陽も落ち薄暗い裏路地。
背の高いビルに挟まれ、威圧感を感じるその細い道の奥に、羽を四枚持った大きな蝙蝠が居た。
この蝙蝠は、人の心を惑わし、仲違いを助長させる悪魔だ。今日はこの悪魔を祓う仕事を受けてやって来た。
緑色の中に黄金色が浮かぶロザリオを手首に巻き、十字架の部分を手のひらに垂らして蝙蝠の頭を掴む。
羽をばたつかせ、甲高い声を上げる蝙蝠を押さえつけ、聖なる言葉を唱える。
「Ne kredu Suspektas Ne lasa iri de la lasera!」
蝙蝠はばたつかせていた羽をだらりと下げ、ふるふると震えながら、塵になっていく。
そして最後に、こつりと地面に濁った色の、石のような物を落として消えた。
僕は懐から、きつくコルク栓で蓋をされた試験管を取り出し、その中身を蝙蝠が落とした石のような物にかける。
すると、石のような物は小さな泡を出して、溶けていく。
この石のような物は悪魔の核で、この様に聖水をかけると、溶けて消えるのだ。
悪魔の核が完全に消えたのを確認し、スマートフォンを取り出してメールを送る。
依頼主に退魔完了のお知らせをするためだ。
僕の仕事は基本前金制で、退魔のための料金はもう払って貰っている。なので、このメールを送信したところで、僕の仕事は終わりだ。
もうすっかり陽も落ちて、ビルの隙間から見上げると、狭い空に星が輝いている。
仕事が終わったら、一緒に夕食でも食べないかと、同業の知人達に誘われていたな。
彼らが店を押さえてくれていると言っていたから、どこに居るのかを確認しなくては。 持っていたままのスマートフォンで、電話をかける。
「もしもし。
ああ、終わったよ。今どこに居るんだい?
……秋葉原か、わかった。
ここからだと二十分か三十分くらい掛かるが、待っていてくれ。
場所はいつもの所で良いのだよね?
ああ、それじゃあ」
通話を切り、スマートフォンを内ポケットにしまい、路地から出るために歩き始める。
ああ、自己紹介が遅れていたね。僕の名前はジョルジュ・ド・三堂。父なる神を信奉するクリスチャンで、退魔師だ。
電車に乗り、秋葉原に立つ。
知人達がいつも使っているレストランというか、飲み屋。そこは駅からほど近い、ホテルの二階に店を構えている。
個室が用意されている店なので、店の前に着いたところで、知人に電話をかけ、案内を頼む。
店から出てきたのは、僕より幾分背が低く、年下の、人なつっこい顔をした男性。
「イツキ、もう食事を始めていたのかい?」
「いんにゃ、ジョルジュが来るまでソフトドリンクだけで待ってた。
お店にも後でもう一人来るって言ってあったから」
「そうか、気を遣わせてしまって悪いね」
彼の名前は泉岳寺イツキ。僕と同じく退魔師をしているのだけれど、どうにも何を信奉しているのかがわからない、謎が残る人物だ。
除霊の時に、何を使って行っているのかもわからないしね……
イツキに案内され、店内にあるうちの一つの個室に入る。するとそこには、僕と同い年くらいの、少しきつめの表情はしているけれども、頼りがいのありそうな男性が一人、待っていた。
「よう、ジョルジュ。今回の仕事は上手くいったか?」
「ああ、おかげさまで上手くいったよ。
勤は最近、仕事の方はどうだい?」
「俺? 俺は一昨日仕事一件やっつけたけど、まぁ、上手くは行ってるな」
テーブルにセットされている椅子に座りながら、話をする。
彼の名前は、寺原勤。仏教系の退魔師なのだが、偶に陰陽道関連の仕事も来るらしく、僕達の中では、おそらく一番仕事が多いだろう。
僕と、イツキと、勤でテーブルに着き、メニューを開いて何を食べるかを決める。
僕はいつも、家では洋食を食べることが多いので、こういった所で和の物を食べるのは結構楽しみだったりする。
ふむ、コース料理も良いけれど、他の二人の懐具合はどうなのだろう?
飲み屋に来てはいるけれど、実は僕と勤はそこまで酒を飲む質では無いし、飲み放題にするとイツキが際限なく飲んで潰れるので、なるべくそれは避けたい。なので、飲み放題が付いているコースは避けたいところなのだが。
「あー、オレしゃぶしゃぶ食べたい」
「しゃぶしゃぶ? これ二人前からじゃん」
イツキの提言に勤が少し困ったような顔をして、ちらりと僕の方を見る。
「イツキがしゃぶしゃぶにするなら、僕もそれで構わないよ」
ステーキは家で焼くのはそこまで難しくないけれど、しゃぶしゃぶを家でやるのはなかなか難しいからね。偶にはこういう所で食べたい物だ。
僕の言葉に、勤もメニューに手を置いて言う。
「それじゃ、俺もしゃぶしゃぶにするわ。
飲み物どうする?」
「オレ芋焼酎がいい!」
「僕は梅酒が良いな」
「じゃあ俺柚子サワーで」
全員のメニューが決まったところで店員を呼んで、それぞれに注文をして、その日は楽しい夕食時を過ごしたのだった。
家に帰り、自室で今日使ったロザリオと試験管の手入れをする。
机の横にある棚には、二十数本ほどの、聖水が入った試験管が、試験管立てに立てられている。
これだけ有れば、今年度いっぱいは聖水が足りるだろうか。
聖水は、司祭様にしか作れない物なのだが、余り頻繁にお願いしに行くのも気が引ける。
なるべく纏めて作って貰うようにはしているけれども、僕の仕事を教会の神父様がご存じでなかったら、こんなに沢山は聖水を分けては貰えなかっただろう。
始め、神父様に退魔師の仕事のことを告げるのは、迷いがあった。
そんな胡散臭い仕事などするべきでは無いと、そう言われる気がしたのだ。
けれども、神父様は僕の言葉を受け入れてくれた。なんでも、僕がそう言う仕事をしていると言う事を、夢の中で天使様から告げられたという。
実は、僕も幼い頃に、夢に現れた天使様からお告げを受け、この道を歩もうと思ったので、そう言う巡り合わせだったのかも知れない。
空になった試験管を逆さまにして試験管立てに刺し、コルク栓もその隣に置いて乾燥させる。
ロザリオは、珠に曇りが無いようにしっかりと磨く。
磨くといっても、この後寝る前のお祈りをするのにどうせ指で手繰って触るのだけれど、退魔をした後は、一度きれいに磨いた方が落ち着くのだ。
眼鏡拭きで一珠ずつ磨いていき、最後に先端に下がっている十字架を磨く。
このロザリオを使い始めて、どれだけ経ったのだろう。十字架にあしらわれているキリストの像は、もうだいぶ摩耗してしまっていた。
「……洗礼を受けてから、もうだいぶ経ったな……」
僕が洗礼を受けたのは高校生の頃。幼い頃に夢で天使様を見て以来、神様は絶対に存在する物だと信じているし、敬愛するべき方だと、思っている。
クリスチャンだと言う事を学校で言うと、それを茶化されたり、なじられたりすることも少なくなかった。
けれども、これは僕の信じる物であるし、曲げる気は一切無い。
正直言って、信じる物を茶化されて辛い思いをしたことは何度もある。このまま自分の信仰を否定されて生きていくのかと思い、泣きたくなった事もあった。
その辛さを拭ってくれたのは、勤やイツキのような同業者だ。それに加えて、大学時代に出会った友人が、僕がクリスチャンであると言うことを笑わずに受け入れてくれたのが、どうしようも無く嬉しかったのを覚えている。
その友人は今厳しい立場にいるけれども、今度は僕が、その友人を支える一助になれればと、そう思っている。
ロザリオを磨き終わって、時計を見るともう深夜だ。
僕はロザリオの輪の部分を握り、一珠ずつ手繰って祈りを始めた。
部屋の中に置いた、少し大きな作業台。
その上にはノートを開いたくらいの大きさの紙と製図用のシャープペンシル、コンパス、下が透ける方眼定規、それから三分の一スケールの洋服の型紙が置かれている。
作業台に向かう椅子の横には、小さなサイドテーブル。その上には、白地にワンポイントの入った丸いティーポットと、お揃いのティーカップとソーサーを置いてある。
ポットからカップへ、紅茶を注ぐ。冷めてしまったせいか、香りは余り立っていない。
カップを手に取り、口を付ける。人肌ほどの温度の紅茶は、軋むように渋かった。
「ふう、少し根を詰めすぎてしまったかな」
休憩用に紅茶を淹れたのに、蒸らしている間に作業を進めていたら、こんな事になってしまった。
僕は、退魔師以外にも副業を持っている。
勤務時間の決まっている仕事だと退魔師の仕事がやりづらくなるので、所謂在宅ワークだ。
大学時代、正確には、僕が通っていたのは短大なのだけれど、服飾を専門に学んでいたのでそれを生かして、今は思い出の服を小さく仕立て直すと言う仕事をしている。
仕立て直す、と言っても、僕がやっているのは型紙を引くところまでで、型紙を仕立てをしている店に納入してお給料を貰っている。
そうだね、パターンナーと言えばわかりやすいかな?
