「ボンドの研究をこれからも続けてほしい。もうこのようなことが起こらないように。不倫を減らすための抑止力になるよう、ボンドを広めてほしい。こんな思いをするのは、私だけで十分だから」
有香の母親の言葉に、雅樹は涙が止まらなかった。決して怒りをぶつけるわけでもなく、ただ温かく包んでくれるような有香の母親の寛容さに、胸が締めつけられた。雅樹にとってボンドの試薬を作ることは、有香の母親の思いと、自らに対するけじめになった。
過去の自分とお別れする。そしてこれからボンドを仕分ける試薬を作ることによって、自らの犯した過ちを二度と起こさないようにする。それが、有香の母親に対しての償いになるから。
有香の母親と別れた雅樹は、直ぐに紗雪の母親と結婚した。紗雪の母親にも新しい命が宿っており、雅樹はボンドの試薬作りに精を出した。
そして一年後の二〇三四年。有香と紗雪が生まれた。新たな生命が誕生した年に、雅樹はついにボンドの試薬を完成させた。
ボンドの試薬は、星野教授が論文で語った理論の曖昧な部分を証明することになった。
そして人によってそれぞれ持つボンドには違いがあり、複数の種類があることがわかった。
その種類を全国に知らしめた番組が、二〇四〇年に始まった恋愛バラエティ番組「シェアハウス」だった。
まずはじめにシェアハウスに参加する人間には、最初の時点で自分のボンドが知らされる。しかし一緒に番組に参加する他人のボンドは知らされない。そんな状況で用意された家の中で異性と過ごし、自分に最適なパートナーを見つけることが番組のゴールだった。そして番組内で結ばれたカップルにだけ、相手のボンドが公開される。これが番組の大まかな内容だった。
従来の恋愛バラエティ番組と比べて、変わった点はほとんどなかった。唯一違うところは、ボンドという要素が加わった点。
そのためこの恋愛バラエティ番組は、後程ボンドを実証する番組とも言われた。
この番組を機に、ボンドという言葉は日本全国に広まっていった。
ボンドを発見した星野教授は言った。
ボンドは不倫しやすいカップルと不倫しないカップルの選別ができる可能性がある。だからこそ、最高のパートナーを決めるための指標に、ボンドがなりうる可能性があると。
雅樹は、有香の母親と交わした約束が実現するまでもう少しだと思った。
二〇四五年。星野教授が発表した論文の信憑性が、非常に高いと話題になった。恋愛バラエティ番組内でできたカップルの中で、結婚した人、しない人が出てきた。そして結婚してから数年で離婚する人、しない人も現れた。幸せな家庭を築いている人達のボンドを見てみると、ボンドで最高のカップルと言われる人がほとんどだった。逆に言えば、ボンドで最高のカップルと言われる人達の中に、離婚した人達は一組もいなかった。
まだ五年。そう思う人もいるかもしれない。
でも、もし最高のパートナーが見つかるなら。恋愛の形が数値で分かるようになるのなら。人々のボンドに対する関心は、時間が経つとともにさらに高まっていった。
二〇四七年。星野教授の論文は国を動かすこととなった。二十歳以上の人達に、自分のボンドを知る権利を与えたのだ。通常の健康診断の項目にある血液検査の欄に、ボンド検査という項目が加わった。こうしてボンドは、人々の間で一般的なものになっていった。
それからというもの、ボンドは人々の恋愛の決め手の一つとなりうる存在になっていた。マスコミも大きくボンドを取り上げ、ボンドの解析をする番組が数多く放映された。もはやボンドは、恋愛や結婚を決める重要な要因の一つになっていた。
そして一年後の二〇四八年。ボンドは少子高齢化と言われ続けた六〇年の歴史に、終焉をもたらす情報源になりうるのではないか。とある国会議員の発言に、雅樹は星野教授と共にその話に乗っかった。
そして二〇五一年。とある高校でボンド検査が導入されることになった。ボンドの発展のために。人々が望む真実の幸せを見つけるために。
そのモデル校に選ばれたのが、太一の通う堀風高校だった。
