「うん。定家君は覚えてないと思うけど、去年の文化祭で私のクラスも泊まり込みでね」
 昔を懐かしむように話し出す秋海棠。
 秋海棠とは三年になってから初めてクラスが一緒になったので、それ以前の付き合いはなかったはずだ。
「作業が終わって就寝時間になったんだけど、作業してた家庭科室に忘れ物しちゃってね……もう寝てるみんなを起こすのも悪いから、私一人で取りに行こうとしたんだ」
 泊まり込みの場合、就寝場所は空き教室や自分の教室を使うことが多い。
 だから教室棟から家庭科室のある実習棟までは、それなりに距離があるはずだ。
「でも私って恐がりだからね、暫くしたら一人で向かったことを後悔してたんだ。でも結構、進んでたから戻るのも距離があるし、もう泣いちゃいそうだったんだ……」
 あはは、とはにかむ秋海棠。でもそれを責めることはできない。
 夜の学校、それも一人ともなれば、女子一人では心細いだろう。
「怖くて、寂しくて、そんな自分が情けなくて……もう最後には廊下の隅にうずくまって、動けなくなってたんだ」
「秋海棠……」
 えへへと苦笑混じりに軽い調子で言ってはいるが、当時は相当に心細かったに違いない。
 俺はそこまで暗闇を恐れていないが、秋海棠にとっては辛い状況だったのだろう。
「でも、そんな時にね。私に声をかけてくれた人がいたんだ」
「声を? 秋海棠にか?」
「うん。その人は飲み物を買いに自販機まで行ってきた帰りみたいで、廊下にうずくまってる私を見て心配して声をかけてくれたんだ」
 秋海棠の話を聞いていると、不意に深夜の校舎の風景が脳裏を過ぎる。
 その光景は霞がかって定かではないが、去年の俺は今と同じようにこの場所で誰かといたはずだ。その人物は――
「私が事情を説明するとね、その人はついでだからって家庭科室まで付き添ってくれたんだ。最後には教室まで送ってくれて、私はどうにか忘れ物を取りに行けたんだよ」
「秋海棠、そいつってまさか……」
「うん。その時は名前を聞きそびれちゃったけど、その人とは三年になってから同じクラスになって再会できたんだよ。その人の名前は定家牽牛――定家君だったんだ」
 フッと柔和な笑みを浮かべて、俺を見る秋海棠。
 そんな彼女の表情を見て、俺は思わず息を飲んでしまった。