私の平穏な日常は悪夢に侵食されている。

 いつも、夢を見る。
 暗い、四角い、箱の中。
 そこに、ぽつんとひとりで佇んでいる私。
 やがて箱の中は黒煙で覆い尽くされ、紅蓮の炎に満たされる。
 まるで檻に閉じ込められて、火を点けられた鼠のように、私はあてもなく逃げ惑う。
 誰かの名を叫びながら、皮膚を、骨を、業火に焼かれていく。
 燃え尽きるまで。

 ひゅうと息を吸い込みながら、布団から跳ね起きる。
 いつもの自分の部屋。自分のベッド。
 枕元の目覚まし時計を見れば、時刻は六時を指していた。
 夏の陽はもう高く昇っていて、カーテン越しに眩い陽射しが透けている。
「……また、あの夢か……」
 清々しいはずの朝陽は、悪夢を見たあとは黄色く濁って見える。
 ぼんやりと呟いた私はベッドから下りると、ハンガーにかけている制服を手にした。
 この悪夢を見始めたのは、物心がついた頃からだった。
 内容はいつも同じ。
 狭い箱の中で、炎に焼かれて死んでしまう。
 子どものときは夢を見ると飛び起きて泣いてしまい、眠るのがとても怖かった。
 両親は様々な病院や占い師などを訪ねて相談したけれど、誰もが同じような返答をした。
『日常で不安なことがあるからです』
『大人になれば落ち着きますよ』 
 所詮は夢の話なので、たいしたことではないという余裕が彼らの頬には刻まれていた。
 夢の中で私は何度も死んでいるのに、その凄惨な体験をほかの人にわかってもらうことができないという、夢という特有の性質がもたらすもどかしさがあった。
 私の見ている夢を実際に見れば、きっとそんな台詞は軽く吐けない。
 それほどにリアルで、残酷な悪夢なのだから。
 自分たちの育て方がよくないのではないか、と両親が案じたので、私はもう夢の話をしないことにした。
 夢とは、その日に体験したことを眠っている間に復習するものだという説がある。
 けれど、私はもちろん火事に遭遇したことなど一度もない。
 平凡なサラリーマン家庭。生まれたときから住んでいる一軒家。なんの波風もなく育ち、現在は市内の高校に通学している。
 あれはもしかして、予知夢ではないか。
 私は次第にそう思うようになった。
 すでに体験したことの復習ではなく、これから起こることを夢に見ている。
 だから私は、いずれ火事に遭って死ぬのだろう。
 そんなふうに自分を納得させた。私の心中は未来への諦めだけで構築されている。
 階段を下りてダイニングへ向かうと、台所からかすかな物音が聞こえる。それから鼻孔をくすぐる、珈琲とバターが撹拌された匂い。
 私が姿を現すと、母は忙しなく朝食の支度を調えていた。
「おはよう。お母さんね、今日仕事で遅くなるから。パンでいい?」
「うん」
「あとカフェオレね。自分で牛乳入れなさい。全部食べるのよ」
「うん」
 毎朝繰り返される、変わらない定型文。
 私は冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。トースターから音を立てて飛び出したパンを皿に乗せる。テーブルに着くと、すでに目玉焼きが用意されていた。母が淹れたての珈琲を私のマグカップに入れて差し出す。
 この時間はもう父は出勤しているので、いない。向かいの父の席には丁寧に畳まれた朝刊が身代わりのように置いてあった。
 私は機械的な動作で牛乳パックを傾け、マグカップに注ぐ。
 黒い珈琲に白い液体が渦を描いて混ざり合う。
 いつもと変わらない朝の風景。
 異なるのは、目玉焼きか、スクランブルエッグかというくらいだ。稀にだけれど和食ということもある。そんなときでも必ずカフェオレを飲むのは変わらない。
 朝の一杯を飲まないと、なんだか体の調子が悪いから。
 無感動に朝食を摂取して、カフェオレを飲み干す。時計を見上げて席を立ち、鞄を手にする。そして必ず、台所を確認する。コンロの火が点けっぱなしになっていないか点検するためだ。母がそういった過失を犯したことは一度もないのだけれど。
 コンロの火は確実に消えていた。
 火事になる心配は、とりあえずない。無論、寝る前も毎晩点検している。
 母は私の悪夢の内容を知っているので、火災のもとがないか執拗に調べる私に対して何も言わない。父は私が物心ついてから煙草を吸うのをやめた。家にはライターなどの火器の類いは置いていない。
 火の元の点検までが朝の一連の作業だ。
 それを終えると、くるりと踵を返して玄関へ向かう。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね。お母さんも、そろそろ家出るから」
「うん」
 私は無意識に相槌を返しながら、靴を履く。
 未来を諦めていながら、私はなぜか抗うような真似をしている。
 朝陽が眩しい。
 私の見る朝陽はいつも、黄色く濁っている。
 まるで死の間際のように。
  
「おはよー」
「おはよう、沙耶」
 教室に入ると、友人の飯田(いいだ)沙耶(さや)と挨拶を交わす。
 沙耶とは中学のときから一緒のクラスで仲良くしていたので、高校に入ってもその関係は続いていた。屈託のない彼女は、私のただひとりの友人だ。
 もともと社交的なほうではないし、どうせ火事で死ぬ運命なのだから、友人は少ないほうがいい。
 悪夢のことは、沙耶には一切話していない。
 話して気味悪がられたら嫌だなという思いがあったから。余計なことは言わないほうがいい。それくらいの分別はもうついていた。 
 だから、学校では誰も私の悪夢を知らない。
 そのことが若干だけれど、私の心を軽くしていた。
 誰も私を見るとき、両親のように目の色に畏怖を滲ませないから。
 奇怪な娘。奇妙な悪夢。いずれ不幸をもたらすかもしれない。
 そんな恐れが何の変哲もない家庭の日常に潜んでいた。
 私は自分の席に着くと、そっと手のひらを開いて、じっと見下ろす。
 不幸の証のように、そこに烙印はあった。
 釘で引っ掻いたような、どす黒い痕。それは傷のようにも見える。
 縦と横の線が交差して刻まれた奇妙な痣は、生まれたときからあった。
 人に見られると、なにそれ、どうしたのと事細かに訊ねられるので、いつも拳を握りしめている。
「おはよう、相原(あいはら)さん」