仕上がった。
 私は嘆息すると、鉛筆を置いた。

「どうかな? できた?」
 古典の授業を終えると、早速西河くんは私の席にやってきた。
 今日の授業はこれで終了なので、クラスはすでに解放感に包まれている。
 私は仕上げたばかりの古典のノートを差し出した。
「できたよ。でもさ、正解わかってるなら私からノート借りなくていいんじゃない?」
「そういうことじゃないんだよね。ありがとう、明日返す」
 西河くんは笑顔を浮かべながらノートを受け取る。
 そのとき、背中をつんと突かれた。
 沙耶からの合図だ。私は今朝、沙耶と話したことを思い出した。
「あ。あの、西河くんのノートも貸してくれない?」
「いいよ。古典?」
「あ……えーと、古典のノートって、私のと見比べるの?」
 ふたつのノートを開いて見比べるということなら、古典は借りられない。
 けれど西河くんは、あっさり否定した。