勿論、人間の服の型紙を引くことも出来る。けれどもそれは、僕が仕事にするには制約が多すぎるのだ。
今請け負っている型紙の仕事は、そう頻繁に入る物では無いし、時間の自由が利く。だから、この仕事を副業に選んだ。
紅茶を飲み干し、また型紙に向かう。
神経を使う仕事で疲れるけれど、これも好きな仕事だからね、文句は無いよ。
そう言えば明日、短大時代の友人と博物館に行くのだった。本当は恋人と一緒に行きたいのだけれど、明日は平日だ。大学に通っている彼女と行くのはまたの機会にして、友人と楽しむことにしよう。
翌日、お昼時よりも少し前に、友人と博物館の最寄り駅で待ち合わせをしていた。
僕に合わせて国鉄の駅で待ち合わせているけれど、彼は私鉄に乗ってくるはず。細々と気を遣ってくれている友人には、いつも感謝しているよ。
友人のことを考えながら改札の近くにある銅像の前で待っていると、外套を着た袴姿の男性が手を振りながら僕の方へやって来た。
「ジョルジュお待たせ。
もしかして結構待ったかな?」
「やぁ、ごきげんよう。悠希。
多少は待ったけれど、そんなに長くは無いよ。
それよりも、君の方がここに来るのに足労したろう」
「ちょっと離れてるけど、博物館行くのにこっちの方には来なきゃいけないから、あんまり気にしないでね」
そう言って、気弱そうだけれども優しい笑みを浮かべている彼は、僕の短大時代の友人で、新橋悠希という。
悠希は、僕がクリスチャンであると言うことを知っても、からかったりなじったりすることをしなかった、ありがたい友人だ。
取り敢えず、博物館に行く前に早めの昼食だな。僕は悠希を誘い、駅に併設されているショッピングモールのレストランへ向かう。
昼食を食べてから博物館に行くのなら、お昼時に待ち合わせても良いと思われるかも知れない。しかし、早めの昼食にするのには理由がある。
実は、悠希は食事をするのがとても遅いのだ。
良く噛んで食べているから。と言うのも有るのだろうけれど、彼は普段料理を作ったり食べたりする気力が無いと言うことで、医者から液体栄養缶を処方されている。
もう何年も、普段あまり食事らしい食事をしていない悠希は、普通の料理を食べるのに手間取ってしまい、とても時間が掛かってしまうのだそうだ。
そんな状態なのに、彼は一人暮らしをしている。家族と仲が悪いわけではないみたいなのだが、どうしても一人暮らしを続けなくてはいけない理由があるらしい。
一体どんな理由なのか、それは訊けないでいるけれども。
たっぷりと時間をかけて昼食を食べた後、博物館へと向かう。
今の期間は書の特設展をやっていると言うことで、それが目当てで来た。
正直なことを言うと、僕は書について詳しいわけでは無い。悠希も、書はよくわからないと言っていた。
だけれども、僕は書の時に力強く、時に流れるような線が好きだし、悠希もどんな言葉が綴られているのかを想像するのが好きだと言っている。
展示室の前で貸し出しをしている音声ガイドを受け取り、二人揃ってヘッドホンを頭にかける。
平日なせいか幾分閑散とした、薄暗い展示室の中で展示品をじっくりと眺めながら、音声ガイドを聞く。
美術館や博物館では、こうやって音声ガイドを借りることが多い。展示されているパネルに書いていないことも解説されているし、文字と作品の間で視線を往復させる事も無く済むからだ。
ふむ、今回の音声ガイドを吹き込んだ人は、随分と流暢に話すし、聞き取りやすいね。
この音声ガイドがCDになって販売されていたら、買っていたかも知れないな。
展示室を回り終わり、ミュージアムショップで図録も買って。博物館併設の休憩所で、飲み物を飲みながら悠希と二人で話をして居る。
「そう言えば、悠希が書に興味を持ったきっかけは何なんだ?」
「きっかけ? 高校の時に本格的な書を初めて見て、すごいなって思ったんだよね。
それで、美術館とか博物館でたまに見るようになったんだ」
悠希は、高校の話をする時いつも楽しそうだ。なんでも、学校の授業や部活が楽しかったのだという。
だけれども、中学以前の学校の話は余りしたがらない。詳しくは聞いていないのだが、小学、中学と、いじめられていたらしい。
その時の不満をもっと吐き出せば楽になれるだろうのに、悠希はそれをしない。
どんな嫌がらせをした相手であっても、悪口を言ったり、悪評を広めたりしたくないのだそうだ。
こんなにも優しく、清廉な彼が、聖職に就いたらどれだけの人々が救われたのだろう。
そう思っても、悠希はクリスチャンでは無いし、無理に改宗させることも出来ない。
何より悠希には、目標があった。
今は医者から就業を禁じられている身だから出来る事だけれど。と言っていたけれども、悠希は小説家を目指して、日々執筆をしていて、出版社に投稿もしている。
賞を貰ったと言う話はよく聞くのだけれど、小説が出版されるという話はとんと聞かない。小説家というのも、厳しい世界なのだろう。
投稿して賞を取ったと言っても、なかなか信じられないと言う事もあるだろう。だが、悠希は小説の賞金で生計を立てていると言うのも有り、実際それで生活をして居るのを見ると、嘘では無いのだなと思う。
ただ、悠希が小説家を目指しているのは良いのだが、問題が一つ。
「悠希、この前小説大賞に応募して賞を貰っただろう? その後、どうなったんだい?」
「え? あ、あの、また出版社が潰れちゃった……」
「本当に運が無いな」
悠希の投稿先が悪いのか、賞を貰う度に出版社が潰れるのだ。
これは一体どういう事なのだろうな。不思議ではあったけれども、これも神様が乗り越えるべき試練として与えている物かも知れない。
博物館を後にし、夕食時よりも前に家に帰れるように、悠希と別れた。
悠希は犬を飼っているので、その食事の用意をしなくてはいけないのだ。
博物館で買った図録を持ち、電車に揺られる。
偶には勤やイツキを誘っても良いのだろうが、あの二人が美術的な物に興味があるかどうかわからないので、どうしても美術の素養がある恋人か、悠希を誘いがちになってしまう。
何とも無しにスマートフォンを取り出し、電話帳を眺める。
「でも、今度駄目なのを覚悟して、誘ってみても良いか」
そう言えば、あの二人と話す時は近況か仕事のことばかりだなと、改めて思った。
ある日のこと、僕のスマートフォンに仕事のメールが入っていた。
メールの送信元は、いつも僕に仕事を依頼してくれている、金町ハルと言う人物だ。
ハルは医者で、普段は難病の、特に筋ジストロフィーと言ったかな? それの治療法を研究している。
研究の過程で、実際に患者と会って話したりすることもあるらしいのだけれど、どの患者も自分が長く生きられないことを知っていて、中には神に救いを求める者も少なくないのだという。
救いを求めるのは、患者だけでは無い。患者の家族も同じだ。
ともすればカルトに傾倒してしまいがちなその家族を、正しく導いて欲しいと、そう言う依頼をハルからはよく受ける。
メールには、いつも通りこう言った仕事で問題が無いのなら、患者の家族に僕を紹介すると書かれている。
勿論、そう言った相談を受けることも、僕の大事な仕事だ。問題は無い。その旨をメールに書き、返信をした。
それから数日後、僕はハルから紹介された家族の元へ、話を聞きに行った。
招かれた家の中に入り、居間のテーブルを挟んで僕と、中年の女性とで向かい合って座っている。
この家の十代後半になる娘は、筋ジストロフィーを患っていて、その介護といつ亡くなるのかという不安で、母親は疲れ切っている様子だった。
「神様に、神様にお願いすれば、この子の病気は治るのでしょうか」
この言葉は、ハルから紹介される依頼主から、ほぼ確実に聞かされる言葉だ。
