# 3 本の虫
目が覚めると、緑色の生き物が楓を覗き込んでいた。
その生き物は黄色いくちばしを開いて『本の虫が生まれそうやね』と言ったが、楓は驚きでそれどころではない。
「カッパ?!」
背中に甲羅を背負ったその生き物は、妖怪ものでよく見るカッパにそっくりだった。
「楓、何さわいでるの?」
「おかあさん、そこにカッパが!」
楓が悲鳴を上げると、母親の桜子が「どうしたん」と障子を開ける。
カッパは開いた障子の隙間から外に飛び出して見えなくなった。
「何もおらへんよ」
「そ、そんなはずは」
確かに足元を通ったはずなのに、桜子は気付いた様子はない。
楓は昨夜、涼介から聞いた「普通の人には見えない」という台詞を思い出した。
「……私、涼介くんと話したい」
「涼介くんなら、八咫烏神社で祭りの準備をしてるんやないかしら」
「お祭り?」
桜子は朝食の準備中だったらしく、おたまを手にエプロンをしている。
彼女は楓に「顔を洗ってきなさい」とすすめた。
楓は冷たい井戸水で顔を洗うと、卓に付く。
ほうじ茶で煮た粥を冷ましたものが茶わんに盛られている。これは茶粥という料理で、暑い夏の朝食でよく食べられる。ぬるい茶粥はさっぱりとしていて喉を通りやすい。
「露木くんは、盆祭りの手伝いで呼ばれたのよ。お祭りと一緒に雨乞いの祈祷をすることになっとるから」
「盆祭り……」
「亡くなった人の魂が戻ってくる夏のお祭りよ」
「そんなこと知ってるもん」
実は知らない癖に楓は見栄を張った。
詳細は分からないけれど、涼介は神社にいるようだ。
朝食を済ませた楓は日傘を持って家を出た。
「なんや、しゃれたもんもっとるなあ」
彼女の行動を見計らったように、南青年が寄ってくる。
南は、東京のデパートで買った日傘を眩しいものでも見るように眺めた。
「どこに行くん?」
「どこだっていいでしょ」
楓は冷淡に南をあしらおうとして、途中で足を止めた。
「……八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)って、どこ?」
南がぷっと吹き出した。
八咫烏神社は滝のある山の中腹に佇む、静かな社だ。石の階段を登ると白い鳥居があり、石畳が敷かれた広い境内の正面に本殿、左手に社務所がある。
涼介はどこだろうと見回していると、南青年がさっさと社務所に進んだ。
「楓ちゃん、可愛い護符を買ってやるよ」
「頼んでません!」
楓は断ったが、構わずに南は財布を取り出し、社務所を覗きこんだ。
「すんませーん」
「はーい」
いつもの巫女ですという顔をして、出てきたのはなんと涼介だった。
白い着物に松葉色の袴をはいている。
同年代の男子がこういった格好をするのは珍しいので、楓はまじまじと見つめてしまった。
「げっ。昨日の東京の彼氏?」
南は呆気に取られた顔をする。
「会いに来てくれたんだ、杉崎さん」
一方の涼介は爽やかな笑顔を楓に向けた。
昨日、楓の付いた「東京から来た恋人」という嘘の通り、振る舞ってくれているらしい。
楓はほっとして、南を押し退けて彼に話しかけた。
「露木くん、ちょっと話す時間はある?」
「休憩していいか確認してくるよ。待ってて」
涼介は南に視線を戻すと「何かご用ですか」と愛想よく聞く。南は顔を引きつらせて首を横に振った。
「悪かったな。俺はここで帰るよ」
南はそそくさと退散した。
社務所の玄関で待っていると、奥で何か話していた涼介が戻ってくる。
「お待たせ。今日も暑いねー。本殿の前でアイス食おうよ」
「え、いいの?!」
神社の大人が気をきかせてくれたのだろう。
涼介はソーダの棒アイス二本を持っている。
二人は本殿の屋根の下で、石段に腰かけてアイスを食べた。
「君から会いに来てくれるなんて、どうしたの?」
「今朝、カッパを見ちゃって」
「カッパがそんな珍しいかな……」
涼介は三口でアイスを平らげると、残った棒を見て残念そうな顔をする。棒には「はずれ」と印字してあった。
『憑き物になってすぐの子供には、珍しいのではないか。それにしてもげせぬな。本の虫など、さっさと祓ってしまえばよかろう』
「えっ?!」
突然、第三者の声が割り込んだ。
驚く楓の隣に、三本足のカラスが舞い降りる。
涼介は楓の袖を引いた。
「杉崎さん、気をつけて。カラスじゃなくて、ヤタガラスさまだからね」
「神社の名前と同じ……」
『我はこの社に祀られる神。ただのあやかしではない』
ヤタガラスは胸を逸らして厳かに言う。
楓はそろそろ異常事態に慣れてきたので、すぐに冷静になった。カッパの出現について聞きたかったのに、有耶無耶になっていたのだ。
