……十年前。



 アスファルトの上を鯉が泳いでいる。
 マンホールから溢れた水が道路を我が物顔で行進し、自動車を押し始めた。雨合羽を着た家族が、水を掻き分け歩いている。
 
「午後三時五〇分、川越区に避難指示を発令しました。住民の皆さんはただちに最寄りの避難所か高台に避難してください。繰り返します……」
 
 サイレンが鳴り響き、メガホンを持った男たちが町内を歩き回って避難を呼び掛けた。
 一戸建ての二階のベランダで、少年はうずくまってその光景を見つめる。
 少年のいる場所は死角になっていて、外からは見えない。
 二階のベランダからは濁流に呑まれた近辺の様子が見渡せた。
 
「あんたのせいよ! 今すぐ雨を止めて! 降らせたなら、止めることだってできるでしょう?!」
「おかあさん……」
 
 必死の形相の母親が少年の肩を揺らす。
 泣きそうな顔の少年は「ごめん。分からない」と言うばかりだ。
 
「もう、本当に使えない子ね! あんたなんか知らない!」
 
 母親は少年の背中を蹴りつけると、少年をひとり部屋に残し、雨合羽を持って外へ飛び出していった。玄関の扉を勢いよく閉める音がする。
 
「ぼくのせいなの? 全部……?」
 
 ちょっと大雨になれば、職場に行かなくて済む。
 父親の願いを少年は叶えただけ。
 しかし初めて降らせた大雨は、とめどなく降り続け、洪水になってしまった。
 
「おかあさん、もどってこない……」
 
 出ていった母親が戻ってくる気配はない。
 きっと他の人々と一緒に避難したのだろう。
 彼女は自分の子供を見捨てたのだ。
 いくつも痣のできた身体を抱え、少年は膝を抱える。
 そのままじっと動かずにただ時間が過ぎるのを待った。
 
「……この辺りのはずだが」
 
 どのくらい経っただろうか。
 玄関の扉を強引にこじ開ける音がする。
 浸水が始まった家に誰かが押し入ってきた。
 
「避難所に逃げたんじゃないですか」
「それなら話は簡単なんだが、俺の勘はここだと言っている」
 
 男性の話し声。
 少年は顔を上げた。
 土足のまま、階段を上がってくる音。
 
「ああ……やっぱり、いた」
 
 雨合羽を羽織った男が二人、少年を見つけて近寄ってくる。
 一人は警察官の格好で、もう一人は雨合羽の下に作務衣を着こんでいた。
 若くて人の好さそうな警察官の男の方が、少年に向かって手を差しのべる。
 
「君、一緒に避難所へ行こう」
「……おかあさんを、まってる」
 
 少年はゆるゆると首を横に振った。
 本当は、母親が戻ってこないことが分かっている。
 それでもここにいるしかないのだ。
 
「あー、この子の身体の痣……虐待に育児放棄か」
「黙ってろ、元康」
 
 作務衣の男は、何か言い掛けた警察官を遮ってしゃがみこみ、少年と目線を合わせた。
 
「おかあさんは戻ってこない。お前は今日から、俺の子供だ」
「!」
 
 男はわずかに抵抗した少年を、容易く肩に背負いあげた。
 そのまま大股に室内を歩き出す。
 警察官の男もすぐに後を追う。
 一階は腰の高さまで水が迫っている。
 
『すいすいー』
 
 ボチャンと音がして水しぶきが上がった。
 亀の甲羅を背負った緑色の生き物が、生きた鯉をくわえて、作務衣の男を出迎える。
 
「遊ぶなよ、カパ吉。非常事態なんだぞ」
『すいー?』
「ああ、お前らにとっては楽園か……」
 
 少年は謎の生き物に目を見張る。
 
「やっぱりカッパが見えるんだな」
 
 作務衣の男が、少年の様子を観察して断定する。
 他の人に見えないものが見える、ということは秘密だった。
 少年は緊張に固くなる。
 思わず口を滑らせた。
 
「……ぼくが、雨をふらせた……」
「知ってる」
 
 誰に言っても信じてもらえないだろうと思っていたことを呟くと、作務衣の男は平然と頷いた。
 少年はぎゅっと男の服を握りしめる。
 
「ぼくのせいで……」
「そいつは違う。すべては不甲斐ない俺たち大人の責任だ」
 
 作務衣の男は少年を背負い直すと、雨の中を歩き出す。
 
「はー、あったかい蕎麦が食いたいですねえ」
「黙って歩けよ元康」
「その辺に泳いでる鯉って、食えるんですかね?」
「お前の発想はカパ吉並みだな……」
 
 警察官の男と作務衣の男は雑談をしながら、水を掻き分けて進んだ。
 カッパが男たちの前を泳いで、安全な道へ案内している。
 
 男の広い背中にすがりつき揺られている少年は、眠気を感じてうとうとした。これから自分はどこへ行くのだろう。
 もう、あの家に帰れないことは確かだ。
 目を閉じると波紋が広がって、翡翠の水底に意識が沈んでいく。
 
 少年の周囲で、激しかった雨はいつしかパラパラと小降りになっていた。