神の奇跡を願え。そう言うのは簡単だけれども、現実はそう上手く行く物では無い。
「神様は、我々が善く生きているかどうかを常にご覧になってくださっています。
しかし、奇跡はそう簡単には起こして戴けません」
「それじゃあ、神様は何のために居るんですか!」
願いを叶えて貰うために、神様に縋りたい気持ちはわかる。けれども。
「神様は、救いの為にいらっしゃいます。
日々の生活の中で祈り、祈ることにより心に平安をもたらしてくださいます」
泣き崩れる母親に、ハンカチを渡し、話を続ける。
「神様に救いを求めて、病を治して欲しいと言う気持ちはよくわかります。
しかし、神様が起こす奇跡はそう言った安易な物では無く、もっと遍く人々に恩恵をもたらす物なのです」
「それは一体、どんな奇跡なんですか?」
僕が渡したハンカチで涙を拭いながら、母親が訊ねる。僕はそれに答える。
「まず、娘さんが罹っている病気が、病気だとわかったことが奇跡の一つです。
そして、その病気の治療法を探す者が現れたと言うのも、奇跡の一つです。
更に奇跡をもたらされるとしたら、それは治療法が見つかる。と言う事でしょう」
僕の言葉に、母親は俯いたまま、更にこう訊ねてきた。
「それなら、私に出来る事は何なのですか?」
ハンカチで目もとを押さえ、震える声でそう言う母親。
きっと今までひどく辛い思いをしてきたのだろう。どれほど辛かったのか、それは僕の想像の及ばない所だけれども。
「神様に祈り、少しでも心を落ち着けてください。
そして、カルトや悪徳商法に手を出さず、堅実な生活を送って下さい。
生活が崩れてしまったら、娘さんを支えることは出来なくなりますし、苦しくなってしまうばかりです」
この言葉で、納得しただろうか。
もしかしたら、こう言う言葉は患者や家族を疵付けてしまうのかも知れない。けれども、安易な慰めは相手のためにならないし、絶望を増してしまうだけだ。
母親は少し落ち着いたようで、ハンカチをテーブルの上に置いている。
僕はそっとハンカチを手に取り、母親に訊ねる。御守りは必要ですか? と。すると彼女は、悪い道に踏み外さないよう、御守りが欲しいと言った。
僕はこう言った仕事の時にいつも持ち歩いている鞄から、丸いビーズが十珠と、十字架があしらわれた輪っかを取り出す。
これは、お祈りの時に使う簡易型のロザリオだ。
実際に彼女がお祈りをするかどうかはわからない。けれども、持っているだけで安心するのなら、渡した方が良いだろう。
「これを、御守りとして持っていて下さい」
そう言って、母親にロザリオを手渡す。
勿論、僕はこれも仕事なので、今回の相談料以外にこのロザリオ代も実費で払って貰うことにはなるけれど、悪徳商法に引っかかるよりはずっとマシだろう。
母親は不安そうにこう訊ねる。
「もし無くしてしまった場合はどうするのですか」
勿論、その場合も想定している。
「無くなった時は、あなた方に降りかかる災いの身代わりになったと言うことなのですから、心の中でお礼を言って下さい。そして、御守りが無いと不安なのなら、また僕に連絡して下さい」
そう母親に伝えると、彼女は小さなロザリオをぎゅうと握りしめ、お礼を一言言った。
あの仕事から数日後、僕はハルと一緒に夕食を食べる機会があった。
久しぶりにゆっくり出来る時間が作れたから、偶にはどうかと誘われたのだ。
僕は基本的に、退魔の仕事の依頼人と個人的に親しくすると言う事はあまりない。
けれども、ハルは僕に相談を任せた患者の現状報告をしてくれているし、僕もハルにどの様な感じで対応をしたか。と言う報告をするので、こうやって会うことが偶にある。
ああ、現状報告とかは、プライバシーを侵害したり仕事の機密事項を漏らしたりしない範囲でのことなので、安心して欲しい。
今のところ、僕に相談してきたハルの患者は、カルトや悪徳商法に引っかかっていると言う事は無いそうで安心している。
ハルはいつもにこにこしていて、何も悩み事が無いように見える。
けれども、偶にその笑顔が泣いているように見えることが有って、訊ねたことは無いのだけれど、きっとそう言う時は、患者が亡くなった時なのだろうと、そう感じた。
食事をしながら、ハルと雑談をする。その中でふと、僕が今まで疑問に思っていたことを訊ねる。
「そう言えば、ハルは医者なのに、僕みたいな胡散臭い退魔師を良く信用する気になったね」
するとハルは、コーンポタージュをスプーンで一口飲んで答える。
「そうだね。確かに、一般的に退魔師というのは胡散臭い職業だろうと思う。
けれども、そう言った人達が必要だというのはわかっているからね」
「質の悪い同業者も、沢山居るよ?」
「勿論、それも知っている。
実は、ジョルジュに会うまで何人か信用ならない退魔師に会ってはいるのでね。
患者に紹介する前に、ちゃんと僕が相手を見極めているよ」
なるほど、むやみやたらと依頼しているわけでは無かったのか。
しかし、ハルは何故、退魔師が必要な職業だと、そう言う結論を出すに至ったのだろうか。
それを訊ねたら、ちょっと君には言えないね。と返され、ハルの過去には何が有るのだろうと、小さな疑問が出来た。
パターンの仕事も無く、退魔の仕事も無いある平日、僕はチャペルショップへと足を運んだ。
ここで売っている簡略式のロザリオを買うためだ。
十珠連ねたロザリオは、ブレスレット型の物もあるのだけれど、着ける習慣のある人ばかりとは限らないので、先日のような相談の依頼を受けた時、相手に渡すのは手の平に乗ってしまうような、小さなロザリオにする事が多い。
まぁ、こちらの方が寄り安価だから、実費で譲ると言う事になっている以上、依頼人の負担が少しでも軽くなるだろうというのもあるけれど。
しかし、ハルが回してくる仕事は、危険は少ないけれど辛いね。
自分が想像出来ないような苦しみを味わっている人に、どんな言葉をかければ良いのか。いつもそれで悩んでしまう。
僕だって、思うことはあるよ。神様がこの世から苦しみを取り除いて下さったらと。
でも、それは無理なことなんだ。
依頼されていたパターンを引き終わり、翌日依頼先へ発送しようと準備をしていたときのこと、僕のスマートフォンにイツキから電話が入った。何かと思って出てみると、これから退魔に使う道具を買いに行くから見に来てみないか。と言う誘いだった。
言われてみると、僕はイツキが何を使って退魔をしているのか全く知らない。
勤が何を使っているか知っているかと言われると、実はそっちもよくわかっていないのだけれど、勤は数珠を使っているのだろうかという推測が立てられる。
けれども、イツキに関しては全くわからないのだ。
勤も見に行くみたいだし、この際僕もイツキが何を使って退魔をしているのか知って置いた方が、今後仕事がやりやすくなるだろう。
僕は待ち合わせ場所を聞いて通話を切り、家を出る準備をした。
しかし、お母様が夕食の準備を始める前に連絡が入って良かった。作り始めてから、夕食は外で食べる。等とは余り言いたくないからね。でも、心配かけてしまっただろうから、明日の朝か、昼か、その辺りの食事は僕が作ろう。
そんな事を考えながら電車に揺られて、待ち合わせ場所に着いた。
待ち合わせ場所は秋葉原駅の電気街口で、僕達三人が待ち合わせをするときはここが多い。僕もイツキも勤も、ここから近い所に有る個室の飲み屋を仕事で使う事が多いので、馴染みがあるからと言うのは有る。
改札から出ると、すでにイツキと勤が駅ビルの前で待っていた。
「やぁ、イツキ、勤、ごきげんよう。
待たせてしまったかな?」
「いんにゃ、そんなに待っては無い」
「俺はさっき来たとこだな」
そう軽く挨拶をして、イツキは早速退魔の道具を買いに行くという。
ん? 秋葉原にその様な道具を扱った店などあっただろうか?
