「だって紗雪のお母さんは、ボンドの研究を続けてほしかったんだから」
 紗雪は渋面を作り、太一を睨むように見つめた。
「どうして……どうしてそんな嘘を吐くの?」
 紗雪の声は震えていた。次第に紗雪の目から涙が溢れ始めた。
「嘘じゃない。俺は森川先生のとこ――」
「これを見てもそんな嘘を言えるの?」
 太一の言葉を遮った紗雪は、胸ポケットから日記帳を取り出した。
 ホオズキのシールが貼られた日記帳。そのページを捲り、とあるページで紗雪は手を止めた。そして開いたページを太一に見せつける。
「これって……」
 太一は言葉を失った。そこに書かれていたのは、紛れもなく紗雪のお母さんが書いたと思われる文章だったから。
「私はこのメッセージがあったからこそ、ボンドを否定したいと思った。ボンドなんて、結局は家族を離れ離れにするものに過ぎなかったのだから」
 紗雪の言い分がようやくわかった。この日記帳しか見てなかったら、紗雪のお母さんはボンドを否定したいと思うしかない。
 どれくらい時間が経ったのだろうか。太一は屋上の入口へと視線を向ける。人が来る気配は全くない。当然だ。今は夜で、学校は閉まっている時間なのだから。
「これでわかったでしょ。お母さんはボンドを嫌っていたって。私を止めるために、嘘なんかつかないでほしい」
 紗雪はそう言うと、太一に背を向けた。
「駄目だ。紗雪」
 太一は咄嗟に柵を越えて、紗雪の隣に降り立った。そして直ぐに紗雪が落ちない様に、背中へと片手を回し、もう片方の手で柵を掴む。
「離して。お願いだから」
 小さくも必死に抵抗しようとする紗雪を、太一は力いっぱい片手で抱き寄せてから叫んだ。
「紗雪が死んだら、誰が優しかったお母さんを生かしてあげるんだよ!」
「――!」
 紗雪の抵抗が徐々に収まっていく。太一は深呼吸をしてから、思っていることを紗雪へと告げた。
「紗雪が死んだら、優しかったお母さんは完全にいなくなる。世間では人殺しの殺人犯だって思われてるんだ。それなのに紗雪まで死んだら、誰がお母さんの優しさを証明するんだよ」
 太一にはわからないことだった。紗雪のお母さんがどれだけ優しかったのか。