△△△△△
病院からの帰り。太一は電車に揺られながら、先程までの出来事を振り返る。
森川先生は相当な覚悟でボンドの研究をしていた。でもそのせいで、紗雪を一人にした。償いのための研究に必死になるあまり、紗雪の存在を忘れていたのだ。
紗雪のことを思うと、太一は胸が締めつけられた。
いつも一人でいることが、紗雪には当たり前だった。友達もできずに、最愛の母親を亡くしてしまい、唯一の家族である父親とも会話を交わさない日々。そんな紗雪の気持ちを太一が理解するのは無理だった。
太一の周りにはいつも夏月や手塚がいた。紗雪とは違い、周囲には気軽に話せる友達が沢山いた。だからこそ紗雪の気持ちがわかるなど、簡単に言えなかった。太一が考えている以上に、紗雪は苦しんでいたはずだから。
電車を降りた太一は、街灯が灯りはじめた通路をゆっくりと歩いて行く。
これからどうするべきなのか。未だに答えが出ない太一はふと空を見上げた。既に日は沈みはじめており、焼け爛れた真っ赤な空が太一の目に映る。普段見慣れていない光景に、太一の足は自然と止まっていた。帰路を急ぐ人達が次々に太一を抜き去っていく。まるで自分だけ時間が止まっているようだった。
ふと太一の脳裏に紗雪の顔が浮かびあがる。紗雪は今も一人でいるはずだ。その状況が太一は凄く嫌だった。森川先生から話を聞いたからこそ、嫌な気持ちが更に高まっている。
紗雪は一人が好きなわけではなかった。一人にならざるを得ない環境で、ずっと過ごしてきたのだから。そんな紗雪がどんな形であれ、自分を頼ってくれたのだ。
太一は息を吐くと、スマホを取り出しメッセージを打ち込んで送った。送信相手は森川先生。森川先生が最後に話してくれたことが本当なら、今の紗雪をどうにかできるかもしれない。
スマホをポケットに閉まった太一は、ゆっくりと歩き始めた。そして太一は決意する。
止まってしまった紗雪の時間を、どうにかして動かすことを。
目覚まし時計の音で目を覚ました紗雪は、ゆっくりと身体を起こした。辺り一面が真っ暗で何も見えない。一瞬、視界を奪われたような錯覚に紗雪は陥った。それでも暫くすると周囲の環境に目が慣れてきて、自分の部屋にいるのだと認識できた。
紗雪はゆっくりと立ち上がると、カーテンを開けた。月の光が部屋に差し込み、薄らと部屋が明るくなる。その僅かな明かりを頼りに、紗雪は身支度を始めた。
学校に行けなくなってからの一週間。紗雪はずっと家にいたわけではなかった。何度も学校に向かおうと、いつも通りの時間に家を出ようとした。だけど学校に辿り着くことができなかった。玄関口で靴を履いた瞬間、視界がぼやけ始め、家を出て暫く歩くと視界が暗転する。その繰り返しから、抜け出すことができずにいた。
それでも紗雪は諦めたくなかった。中学生の頃、一度諦めてしまったことがあったから。同じような状況に陥るのは二回目。だから今度こそ、絶対にどうにかしてみせる。
そんな紗雪が思いついたのは、夜の学校に行くことだった。学校に誰もいないことがわかっている状況なら、行くことができるかもしれない。だから紗雪は夜に起床したのだった。
制服に着替えた紗雪は息を吐いて、自分の部屋を後にした。
今日は絶対に登校する。その気持ちが紗雪の中で高まっていた。
玄関口に着いた紗雪は靴を履いた。一週間前はこの時点で視界がぼやけていた。しかし今日は視界がぼやけていない。ほっとした気持ちを胸に、紗雪は家を後にして最寄り駅へと歩を進める。いつもと違う街の雰囲気が、紗雪に新鮮さを覚えさせた。普段は太陽が昇っている時に通る道。だけど今日は太陽の代わりに月が昇っている。制服を着て歩いているせいもあるのかもしれない。これから夜の学校に登校するという自分の行為に背徳感を覚えた。だけどそれが功を奏したのかもしれない。視界が暗転することなく、紗雪は駅までたどり着くことができた。
電車に乗ってからも紗雪の身に特別大きな変化はなかった。席に座って窓の外に見える月を眺めていると、あっという間に学校の最寄り駅に到着した。電車を降り、改札を抜けた紗雪は学校までの道を歩いていく。