不思議に思いながらイツキに着いていくと、駅からほど近い、一体どんな店なのかわからないビルに連れて行かれた。
そう言えば、このビルは目立つからあるのは知っていたけれど、何の店なのだろうか。今まで入ったことが無かったな。
こんな目立つところで法具や呪術的な物を売っているのか。と訝しがりながらイツキの後について店内に入ると、予想外の物が目に入った。
「おい、イツキ」
「ん? なに?」
「この店は何だ」
「え? 見ての通りアダルトショップだけど?」
ちょっと待てどういう事だ? 退魔の道具を買いに来たんじゃ無いのか?
僕が余りのショックで入り口から動けずに居ると、イツキは店の奥に行ってしまい、やれやれと言った様子の勤に腕を引かれて僕も震える脚で店内に入ることになった。
店の奥に有るエレベーターに乗り、イツキは慣れた手つきで階数ボタンを押す。
ゆっくりと動くエレベーターの中で、イツキに訊ねた。
「今日は退魔の道具を買いに来たと聞いたのだけれどね?」
「うん、そうだけど?」
解説が無いな。
僕が困惑していると、勤が溜息をついてこう説明してくれた。
「悪霊に限らず何だけど、霊って結構性的な物を苦手とする傾向があるんだよ」
「勤は、イツキがこう言う物を使って仕事をしているのを知っていたのか?」
「いや、今初めて知ったけど、そう言う事は話には聞いてたから」
勤の説明に無理矢理納得はしたが、どうにもこう言う店に足を踏み入れるのは気が引けると言うか、抵抗がある。
こわい。イツキが何を買う気なのか、それを考えると既にこわかった。
エレベーターを降りると、そこは明るめの照明が照らすフロアだった。
一瞬、そんなにいかがわしい場所では無いのかと思ったが、陳列されている商品を見て絶句した。
いや、こう言う物が有るのは知ってはいる。知っているけれども!
思わず腰を抜かしそうになって勤の腕にしがみついていると、イツキが不思議そうな顔をして僕に声を掛けてきた。
「ジョルジュどうしたんだよ。
恋人とイチャイチャする時こう言うの使うだろ?」
「そっ……少なくとも僕は使っていないし、使うようなことはまだしていない!」
思わず泣きそうになっている僕の腰に勤が腕を回し、なんとか支えてくれている。勤が居なかったら、僕はこの場にへたり込んでいたかも知れない。
「おい、大丈夫か?
……しゃーないな。イツキ、こいつ連れて避難したいんだけど、ジョルジュでも耐えられそうな場所こんなかに有る?
無かったら外に出て待つけど」
困ったような声でそう訊ねる勤に、イツキは棚から取り出した品物を両手に持って答える。
「下の階にコスプレ衣装扱ってるところがあるから、そこならだいじょぶじゃね?
って言うか、ジョルジュこう言うの駄目かー。そうかー」
「そっか、じゃあ俺達その階に避難してるわ」
「おうよ。すまんね」
イツキと勤のやりとりを震えながら聞き、そのまま後ろを向いてエレベーターのボタンを押す。
情けない話だけれども、エレベーターに乗るまで、ずっと勤に支えられていたのだった。
エレベーターで移動し、今居るフロアではなにやら服が沢山並べられている。
何というか、その、余り普段着て歩くと言う意味では実用的で無い服が多い気はするが、先程のフロアよりはだいぶマシだ。
ここがアダルトショップだと言う事は、ここに並べられている服もそう言う用途の物なのだろうが、単純に作りが気になってしまい、何着か手に取ってじっくりと見てしまう。
ふと、勤が声を掛けてきた。
「なにか彼女さんに着せたい服とかあるのか?」
恋人に着せたい服。そう言われて手に持っている服を見直すと、どうもピンとこなかった。
「そうだな。恋人に着せるのならもっと作りの良い服が良いね。
それに、ここに有る服だと肌の露出が品の無い感じになりそうだ。
彼女はいつも華麗な洋服を着ているけれども、着て貰えるのなら着物に袴なんて良いかもしれないね。ちらりとしか見えない帯にも気を遣うところとか、日本国らしい奥ゆかしさがあるだろう?」
「お、おう」
着物に袴か。自分で言って何なのだけれど、きっと彼女によく似合うだろう。是非とも着て貰いたい物だ。
しかし、いきなり着物を着て欲しいと言っても困ってしまうだろうね。新品の着物を仕立てて貰ってプレゼントする、と言うのは僕の経済状況からして現実的では無いから、古着で良い柄の物を探してプレゼントしようか。卒業シーズンになると袴も売っているそうだしね。
どんな着物が良いだろうか。織り柄も良いけれど、染め付けた華やかな柄も捨て難い。
恋人にどんな着物が似合うか、夢見心地になりながら思いにふけって、ふと勤の方を見ると、困ったような顔をして僕の方を見ていた。
イツキの買い物が終わり、いつもの飲み屋で夕食を食べている時に、勤がイツキに訊ねた。
「所でイツキさ、その、アダルトグッズを除霊具として使ってて、家族に見つかったらどう言い訳するん?」
その問いに、イツキは芋焼酎をぐっと呷り、情けない顔をして答える。
「実は結構前に妹に見つかってさー。
妹は『あ、察し』見たいな顔してたけど、その後気まずさがマッハで一人暮らし始めた」
「心中お察しします」
妹に見つかったのか。それは……ご愁傷様としか……
その後少しイツキの嘆きを聞いて、それから僕が疑問に思っていた事を訊ねる。
何故悪霊が性的な物を嫌がるのか。と言う事だ。
するとイツキはこう答える。性的な物というのは、すなわち生命に繋がるので、悪霊たちが嫌うのだろうと。
そう説明して、陽根で殴ると効果覿面だぜ! と言って紙袋から品物を出そうとしたイツキに、勤がアームロックを決めた。
春の日差しも暖かくなってきた頃、僕は恋人と連れだって出かけることになった。
デートと言われれば、そうなのかも知れないけれど、今日は少し違う感じの用事だ。
向かった先は、公営の会館で、今日はここでフリーマーケットのような催し物が行われる。
その催し物は、フリルがたっぷりとあしらわれた服を着た、令嬢のような婦女子が集まるもので、販売されている品物も、手の込んだ華やかな手作り品が多い。
いつもはこの催し物に恋人と共にやって来て、品物を見たり買い物をしたりして楽しんでいるのだけれど、今日は初めて、出店側として参加することになっている。
荷物はもう宅配で送ってしまっているので、会場までの道のりは貴重品など、最低限の持ち物だけで大丈夫だ。
ふと、恋人が僕の腕に手を掛けた。
「ジョルジュ、私、お品物を販売する側になるのは初めてですの」
「ああ、そうだね、フランシーヌ。
不安かい?」
「不安はありますけれど、貴方を頼りにしていますわ」
そうたおやかに声を掛けてきた、僕の恋人のフランシーヌ。
今日は狭い通路を通ると言う事で、いつものように大きく膨らませたスカートのドレスでは無く、細身だけれども華やかなバッスルドレスを着ている。
彼女は祖国フランスで、領民に追われ亡命してきた貴族だ。と、言う話と普段の服装を合わせて見聞きした人は大体、そんな時代錯誤な人物が居るのか。と言うのだけれど、居るのだから仕方ないね。
フランシーヌと僕が知り合ったきっかけは、お父様だ。
