突然、有香の言葉が紗雪の脳内でリフレインした。聞こえないはずの有香の肉声が聞こえ、紗雪の視界は徐々にぼやけ始める。
 負けたくない。負けたくない。
 頭を抱えながらも、紗雪は何とか教室に足を踏み入れた。しかし有香の声が徐々に大きく聞こえ始め、紗雪の脳を何度も震わせる。そしてその声に交じるように微かに別の声が聞こえた。
 ――人殺し。
 聞き覚えのある声を耳にした瞬間、紗雪の限界は直ぐにやってきた。急いで教室を離れてトイレに駆け込んだ。そして耐え切れなくなったものを一気に吐き出す。
 有香の声に交じって聞こえたのは、かつて親友だった久美の声だった。
「どうして……」
 紗雪の頬を涙が伝う。自らの不甲斐なさに、紗雪は嗚咽を漏らすしかなかった。
 結局、紗雪は弱いままだった。どんなに諦めずに頑張っても変えられないものはある。紗雪は結局、過去に囚われたままなのだ。
 新しい環境で過ごしてきて、少しは変われたと思っていた。しかしその全ては偽りにすぎなかった。だから今、こうして過去の出来事に屈服している。
 ふと紗雪の脳裏に母の顔がよぎる。母は苦しんだ結果、自ら死を選んだ。どうして死んでしまったのか。紗雪はずっと考えていた。そしてその原因は父のせいだと思っていた。
 だけどそれは間違いだったのかもしれない。
 紗雪は母が死を選んだ本当の理由がわかったきがした。今自分が思っている感情が、刑務所にいた母の気持ちと同じだとしたら。
 紗雪はトイレを離れると、淡々と廊下を歩いた。連絡通路を抜け、階段を上り、空き教室のある五階へと向かう。しかし紗雪の目指す場所は空き教室ではなかった。そのまま空き教室の前を通り過ぎ、突き当りにある階段を上っていく。そして上った先にあったドアの前で紗雪は足を止めた。
 目の前のドアノブには鎖が巻かれていた。ドアの上半分はすりガラスになっており、微かに光が漏れている。紗雪は無心で鎖をどかし、ドアノブを自由にした。そしてドアノブに手をかけ、そのまま回す。
 微かに音を立て、ゆっくりとドアが開いた。
 冷たい風が紗雪の頬をくすぐる。目の前にはコンクリートの床が一面に広がっていた。
 堀風高校の屋上に紗雪は足を踏み入れる。ゆっくりと歩いていき、転落防止の為に備え付けられた柵の前までやってきた。ちょうど紗雪の腰までの高さがある柵に背中を預ける。