# 2 あめふらし様


 村役場は二階建ての灰色の建物だ。
 人の出入りが無く静かな空気が流れている。
 楓が涼介を連れて階段を上がっても、誰にも見とがめられない。冷房の効いた建物の中に入り、カウンターに歩み寄る。
 
「すみませーん、大山天降神社から来たのですが」
 
 涼介が声を掛けると、カウンターの内側で職員が立ち上がった。
 
「村長、雨乞いの人、来てくれたで」
「そんな叫ばんでも聞こえとる」
 
 眼鏡を掛けた白髪混じりの男性が、涼介の前にやってくる。
 村長は厳めしい顔つきで涼介をじろじろ観察した。
 
「遠いところ、すまんね」
「いえ。それにしても暑いですねー」
 
 涼介は村長の視線を平然と受け流し、白シャツの襟をゆるめて風を送っている。
 
「……本当に雨乞いするんですか?」
 
 楓は思わず口を挟んだ。
 小さな役所内の視線が楓に集中する。
 注目を浴びた楓は、身を縮めた。
 
「……あんた、杉崎の娘さんか。東京帰りやったな」
 
 村長が楓に視線を移す。
 楓は「は、はい」と頷いた。
 
「都会の人は雨乞いなんて時代遅れと思うかもしれんが、こんな山奥では大事なことなんや。伝統を引き継ぎ祀まつりを守る、という意味もある」
 
 何となく叱られている気がして、楓は肩身が狭い。
 しかし隣の涼介は、全く物怖じせずに会話に割り込んだ。
 
「ほら、女の子って占いが好きだろ? ああいうのの一種なんだよ」
「そう言われるとそうかも?」
「神聖な祀りごとを女子供の占いと一緒にして……」
 
 村長が額に青筋を立てている。
 涼介は村長の怒りを華麗にスルーした。
 今までのやり取りが無かったかのように、姿勢を正して挨拶する。
 
「それでは、しばらくお世話になります」
「……付いてきなさい」
 
 村長は自分の家に涼介を案内するようだ。
 涼介は「ここまでありがとう」とささやいて、楓に手を振った。
 ここでお別れか。
 少し残念な気持ちを感じながら、楓は彼らを見送った。
 
 
 
 村役場を出た楓は、自分の家に帰ってきた。
 自分の、と言えば語弊があるか。母方の祖父母の家だ。
 古い木造の家には煙突があり、内部には昔ながらの竈(かまど)がある。中庭には清水の湧く井戸も掘られていて、水不足の状況でも生活には不自由しない。
 
「楓、電車に乗りそびれたん?」
 
 土間で靴を脱ぐと、畳に座って茶を飲んでいる母親がくすくす笑って言った。楓の母、桜子(さくらこ)は飛山村の生まれで、東京に上京して結婚し、子供を生んだ。おっとりしたマイペースな女性だ。
 漫画を買いに旅立とうとしたことは、見透かされているらしい。
 楓は頬を膨らませた。
 桜子の隣に座り、卓の上に置かれた水差しからコップに麦茶を注ぐ。
 
「標準語でしゃべってよ。関西弁、きらい」
「なんや、いけずなこと」
 
 八つ当たりに、母親は困ったように微笑んだ。
 
「東京から彼氏が会いに来たんやって?」
「!!」
「南くんが話とったわ」
 
 田舎は噂話が広まるのが早い。
 急に恥ずかしくなって、自分の嘘を楓は後悔した。
 
「ちゃうのん……ちゃうのん」
「なんで違うだけ関西弁になるの」
 
 頭を抱える楓を、桜子は呆れたように見る。
 
「まあええわ。トマト取るの手伝って」
「やだよ、ゲームしたい」
「全くこの子は。これやから南くんに外に連れ出して、って頼んだのに。漫画買うために外に行くて」
「余計なお世話よ」
 
 畑仕事に誘われたが、楓は断って奥の部屋に逃げ込んだ。
 暑くて泥くさくてベタベタする……田舎なんて大嫌い。
 
 
 
 にわか雨が降ったからか、その夜は湿度が高かった。
 夜中、寝苦しさを感じた楓はこっそり布団を抜け出した。
 台所で麦茶を飲む。
 
「……あれ、何だろう?」
 
 窓の外を、ふわりと黄緑色の光が横切った。
 季節外れのホタルだろうか。
 もうホタルの時期は過ぎたはずなのに。
 
 土間に踏み出しかけた楓は、少し躊躇した。
 母親の「ここは東京と違う。危ないから一人で出ていかないで」という言葉が頭をよぎる。
 ……構うものか。
 危ないというが、この静かな山村の、いったいどこに危険があるというのだろう。
 楓は、サンダルを引っ掛けて庭に出た。
 庭の隅にある立て付けの悪い木の扉をギギと開くと、すぐそこに川があるのだ。
 冷たい夜風が、楓の短い髪をさらう。
 
『アズキアイスー、ガリガリー』
「え?」
『ツイデニ、アイツモ、マルカジリー』
 
 誰かがぶつぶつ呟いている。
 声を辿って見回した楓は、川の岸に奇妙な植物が生えていることに気付いた。
 初めはカエルが草の上に乗っているのかと思った。
 だが近付くと違うことが分かる。
 それはカエルのような顔の付いた花だった。
 花はぶつぶつと不気味な一人言を漏らしている。
 花がしゃべる度に、その口から黄緑の燐光が発せられ、風に乗って飛んでいく。
 ホタルだと勘違いしたのは、これだったらしい。
 