全てが順調だった。時間帯を変えただけで、ここまで上手くいくとは紗雪自身思っていなかった。このまま行くことができれば、また学校に通えるようになるかもしれない。そんな淡い気持ちを抱きつつ、紗雪は歩を進めていった。
暫く歩くと右手に夏月の家と太一の家が見えてきた。数週間前まで、毎朝家まで太一を迎えに行った。その事実がとても懐かしく感じた。
でも、そんな日々を送ることはもうできない。太一とはもう話すことすらできないのだ。自分の目的を果たす為に太一を利用した。そんな身勝手な自分の行為を、太一が許してくれるはずがない。
太一のことを意識した瞬間、胸が苦しくなった。その苦しみから逃れるように、紗雪は太一の家の前を早足で通りすぎる。今は学校に通うことを考えようと気持ちを切り替えた。
学校に誰もいないという安心感は、紗雪の目標を達成するには十分だった。視野がぼやけたり吐き気に襲われたりすることなく、紗雪は無事に学校に辿り着けた。紗雪は迷わず空き教室に向かう。紗雪と太一以外の人が入ることができない場所。まずはこの場所で気持ちの整理をつけようと思った。
空き教室に着いた紗雪は鍵を開けて中へと入る。カーテンが開いていたお蔭で、街灯の光や月の光が真っ暗な室内を微かに照らしていた。紗雪の視界に二脚の机と椅子が入る。数週間前と変わらない光景に、紗雪はほっと息を吐いた。
ドアを閉め、鍵をかけた紗雪はいつも自分が座っていた席に腰を下ろす。そして微かに見える掛け時計に視線を向けた。時刻は九時を過ぎたばかり。施錠担当の先生が見回りを終える時間になっていた。紗雪は机に突っ伏してゆっくりと目を閉じた。頬にひんやりとした感触が広がり、徐々に緊張がほぐれていく。
こうして学校に来ることができた。だから教室に行っても普通に過ごせるはず。
紗雪は身体を起こして腰を上げた。そして空き教室を後にする。
夜の廊下は本当に神秘的な空間に思えた。窓から微かに差し込む月明かりが、紗雪を教室まで導いてくれる。まるで月に守られているのではないかと、紗雪自身錯覚するほどだった。
連絡通路を抜け、ようやく紗雪は教室前に着いた。ドアに手をかけた紗雪は、深呼吸をする。
「大丈夫。大丈夫」
何度もおまじないのように呟いた紗雪は、ゆっくりと教室のドアを開けた。
――私のお父さん、森川雅樹って名前なんだ。
突然、有香の言葉が紗雪の脳内でリフレインした。聞こえないはずの有香の肉声が聞こえ、紗雪の視界は徐々にぼやけ始める。
負けたくない。負けたくない。
頭を抱えながらも、紗雪は何とか教室に足を踏み入れた。しかし有香の声が徐々に大きく聞こえ始め、紗雪の脳を何度も震わせる。そしてその声に交じるように微かに別の声が聞こえた。
――人殺し。
聞き覚えのある声を耳にした瞬間、紗雪の限界は直ぐにやってきた。急いで教室を離れてトイレに駆け込んだ。そして耐え切れなくなったものを一気に吐き出す。
有香の声に交じって聞こえたのは、かつて親友だった久美の声だった。
「どうして……」
紗雪の頬を涙が伝う。自らの不甲斐なさに、紗雪は嗚咽を漏らすしかなかった。
結局、紗雪は弱いままだった。どんなに諦めずに頑張っても変えられないものはある。紗雪は結局、過去に囚われたままなのだ。
新しい環境で過ごしてきて、少しは変われたと思っていた。しかしその全ては偽りにすぎなかった。だから今、こうして過去の出来事に屈服している。
ふと紗雪の脳裏に母の顔がよぎる。母は苦しんだ結果、自ら死を選んだ。どうして死んでしまったのか。紗雪はずっと考えていた。そしてその原因は父のせいだと思っていた。
だけどそれは間違いだったのかもしれない。
紗雪は母が死を選んだ本当の理由がわかったきがした。今自分が思っている感情が、刑務所にいた母の気持ちと同じだとしたら。
