「あの時は、キチンとお礼も言えなくてごめんね? 同じクラスになっても、なかなか切り出しにくくて……」
 あはは、と照れくさそうに笑う秋海棠。
 秋海棠の話を聞いて、俺は去年の出来事を思い出していた。
 文化祭の準備も終わってみんなが寝静まった頃、深夜に喉が渇いて目が覚めた俺は教室から抜け出して自販機で飲み物を買いに行った。
 その帰りに廊下でうずくまっている女子生徒を発見した俺は、事情を聞いて彼女の行き先まで付き添ったのだった。
「いや、俺こそ分からなくて悪い……あの時は暗くて、顔とか見えにくかったからな」
「ううん、当たり前だよ。私だって最初は、あの時の人が定家君だって確証はなかったし」
「でも、どうして俺がその時のヤツだって分かったんだ?」
 ばつが悪そうに頭を掻く俺を見て、秋海棠はふるふると首を横に振る。
 しかし、同じ条件にも関わらず、秋海棠はどうして俺だと分かったのか?
 それが気になった俺は、尋ねてみることにした。
「えっと、それはね……声、かな」
「……声?」
「うん。あの時、顔は見えなかったけど声は聞こえたから。定家君の声って、なんだが聞いてると安心するんだ。だからあの時も、定家君との他愛もない会話がすごく落ち着いたの」
 俺の質問に対して、秋海棠はどこか穏やかな表情で答えた。
 まるで大切な物を口にするように、その声には彼女の想いがにじみ出ているようだった。
「今もこうして、定家君と話してるだけでとっても心強いんだ」
 そう言うと秋海棠は、俺よりも一回り低い位置から俺を上目遣いで見る。
「だから、改めて言わせてもらうね。定家君、あの時は私を助けてくれてありがとう」
 ニッコリと少し気恥ずかしげに笑う秋海棠。
 そんな彼女の顔を見てしまうと、まるで金縛りに遭ったように視線が逸らせなくなる。
「おーい、牽牛に椿ちゃーん。そろそろ着くぜ?」
 秋海棠と見つめ合っている最中、先行していた飛燕が後ろを向いて声を掛けてきた。
 この時ばかりは、その絶妙なタイミングに感謝するばかりだった。
「分かった。秋海棠、行こう」
「う、うん」
 傍らの秋海棠に声を掛け、俺たちは歩く速度を少し速めて飛燕たちと合流した。
 その間、俺は秋海棠と目を合わせることができなかった。