「気味が悪い」
 
 生理的な嫌悪を感じた。
 楓はしゃがみこむと、木の枝を拾って、花の茎を薙いだ。
 
「……駄目だ!」
 
 誰かの警告の声。
 ブチリと茎がちぎれ、花は横倒しになる。
 花は憎々しげに楓を睨み上げた。
 
『ナニスンネン、オマエ、クッタロカ』
「ひっ」
 
 花に付いた顔が見る間に大きくなり、巨大な唇が空中に浮かぶ。
 生暖かい臭気が開いた口から放たれる。
 
「杉崎さん、下がって!」
 
 誰かが楓の腕を思い切り引っ張った。
 楓は尻餅を付いて転がる。
 楓が元いた位置には、凛と背筋を伸ばした少年が立っていた。
 彼はパン! と音を立てて柏手を打つ。
 
「諸々の罪穢れ、曲霊(まがひ)、有り難く頂戴いたします」
『うっしー!』
 
 最後に拍子抜けするような鳴き声がした。
 少年の頭の上に何か透明な生き物が乗っている。
 その生き物がまるでバキュームのように、ぎゅーっと楓を襲った化け物を吸い込んでいった。
 きゅぽん。
 
「ご馳走さまでした」
『うっしー』
 
 また変な鳴き声。心なしか満足そうだ。
 呆然とする楓を振り返り、少年が手を差しのべる。
 
「大丈夫?」
「りょ、りょうすけくん……?」
 
 彼は昼間、村役場に案内した露木涼介と名乗る少年だった。楓は色々な意味でドキドキしながら、彼の手を握って立ち上がる。
 制服は着替えたらしく、彼は膝小僧が隠れる丈のクロップドパンツに半袖のシャツを着ていた。ズボンのポケットにはスマホが突っ込んであり、片手に懐中電灯を持っている。
 楓のように寝苦しくて出てきた訳ではなく、計画的な外出のようだ。
 パジャマにサンダルを引っ掛けた楓の姿と比べるときっちりしている。
 頭の上以外は。
 楓は、涼介の頭の上を凝視する。
 そこにはナメクジとカタツムリの中間のような、ちょっと透明がかった蛍光ピンクの生き物が乗っていた。
 思わず指差して尋ねる。
 
「何その変なの」
「駄目だよ、指差したら失礼だ。ほら、アメフラシ様も怒ってる」
『うっしー!』
「ごめんなさい」
 
 よく分からないが、注意されて楓は謝った。
 アメフラシは涼介の頭の上でうねっている。
 
「いったい何がどうなってるの……」
「さあ、俺の方が聞きたいよ。あんな化け物、初めて見た」
 
 初めてと言う割には、涼介の行動は迷いが無かった。
 そのことを指摘すると「まぐれだよ」と彼はうそぶいた。
 
「神事の手伝いのために、祝詞を習ってて良かったな。あとアメフラシ様も大活躍だ」
「だからアメフラシ様って何?!」
「アメフラシ様はアメフラシ様さ。雨を降らせるあやかし……妖怪だよ」
 
 楓はゆるゆると首を振った。
 
「私、漫画の読みすぎかな。化け物に襲われるし、雨を降らせる妖怪を紹介されるし。家に帰って寝るべきだよね……」
「正しい反応だけど、今さらそれはないんじゃないかな。ほら、現実を見よう」
 
 涼介は良い笑顔で、アメフラシを頭から降ろして、わざわざ楓の目の前に突きつけた。
 アメフラシはぷるぷるとゼリーのように震える。
 
『うっしー?』
 
 現実を見ろというが、どう見ても目の前にあるのは非現実だ。
 楓はアメフラシと見つめあう。
 アメフラシはよく見ると、割と可愛かった。
 
「……家に帰るなら送っていくよ。俺も少し散歩したい気分だ」
 
 家はどっち? と涼介は聞いてきた。
 楓は気を取り直して歩き出す。
 家の前まで、彼は見送ってくれた。
 
「あんまり夜中に出歩いちゃ駄目だよ。次も俺がいるとは限らないんだから」
「涼介くんが化け物を全部、退治してくれたら良いじゃない」
「俺はお祓いに来たんじゃなくて、雨乞いに来たんだよ。化け物退治はしない。それに……」
 
 涼介はふと憂鬱な表情になり「やっつけたら全部解決という訳にはいかないんだ」と呟いた。
 
「じゃあね、杉崎さん」 
 
 扉の前で二人は別れる。
 中庭を通って、楓は母屋に戻ってきた。
 
「疲れた……」
 
 楓は母親と祖父母を起こさないように、自分の部屋に戻る。
 足音を殺して歩きながら、同じ部屋で家族一緒に寝るのでなくて良かったと思った。一人になりたいと個室をねだった楓の作戦が功を奏した形だ。
 布団に飛び込むと、枕元の和風ランプに明かりを付ける。
 鞄から筆記用具とノートを取り出した。
 
「……旅行中の女性主人公は、砂漠の国の王子様にいきなり告白される。俺のものになれ! ぷふっ」
 
 さらさらとペンで美形の王子様のイラストをノートに描いていく。
 楓の趣味は、漫画を描く事。
 母親の桜子にも内緒で、二十色のコピックも東京から持参している。
 登場人物の瞳に色を付けながら、楓はふと手を止めた。
 
「砂漠……雨が降らない……我ながら暑苦しいな」
 
 こんなに暑いのに何故、砂漠を舞台にした物語を描いているのだろう。
 しかし漫画を描き始めたのは東京にいた時からで、その時は冷房の効いた涼しい部屋で作業していたのだ。
 
「もう寝よう」
 
 見つからないようにノートを鞄にしまいこむと、楓は目を閉じる。
 暗闇の中、鞄の中身がぼんやり光っていることに気付かないまま……。