紗雪はトイレを離れると、淡々と廊下を歩いた。連絡通路を抜け、階段を上り、空き教室のある五階へと向かう。しかし紗雪の目指す場所は空き教室ではなかった。そのまま空き教室の前を通り過ぎ、突き当りにある階段を上っていく。そして上った先にあったドアの前で紗雪は足を止めた。
目の前のドアノブには鎖が巻かれていた。ドアの上半分はすりガラスになっており、微かに光が漏れている。紗雪は無心で鎖をどかし、ドアノブを自由にした。そしてドアノブに手をかけ、そのまま回す。
微かに音を立て、ゆっくりとドアが開いた。
冷たい風が紗雪の頬をくすぐる。目の前にはコンクリートの床が一面に広がっていた。
堀風高校の屋上に紗雪は足を踏み入れる。ゆっくりと歩いていき、転落防止の為に備え付けられた柵の前までやってきた。ちょうど紗雪の腰までの高さがある柵に背中を預ける。
改めて紗雪は目の前に広がる真っ暗な世界を見つめた。遠くのビルの明かりが少し眩しく感じるだけで、紗雪の周辺は漆黒の闇に閉ざされている。夜の屋上はこんなにも暗い場所だったなんて紗雪は知らなかった。
暫く真っ暗な空間を見続けた紗雪は、ふと太一のことを思い出した。太一はこの場所で柊に告白をして、付き合うことになった。教室に帰ってきた太一は、本当に嬉しそうな表情をしていたのを紗雪は知っている。でも、太一の笑顔を平気な顔して壊したのは自分だった。
太一のことを考えると胸が苦しくなった。もし太一に干渉していなかったら、太一は柊と幸せな関係を築いていたのかもしれない。
覚悟はしていた。だけどあまりにも重い罪悪感が紗雪にのしかかってくる。
紗雪はふと空を見上げた。散りばめられた星々が煌びやかに輝いている。
以前紗雪は本で見たことがあった。今輝いている星は、死に向かっているのだと。こうして人の目に届く時には、一生を終えている星もあるらしい。
「超新星爆発……」
どうして自分は生きているのだろうか。どうして星は死ぬとわかっていても輝きを放つのだろうか。科学的根拠を調べれば、直ぐに答えは出るのかもしれない。
だけど今の紗雪には、科学なんてどうでもよかった。
今はただ空に輝く星のように、精一杯自分の生きた証を残したい。
母が紗雪に託したように。誰かの記憶に残ってくれる存在になれれば。
紗雪は夜が明けるまで、輝き続ける星々を目に焼きつけた。
△△△△△
森川先生と話してから一週間が経った。太一はこの一週間、学校帰りに紗雪の家を毎日訪れていた。しかし紗雪は、一度も家から出てきてはくれなかった。
どうにかして紗雪と話したい。太一は電話をしたり、メッセージを送ったり、あらゆる手を使って紗雪と話そうと試みた。だけど紗雪が返答してくれることは一度もなかった。
紗雪のいない学校生活を続けて、既に二週間。その間、太一は元の学校生活を取り戻していた。太一のことをゼロ型だと揶揄する生徒はいなくなり、静かな日々を過ごす毎日。今まで当たり前だった空間。それを取り戻したはずなのに、太一の心は満たされていなかった。どこかに大きな穴が開いていて、そこから活力が一気に放出される感覚。太一の日常に無くてはならない決定的な何かが欠け落ちていた。
そんな日々を過ごしていた時、久しぶりに柊に声をかけられた。
「今日のお昼、屋上に来てほしいの。大事な話があるから」
突然の呼び出しに、太一は躊躇いを隠せなかった。一度振られた女子から、呼び出される経験なんてしたことがなかったから。それでも太一は柊の申し出を受け入れ、屋上に向かった。
屋上に着くと、柊は既に来ていた。転落防止の柵に腕を乗せ、街並みを眺めている。時折吹く強い風が、柊の亜麻色の髪をなびかせていた。
太一が来たことに気づいた柊は笑みをみせた。
「来てくれてありがとう」
「うん。それより話したいことって?」
柊は柵から身を起こして太一と向き合った。
「月岡君と、もう一度やり直したいと思って」
「えっ」
太一は思わず目を見開いた。柊は太一に一歩詰め寄ると、しっかりと太一を見つめてくる。