僕のお父様は日本国の軍人で、フランス人のお母様を娶った。フランス語を流暢に話せる日本国軍人というのは余り居ないので、フランシーヌの保護を、僕のお父様とその部下たちが担っている。
実は、今日もこっそりと護衛の軍人が付いてきているのだけれど、混乱が起こらないように、会場内では気付かれないようにしないとね。
会場に入り、届いていた荷物と置かれている備品を確認する。今日僕が販売する品物は洋服と、それに合わせるネックコルセットだ。
品物の準備は全部僕がやって、フランシーヌには座って待っていて貰おうかと思ったのだけれど、フランシーヌが余りにも楽しそうに、自分も手伝いたいというので、ネックコルセットの展示を手伝って貰うことにした。
荷物の中から台に敷く布と小さなラックを出し、フランシーヌに指示を出す。
彼女が台の上に並べている間に、僕は服を数着、ハンガーラックに掛けていく。
それから、特に目玉になる服を、生成りの布で出来た人型の台、トルソーに着せつけた。
そうしている間にも、フランシーヌも展示をし終わったようで、優雅に椅子に座って居る。
落ち着いた色の布に並べられたネックコルセットは、僕が事前に展示の練習をしたときよりも、映える配置で置かれていて、やはりフランシーヌはセンスが良いのだなとしみじみ思う。
実は、今日販売するネックコルセットと同型の物をプレゼントしていたのだけれど、気を利かせてそれを着けてきてくれているし、服も合う物をちゃんと選んでくれている。
美しいだけで無く気配りまで出来るなんて、フランシーヌはなんて素晴らしい女性なんだろう。
「ありがとう、フランシーヌ。
きれいに並んでいるね」
「だって、そういう風にしておくれと言ったのは、ジョルジュですもの。きれいには並べますわ。
それにしても、何だか楽しくなってきました。始まるのが楽しみですわね」
「ああ、そうだね」
今までこういった事で手を煩わせたことが無いせいか、彼女には新鮮に感じられるのだろう。
ふと、フランシーヌが僕に言った。
「そう言えば、今日も悠希さんと匠さんがいらしているのでしょう? ご挨拶に行かなくて良いのですの?」
「ああ、そうだね。販売開始時刻が来てからだとなかなかここを離れられないから、これから挨拶に行こうか」
「はい。ご一緒しますわ」
貴重品を持ち、フランシーヌと一緒に狭い会場内を回る。
出展者はなかなかに多いけれど、悠希とその妹の匠さんを見付けるのは容易だった。
黒い布を敷き、黒い金網にネックレスを掛けている、真っ黒いミニスカートのドレスを着た少女に声を掛ける。
「やぁ、匠さん、久しぶり。
今日は悠希も居るのだよね?」
「あ、お久しぶりです。
お兄ちゃん、ジョルジュさんとフランシーヌさん来たよ」
匠さんが網の向こう側に声を掛けると、黒いスーツにシルクハットを被った悠希が、顔を上げて笑顔を向けた。
「ジョルジュ、久しぶり。
フランシーヌさんもお久しぶりです」
気恥ずかしそうにそう言う悠希に、フランシーヌが話しかける。
「お久しぶりです。
ところで悠希さん、こちらに掛けられているネックレスは、悠希さんと匠さんのどちらが作りましたの?」
「えっと、ビーズを編んでるモチーフを作ったのは僕で、ピンを曲げるのは全部匠がやってます。だから、殆ど匠が作った感じですね」
「まぁ、そうなのですの?
悠希さんも匠さんも、素晴らしい技術を持っておいでなのですね」
なるほど、悠希が器用なのは前から知っていたから、アクセサリーを作っているのは全部悠希だと思っていたのだけれど、匠さんもなかなかに器用な物だ。
前にアクセサリーをじっくりと見せて貰った事があるけれど、なかなかに作りが良いし、もしフランシーヌが気に入る物が有るのなら、プレゼントしたいけれどね。
僕と、フランシーヌと、悠希と、匠さんと。四人で話している間金網に下がっているネックレスを見ていたのだけれど、よく見ると珠を十個区切りで、間に大きな珠を一つ入れるという作りの物が目に入った。
Y字になっている交点にメダイが配され、先端には十字架が付いている。
これは、ロザリオだ。
日本国ではクリスチャンが少ないせいか、ロザリオをアクセサリーとして扱う人も少なくは無い。ただ逆に、クリスチャンに配慮してそう言う事はやめろ。と言う自称『無宗教』の人々が居るのだけれど、クリスチャンである僕の立場から言わせて貰うと、配慮して欲しいかどうかは、信仰を持つ各々が声を上げるべき物で、宗教という物を見下している輩にどうこう言われる筋合いは無い。
それに、ロザリオだけで無く数珠もそうなのだが、持ち主が祈りの道具だと思って持っているから祈りの道具になるわけで、アクセサリーだと割り切っているのなら、それはアクセサリーなのだと、僕は思う。
ロザリオばかりに目くじらを立てて、だいぶ前から出回っている数珠ブレスレットに言及しないというのは、理不尽さというか疑問を感じるしね。
「ジョルジュ? どうなさいましたの?」
暫くぢっと黙っていた僕に、フランシーヌが声を掛ける。
「ああ、すまない。少し考え事をしていてね」
考え事をしていたのは事実なのでそう答えると、匠さんが頬を膨らませてこう言った。
「もしかして、ロザリオをアクセサリーにするのなんか不謹慎だって、言いたいんですか?」
いやぁ、鋭いところを突いてくるね。だけれども。
「そうでは無いよ。アクセサリーとして扱おうが、法具として扱おうが、大切にされることには変わりが無いだろう。どういう扱いをするかは持ち主次第だよ」
「そうですか?」
僕の言葉に、何故か匠さんよりも悠希の方がほっとした顔をしている。もしかして、今まで引っかかっていたのだろうか。
匠さんに一言断りを入れて、ロザリオを一本、手に取らせて貰う。
「ああ、随分と出来が良いね。匠さんはマイスターと言っても良いのでは無いかな?」
「もう、褒めても何も出ないんですからね」
「ふふっ。わかっているよ。
でも、そうだね。僕のロザリオに何か有ったときは、修理を頼むかも知れないね」
そうしているうちにも開始時間が近づいて、僕とフランシーヌは悠希と匠さんに軽く挨拶をして、自分の持ち場へ戻った。
パターンを引く合間に、今日も渋いお茶を飲む。
この、根を詰めすぎてしまう癖は直した方が良いと思うのだけれど、なかなか直らないね。困った物だ。
人肌ほどの紅茶を飲み干し作業に戻ろうとしたその時、スマートフォンがメールを着信した。
誰からかと思ったら、送信元はハルだ。
今回も迷える子羊を導く仕事か。そう思いながらメールを開くと、どうにも様子が違った。
なんでも、ハルの知り合いの内科医が、退魔師を探しているのだという。
何故内科医が? その疑問を抱えながらメールを読み進めると、最近ひどい貧血に悩まされているある患者が、これは悪霊の仕業だと、そう言っているのだそうだ。
内科医ははじめ、それは思い過ごしだと言い聞かせようとしたらしいのだが全く聞き耳を持たれず、このまま変な宗教や悪徳商法に引っかかる前に、専門の退魔師から何事も無いと説明して欲しい。と言う事でハルが相談を受けたようだ。
なるほど。医者もなかなかに大変な物だな。
その仕事を受けることは出来るけれども、相談料はいただくよ。と言う旨をメールにしたため、返信した。