「ヤタガラスさま、私の前にカッパが現れたのは何故ですか? それに何故、私は普通の人に見えないものが見えるようになったのですか?」
神様だというカラスに、丁寧に聞いてみる。
ヤタガラスは赤い目を楓に向けた。
『その二つの質問の答えは一つである。お前は最近、本の虫というあやかしに憑かれた。あれは孵るのに時間の掛かるあやかしだ。虫の卵が孵るにあたり、お前の第三の目も開いたのだ』
「本の虫……?」
『うむ。書物を好むものがたまに憑かれるな』
楓は「虫に付かれている」と聞いて鳥肌が立ち、二の腕をさすった。
「あやかしって、妖怪のことですよね? 私、妖怪にとりつかれた……?」
『カッパも気になって見にきたのであろう。気味が悪いというなら、そこな涼介に祓ってもらえばいい』
ヤタガラスは黒々と光るクチバシを涼介に向ける。
涼介は何故か気難しい顔をしていた。
『人間があやかしの世界に関わるのは不幸を呼ぶ。軽々しく立ち入らないことだ』
アドバイスめいたことを言った後、ヤタガラスは翼を広げて飛び立った。
楓は、涼介に恐る恐る聞く。
「本の虫がどうたら、って、露木くん知ってて……?」
「んー、予測はしてた。今ヤタガラスさまに聞かされて、確定したけど」
涼介はアイスの棒を持っていない方の手で、ガリガリ頭をかく。
「でも今祓ったら、杉崎さん見えなくなるだろ? そしたら化け物に襲われても、見えないから分からない」
そういえば、夜になると川岸に現れる謎の化け物もいたんだった。
楓は少し考えて、名案を思い付く。
「私、囮になる」
「杉崎さん?」
「涼介くんなら、化け物を退治できるんだよね」
協力する、という意思を込めて見つめると、涼介は嫌そうな顔になった。
「だから俺はお祓いじゃないって……」
「ヤタガラス様は祓えるって言ってた」
「……」
「露木くん、連絡先を交換しない……?」
「今度ね」
ためらいながらスマートフォンを取り出すと、涼介は手を振って断ってきた。
強引に迫って嫌われたのだろうか。
彼と仲良くなりたかった楓は不安になる。
「俺は仕事に戻るから」
「うん……」
こういう時になんと言って男の子を引き留めていいか、分からない。
少女漫画にはキザったらしい恋愛シーンが山ほど出てくるが、現実に通用するような会話はほとんど無いのだ。
あっさりと去っていく涼介を見送りながら、楓はスマートフォンをぎゅっと握りしめた。
家に戻ると、母親の桜子は仏壇の前に盆提灯を飾っていた。
花の絵柄が描かれた提灯が、二個一対で置かれている。
「迎え火っていうんよ。死んだお爺ちゃんが戻ってくるの」
桜子は提灯に明かりを付けながら、楓に解説した。
「明日と明後日は神社の境内に露天が並んでお祭りになるわ。明後日は露木くんの雨乞いの儀式で、明々後日は送り火を焚いてご先祖さまをお見送りするんよ」
「雨乞いの儀式って、何をするんだろ……」
「さあ? でもたぶん露木くんは儀式が終わったら終わりやから、明々後日で帰るんやないかしら」
楓はドキっとした。
出会ったばかりなのにもう別れが迫っているのだ。
学校の名前は聞いたけれど、連絡先も交換していないのに、この先会えるか分からない。
「今のうちに仲良くなっときや。あんなイケメン滅多におらんで」
「お母さん、イケメンって死語……」
茶化されて、上手く笑えただろうか。
楓は母親と仏壇に手を合わせた後、夕食を食べて自分の部屋に戻った。
漫画の続きを描こうと鞄からノートを取り出そうとして、びっくりする。
「うぎゃっ?!」
ポロリ。
ノートの隙間から、ぼんやりと光る芋虫が転がり落ちてきた。
「こ、これが本の虫なの?! やだ、本当に青虫じゃない!」
芋虫はえっちらおっちら身体を伸ばしたり縮めたりしながら移動すると、ノートの端っこをかじり始めた。虫に触りたくない楓は呆然として芋虫の挙動を眺めていたが、大切な漫画がかじられていることに気付いてハッとする。
「や、やめなさい! 食べないでよ! 他にもいっぱい食べるものあるでしょ?!」
涙目になりながら芋虫をつまむ。
柔らかくてグニっという感触がした。
「ううう……」
本の虫というくらいだから、本を食べるのだろう。……本以外は?
楓は居間から古い新聞を持ってきて試しに芋虫に与えてみた。
芋虫は新聞をかじりだす。
「活字なら何でも良いのかな……どこまでおっきくなるんだろ」
この芋虫がくっついていると、あやかし絡みのトラブルに巻き込まれる。
新聞をモリモリむさぼる芋虫を見て、楓はそう悟っていた。
「涼介くんに早く取ってもらわないとな」
でも何故だろう。
この芋虫が消えてしまうと考えると……少し寂しい気がする。