数日後、正式に依頼を受け依頼人の家へと向かった。
その家は都内では有るけれど長閑なところにあって、古くて大きかった。
依頼主に案内され家の中へお邪魔すると、悪寒がした。これは依頼主の思い過ごしでは無く、本当に悪霊が憑いているのかも知れない。
居間に通され話を聞くと、依頼人の貧血がひどくなったのは、ここ最近のことらしい。
話を聞きながら、家の中に居るであろう悪霊の気配を探す。すると微かに、生者では無い物の声が聞こえた。
こっそりとポケットからロザリオを取り出し、握りしめる。すると、依頼人の背後に大きな影が現れた。
「……血の欠片を返せ……」
影はそう言って、依頼人の首筋に爪を立てる。
血の欠片とは一体何だ? 実際に生物の血液だったとしたのなら、布に染みているとかでも無い限り、つい最近まで現存していたことは考えづらい。そして、布に付いた血液は普通『欠片』とは言わないだろう。
依頼人の話を聞きながら、考えを巡らせる。そしてふと、思い当たった。『血』の名を冠した宝石が有った筈。
宝石であるとしたら、最近までこの家に現存していた可能性は高いし、不用意に売り払ってしまうことも考え得る。
僕は依頼人に訊ねた。
「最近、質に出したり、誰かに譲ったりした宝石はありませんか?」
すると依頼人は答える。先日掃除をしたときに棚の中から赤い石が出てきたのだけれど、どういう物なのかわからないし興味も無い物だったので、少しでもお金になればと質に出したらしい。
宝石の話が出た途端、影は依頼人に食らいつこうとしたので、それを止めるように念を送る。元の宝石を見付けるのは難しいが、代わりになる物を探してくるので、それで許してくれないか。と。
すると影は、震える声でこう言った。我が子を念うための依り代となる物を用意するなら許してやろう。ただし、必ず血の名を冠した物でなければいけないぞ。そして、言葉の後に涙を零した。
影とやりとりをした後、依頼人に事情を話し、相談料以外に実費で支払って貰うことになるけれど、悪霊が交換条件としている宝石をこちらで用意すると言う旨を伝えた。
すると、それで何とかなるのなら頼みたいが出せる金額には限度があると返された。
自分で蒔いた種なのに虫のいい話だとは思ったけれども、僕だって経済活動をして生活をしている人間だ。お金が無限にでてくる物では無いというのはわかっている。
取り敢えず出せる金額の上限を訊ね、その範囲内で探してくると言うことで、この日は依頼人の家を後にした。
しかし、血の名を冠した宝石を、どこで入手するか。最近流行りのパワーストーンの店では扱っていないだろう。かと言って、ジュエリーになった物を買うのは効率が悪すぎる。
そう言えば、悠希の実家が宝石店を営んでいるから、相談してみるか。宝石店と言うくらいだからジュエリーになった物で無いと売って貰えないかも知れないが、もしそうでも石だけで買える店を紹介して貰えるだろう。
『え? 血の名前が付いた宝石?』
悠希に電話をかけ訊ねると、悠希はジュエリーとしての加工は必要か否か。石だけの状態で良いのかと言うことを訊ねてきた。
「ジュエリーにはなっていなくて良いんだ。
もし悠希の家に有ったら、石だけで買えるかな?」
『え? 買っちゃうの? 本当に大丈夫?』
ん? どういう事だ? 不思議に思ったけれども、取り敢えず何という名前の石で、いくらくらいなのかを訊かなくては。
「一体どんな石なんだ?
もしかして希少な石……とか?
価格も教えてくれると助かる」
すると悠希は一旦口ごもって、おずおずと答えた。
『希少と言えば、今は希少な石だね。
ルビーの中でも最上級とされるピジョン・ブラッドって言うのが今在庫であるけど、それが確か一個二百万円くらいだったかな』
無理だ。
依頼人から提示された金額と二桁は違う。僕のポケットマネーから出せなくは無いけれど、生憎、退魔の仕事は慈善事業では無い。ここで僕が大赤字を出すわけには行かないのだ。
「あの、悠希。
流石にそのピジョン・ブラッドというのは高価すぎる。もっとこう、庶民でも手が出せそうな石で無いか?」
背中に嫌な汗をかきながらそう問いかけると、悠希は電話の向こうで唸っている。
もしかして他には無いのか? 僕が赤字を被るしか無いのか? 赤字は困るが依頼人を見捨てるわけにはいかない……
不安で頭痛を感じながら悠希の返事を待っていると、明るい声が聞こえてきた。
『あ、他にもあるね。
血赤珊瑚って言う真っ赤な珊瑚があって、今ではそれも希少だけど、ピジョン・ブラッドよりはだいぶ値段下がるよ』
「そうなのか? い、いくらくらいなんだ?」
悠希は石に関しては少し金銭感覚がずれているので、値段が下がると言われても予算を越える金額を出される可能性がある。
爆ぜそうな動悸を感じながら、悠希の言葉を待つ。そして提示された金額は。
『うちに有るのは一番良いやつでも三万円くらいかな? あんまり大きくないけど』
予算内だ! これが先に売れてしまっては困るので、すぐさま悠希に取り置きを依頼して、悠希の父親が経営している宝石店へと向かう準備をした。
それから数日後、依頼人に血赤珊瑚を渡すと、あの影は満足したようで身を潜めた。
あの影は悪い物では無いように思えたけれども、またこの石を何処かへやってしまったら、害をなすこともあるだろう。
クレームを付けられても困るので、この石を大切に家に置いている限りは悪い物は寄ってこないだろうと、そう依頼人に告げて仕事は終了した。
後日、ハルからメールが届いた。あの依頼人の血液検査をしたところ、貧血が治っていたというのだ。
『まさか本当に霊に悪さをされていたとはね。
君に頼んで良かったよ』
ふむ、いくらハルでも、あの価格の石を依頼人に売りつけたら僕のことを詐欺師呼ばわりするかと思っていたのだけれど、随分とすんなり霊の存在を受け入れてくれた物だ。
神の存在を信じる医者は、沢山居る。だけれども、悪霊の存在を信じる医者は、殆ど居ないだろう。
ハルは何故、医者という科学に裏付けられた職業で有りながら、霊の存在を受け入れ、退魔師を受け入れるのか。
それは気になるけれど、余り気にしても仕方ないね。胡散臭い輩だと糾弾してこない事に感謝しよう。
街中が明るい日差しで満たされる初夏の日、僕はいつもお世話になっている教会へ、聖水を分けて貰いに行っていた。
聖堂の中で、神父様が澄んだ水を聖別し、聖水へと変える。
そして、それを汚すことの無いよう慎重に、僕が持って来た試験管の中へと移していく。
鞄いっぱいの試験管に聖水を詰め終わった後、神父様が優しく声を掛けて下さった。
「ジョルジュ君も普段のお仕事大変でしょう。
少しここでお祈りをしていったらいかがですか? 気が晴れると思いますよ」
「はい、お気遣いありがとうございます」
鞄を持って祭壇の前から離れ、聖堂の中に有る長椅子に腰掛ける。それから、ロザリオを出してお祈りを始めた。
一珠ずつロザリオを手繰り、祈りの言葉を口にすると、心が安まっていくのがわかる。
静かな聖堂で、心安まる時間。それを感じていると、突然祭壇の方から眩い光を感じた。
驚いて祭壇の方を見ると、呆然と立ち尽くしている神父様と、祭壇の上に眩い光を放つ大きな翼を持った人型の物が目に入った。
「やぁやぁこれなるは信徒諸君。天使だよ」
優雅に結った頭髪、若葉色の翼、そして柔らかな声。天使と名乗ったその方は、かつて僕が小さかった頃、お告げを下さった天使様その物だった。
天使様を前にして椅子に座って居るわけにはいかない、慌てて祭壇の前へ行き、神父様と共に膝を着く。
「天使様、姿を顕して下さって感激の極みです。この度はどの様なご用件でしょうか?」
神父様が震える声でそう訊ねると、天使様がにっこりと笑ってお答えになる。
「今日はね、そこに居るジョルジュ君に用事があってきたんだ。
別に罰を下そうとかじゃないから安心して欲しいし、奇跡を起こすとかでも無いから慢心はしないでね」
名指しされてしまった。天使様が一体僕に何のご用件があるというのだろう。
「君たちは、他の宗派の人達をきちんと受け入れられる人間だと見込んで、この話をするけど」
そう仰って、天使様は懐から数珠のような物を取りだし、僕に差し出した。
何故天使様が数珠を? 不思議に思ったけれど、恭しく受け取ってよく見ると、僕が勤から見せて貰った事のある数珠とは、だいぶ様子が違った。
「天使様、これは一体何なのですか?」
一体何なのかがわからず、思わず訊ねてしまう。神父様も、この数珠のような物がなんなのかわからないようだ。
そんな僕達に天使様が言うには、この数珠のような物はテスピというムスリムの祈りの道具との事。
何故その様な物を僕に? 疑問に思っていると、天使様は明るくウィンクを飛ばす。
「ムスリムの救いも、よ・ろ・し・く!」
なんか無茶なことを言われた気がする。
「しかし天使様、お言葉ですが、私達とムスリムの方々では信じる物が違うのでは無いでしょうか?」
動揺した様子の神父様がそう訊ねると、天使様は顎に手を当てつつ語りかけてくる。
「君たちは、父なる神を信奉しているよね?
神を信奉するのは、今言ったムスリムもそうだし、日本国には居ないかもだけどユダヤ教の子だって。そうだよね」
「はい、そうですが……」
僕の自信なさげな言葉に、天使様は自信満々に言葉を打ち返す。
「みんな、信奉してる神はおんなじだから!」
すごくどんぶり勘定なお言葉をいただいた気がする。
「しかし天使様、僕はムスリムのことを殆ど知りません。
さまよえる魂を見付けたとき、どの様な言葉を掛ければ良いのかわからないのです」
僕が戸惑っていると、天使様は銀色の筒を僕に差し出した。
「この筒の中に、うちの管轄の子だったら誰でも導ける言葉のメモが入ってるから。これ使ってね。
『Mi estas perfekta kaj feliĉa civitano』
父なる神の元へと導く、祝福の言葉だよ」
細かい細工を施されたその筒を、天使様の輝ける手から受け取り、自分に使命が下されたのだと、改めて実感する。
天使様から受け取った物をしっかりと握りしめ、決意を天使様にお伝えする。
天使様は満足そうなお顔をして、それじゃあ、あとよろしく! というお言葉を残して、お姿を消された。
それから暫く。僕は何度か、クリスチャンの霊やムスリムの霊を導く機会があった。
『Mi estas perfekta kaj feliĉa civitano』その祈りの言葉は確かに、さまよえる魂をあるべき所へと導いていた。
夕食後、お風呂も済ませてゆったりとコーヒーを飲みながら、日記を付ける。
日記帳の脇には、清潔に保たれているレースのハンカチの上に、昔から使っているロザリオと、先日天使様からいただいたテスピが並べられている。
天使様からムスリムも導いて欲しいと言いつかったときは、なんて無理なことを言うのだろうと思ったけれども、実際は無理なことでは無かった。
宗派は違えど、誰しもが救いを求めている事には変わりが無い。僕がその一助となれることは、誇らしいし、嬉しいことだ。
今日は退魔の仕事があったのでその事を日記に書いているのだけれど、ふと背後に気配を感じた。
「ハァイ、ジョルジュ君。お仕事順調?」
その言葉と共に後ろから何者かが日記帳を覗き込む。
驚いて声も出せずに振り向くと、そこには先日お目に掛かった天使様がいらした。
「はっ、あっ、天使様!
おかげさまで退魔師の方もパターンナーの方も順調です」
慌てて日記帳を閉じ、椅子から降りて天使様の前に跪く。
指を組んで天使様を見上げていると、天使様はにこりとしたお顔で、こう仰った。
「君は真面目に仕事をしてくれているから、僕達も神も、助かってるよ」
それから、ふふっ。と笑いを零し、お言葉を続ける。
「ちょっと前にね、いや、君たちからしたらかなり昔になるのかな?
僕が目の前に姿を顕した子が居たんだよね。
その子も真面目でさ、色々頑張ってくれたよ。
君みたいに、毎日日記を付けてる子だったから、何だか思い出しちゃったなぁ」
天使様は懐かしそうに、思い出話を続ける。
「僕が姿を顕すと、そうやってすぐに跪くところも、似てるよ」
いやいやいやいや、いきなり天使様が目の前に現れたら、大体のクリスチャンは跪くと思いますよ?
暫く天使様の思い出話を聞いていたけれど、一体何故ここに顕れたのだろう。
「天使様、今回はどの様なご用件ですか?」
「ん? ジョルジュ君は僕が姿を顕すの、嫌?」
「嫌では無いのですが、その、緊張はします」
「そんな緊張しなくて良いよ~。
気楽に気楽に」
なんか無茶仰ってる。
「僕だってさー、偶には天使以外ともお話したりして遊びたいの。
わかるよね? そう言う事、あるよね?」
わかりませんから。
正確に言うと、わからなくは無いけれど、何故僕がターゲットになるのかがわからない。
無作為に姿を顕す相手を選んでいるにしても、こちらは恐縮してしまって仕方が無い。
「天使様、目の前に姿を顕すに値するお話相手は、僕以外にもっと相応しい方がいらっしゃるのでは無いでしょうか?
神父様とか、そう言う聖職者の方とか……」
僕がそう申し上げると、天使様は唇を尖らせる。
「だってー、教会の神父だからと言って信用出来る人間ばっかじゃ無いんだよ?
信用出来る子だったとしても、聖職者はみんな恐縮しちゃってお話し出来ないんだもん」
いえ、僕も恐縮してるんですけどね?
その様な感じで、天使様のなかなか適任が見つからないという嘆きと、他の天使様のお話などを拝聴し、暫く相づちを打っていた。
一頻り僕に話を聞かせて満足した天使様がお帰りになった後、日記帳に一言書き足す。
『これからちょくちょく天使様がいらっしゃると仰っていたので今後がこわい』
これは自分しか見ない日記帳だからこう言う事が書けるけれども、他の人には話せないな。
フランシーヌや悠希は勿論、勤やイツキでさえ、目の前に天使様が顕れたと言う話は流石に信じないだろう。
先程天使様がお話していた、昔よく遊びに会いに行っていたという方。彼も気が気では無かったのでは無いだろうか……
昼間の日差しは強くなってきたけれども、夜はまだ些か冷えるある日のこと、夕食を食べ終わった後に勤から電話が入った。
「勤、どうしたんだい?」
『ジョルジュ、急な事で悪いんだけど、今からこっち来れる?
今仕事中なんだけど、相手が俺の手に負えない。お前かイツキなら何とかなるんじゃ無いかと思ったんだけど』
「もしかして、悪霊と言うよりは悪魔なのかな?」
『わかんないんだけど、とにかく俺のお札とかじゃ全然ダメなんだ』
「わかった。これから向かう」
勤が今居る場所を聞き、通話を切って退魔用品が入っている鞄を持って家を出る。
電車で向かっている余裕は無いな。駅前でタクシーを捕まえるか……
勤が居るところから少し離れた場所に下ろして貰い、感覚を研ぎ澄まして勤の居場所を探る。
そんなに細い道では無いけれど、立ち並ぶビルは全て電灯が消えていて、点っているのは街灯だけだ。しかしその街灯も、明滅を繰り返している。
他の場所からは隔離されたかのような空気を感じる道を用心しながら、走って行く。
邪なる物の気配を感じる。その近くに勤は居るのだろう。
気配のする方へ走っていくと、数珠を持った右手を額の前に掲げ、異形の前で立ちすくんでいる勤を見付けた。
「勤、大丈夫か!」
「なんとか耐えてるけど、耐えるので精一杯だ」
勤の手に負えない物と言う事は、僕が対処するべき悪魔なのだろう。
異形は、大きく丸い頭を持ち、頭から無数の、太く蠢く足を生やしている。
その足で勤を捉えようとしているが、弾かれて掴めずに居る。そして、僕の方にも禍々しい足を伸ばしてきた。
内ポケットから試験管を一本取りだし、コルク栓を抜いて聖水をかける。すると、異形が向けていた足をのけぞらせたので、ロザリオを握り魔を除ける言葉を唱える。
「Ne kredu Suspektas Ne lasa iri de la lasera!」
すると異形は足をばたつかせたが、消え去る様子を見えない。
僕はロザリオを振りかざし、言葉を続ける。
「O meu aerodeslizador esta cheo de anguías!」
この言葉が効いたか? 異形は足を頭の周りに這わせ、悶える。
けれども、消え去るような様子は無かった。
こいつを消し去るにはどうしたら良いんだ? 異形が悶えている間に、思案しつつ鞄の中から追加の聖水と、乾燥したヘンルーダの小枝を取り出す。
勤も、仕事用の鞄から除霊用の石を取り出している。
お互い目配せをし、僕は聖水を振りかけたヘンルーダを、勤は石を、清めの言葉を唱えながら投げつける。
それらをぶつけられた異形は身もだえし、僕達の方へ足を勢いよくぶつけようとしてきた。
……しまった、これは避けられない!
異形の足が僕にぶつかろうとしたその時、それは弾かれ、僕が握っていたロザリオがばらばらになって弾け飛んだ。
これは、ロザリオが僕を助けてくれたのだろうか。それならば神様と天使様の加護に感謝しなくては。しかし今は、感謝を捧げている余裕は無い。異形の足が、またも迫ってきていた。
その時だった。
「勤ー! ジョルジュー! 屈め!」
突然聞こえた声に、僕と勤はその場にしゃがみ込む。
すると、頭の上に迫っていた足になにやら液体がかかり、じゅわっと音を立てて溶けた。
「ヒーローは遅れて登場するんだぜ?」
振り向くとそこには、ボディバッグを身につけ、手にボトルと鞄を持ったイツキが居た。
イツキならあの異形を処理出来るか。そんな事を訊ねている余裕も無く、イツキは持っていた鞄を勤に渡し、ボトルに入った液体を異形に向かって撒き散らしながら、駆け寄っていく。
そして、ボディバッグから棒状の物を取りだして、異形を暴打している。
異形の雄叫びに混じってイツキの声が微かに聞こえるのだが、一体どんな文言を唱えているのかまでは、わからなかった。
「勤、鞄の中からボトルを持てるだけ出して、ジョルジュと一緒にこいつにかけてくれ!」
「わかった!」
見るからに弱り始めた異形を前に、イツキが言う。勤も、すぐさまに応えて鞄からボトルを四本取りだし、その内の二本を僕に渡す。
これでこの異形を倒せるか。そう思いながら、ボトルの中の液体を異形にかける。
どろりとしたその液体を被ったところから、異形は溶けて消えていき、ついには跡形も無くその姿を消した。
ああ、これで一安心だな。
「イツキ、助かったよ。サンクス」
疲れた様子の勤が、イツキとハイタッチをする。僕も、イツキに礼を言わなくては。
「助かったよ、ありがとう。
ところで、先程あれを殴っていたその棒は、一体何なんだい?」
暗くてよく見えていなかったので、改めてイツキが手に持っている物をまじまじと見て、僕の顔から血の気が引いていく。
「こないだ買った陽根! 立派だろ!」
自慢げなイツキとは対照的に、思わず眩暈を起こしてしまった僕は、勤に支えられてなんとか倒れずに済んだ。
その後、勤とイツキがまだ夕食を食べていないというので、近くのレストランに入った。
ファーストフード店にするかという話も出たのだが、僕が余りファーストフードを好まないと言うのと、その程度でお腹が膨れる気がしない。と言う事で、今居るレストランに来た。
おかわり自由のピザを囓りながら、勤が困ったように呟く。
「しっかし、今回の依頼どうすっかな。
ジョルジュとイツキにも手伝ってもらったから、報酬を三人で分けないとだよな」
「報酬はもう受け取ってるのかい?」
「いや、俺はその場で何とかなるもの以外は内金制で、後は内容により後払い分の料金決めてるんだけど」
「それなら、事情を話して多めに払って貰うしかないのではないか」
「そうなんだけど、クレームこわい……」
僕達が協力して退魔をするのは、今回が初めてかも知れない。普段は、依頼をされた時点である程度判断して、僕達三人の中で最も適任と思われる人物に仕事を回すようにしている。
まぁ、紹介料はいくらかいただくけれどね。
「勤、あまり報酬を高くするのが気が進まないのなら、僕の分の取り分は多少少なくても構わないよ」
「そうなん?」
「結局僕は、事実上殆ど役に立っていないからね。
取り分無しというわけには行かないけれど、勤やイツキと同じだけ貰うのも不平等だろう」
「う~ん、でも、今回割とガチでやばい案件だったし、ジョルジュの取り分だけ減らすのもなぁ。
そうだな、俺が交渉頑張るか」
僕と勤が報酬の話をして居る間、イツキはずっとパスタとピザを食べている。
そう言えば、疑問に思っていたことがあるのだった。
「イツキ、少し良いかな?」
「んあ? なに?」
「先程仕事の時に、なにやら唱えていただろう。あれは一体どの様な句なんだい?」
僕の問いに、イツキはピザを一切れ食べてから答える。
「教えても良いけど、ここで言って大丈夫かなぁ?」
「ん? どういう事だい? そんなに力のある句なのかな?」
疑問が増える一方の僕に、勤が言う。
「ジョルジュは多分聞かない方が良い。
あと、イツキもこう言う公衆の面前では言うなよ」
「あいよ」
んんん? どういう事だ? 僕は聞かない方が良いと言うのは一体………
「勤は、イツキが唱えていた言葉がなんなのかわかるのか?」
僕の疑問に、勤は困ったように笑って、小声でこう言う。
「多分、イツキが唱えてたのって、卑猥な単語羅(ら)列(れつ)してただけだと思うんだけど」
「わかった。詳しくは聞かなくていい」
イツキが優秀な退魔師だというのは知っていたし今回の件で実感もしたけれど、もう少しこう、手段がなんとかなら無い物だろうか。