「あの日、月岡君と別れた日。自分の夢を叶える為に必要な選択をしたと思ってた。練習もいつも通り集中して取り組めてたし、私は選択を間違っていなかったんだって。だけど日が経つたびに胸が苦しくなって。練習に身が入らなくなったの。理由は直ぐにわかった。月岡君が、直ぐに森川さんと付き合い始めたから」
柊は笑顔を見せると、腕を組みかえた。先程まで強く吹いていた風は、いつの間にか穏やかになっている。
「おかしいよね。私から月岡君を振ったのに。でも、これではっきりした。私は月岡君のことが本当に好きだったんだって」
柊はさらに太一の方に一歩詰め寄る。
「虫のいい話だってことはわかってる。だけど、自分の気持ちには嘘をつけないなって。このままもやもやしたままでいると、本当に練習に集中できなくなっちゃうから。だから今日、はっきりさせようと思って月岡君を呼んだの」
柊は小さく息を漏らすと、太一に向け言葉を放った。
「月岡君が好きです。また私を支えてください」
頭を下げる柊に、太一は何て答えればよいのかわからなかった。振られた相手からの突然の告白。予想の斜め上を行く出来事に、太一は気持ちの整理ができずにいた。
太一は一度深呼吸をした。そして改めて自分に問いただす。
柊に対する気持ちは今も消えていない。それが太一の本心だった。好きって気持ちを抱いているのは事実。一年も柊のことを思い続けていたのだから。そう簡単に好きな人を変えられるわけがなかった。
「お、俺は――」
柊が好き。そう強く思っているはずなのに、太一は言葉に詰まった。見えない力が太一の言葉を押し殺す。まるで喉に蓋をはめ込まれたような苦しさを覚えた。
目の前の柊は、何も言わずに太一の返答を待ってくれている。柊の為にも、早く答えを出さないといけない。
その時、太一のスマホが震えた。デフォルトで入っている着信音が屋上に響き渡る。
「ご、ごめん……」
柊に謝った太一は、急いでスマホを取り出す。空気を読まないスマホを壊したくなった。
しかし画面を見た瞬間、生まれた破壊衝動は一瞬のうちに消え去った。暫くの間、スマホ画面を見続けた太一は、ズボンのポケットにスマホをしまい、改めて柊と向き合う。
そして太一は柊の告白に返事をした。
「……ごめん。柊とは付き合えない」
太一は頭を下げる。暫く沈黙が続いた。穏やかだった風が急に強く吹き始める。その冷たさが太一の胸にしみ入った。
「そっか」
柊は笑みを見せると、太一に背中を向けた。
「すごく残念。でも、答えてくれてありがとう」
振り向きざまに笑みを見せた柊は、俯きながら太一の横を通り過ぎていく。
「俺は柊の夢を応援してる。その気持ちは今もずっと変わらないから。俺にできることがあったら、いつでも言ってほしい」
柊の背中に向け、太一は声をかける。ずっと思い続けていたことだった。目標をもって全力で取り組む柊に憧れ、思いを募らせてきた。だからその気持ちだけは、言葉にして伝えておきたかった。
「うん……ありがとう」
柊はいつもと変わらない笑みを晒し、そのまま屋上を後にした。
一人になった太一は、屋上に大の字になって寝ころんだ。目の前に雲一つない空が広がっている。風が一段と強さを増し、太一の耳元で激しく風音が響いていた。
太一はポケットからスマホを取り出した。そして先程来たメッセージに目を通す。
『今日、夜の十一時に屋上に来てください。伝えたいことがあります』
画面に表示された差出人の名前を見た瞬間、太一の中で欠けていた部分が埋められた。満たされていく感覚に、今の自分が誰を必要としているのか。太一にはそれがはっきりとわかった。
画面の文字を目に焼き付けた太一はポケットにスマホをしまい、改めて空を見た。先程みた文字が、目の前に広がる青い空に映し出される。
「夜の十一時……」
紗雪の指定した時間は既に学校は閉まっている。誰もいない学校で紗雪が何を伝えたいのか。太一は考えてもわからなかった。それでも音信不通状態だった紗雪が連絡をくれたことが、今は何よりも嬉しかった。
これでようやく一歩進むことができる。太一は思い出したようにスマホを再び取り出すと、メッセージを打ち込んで送った。紗雪が早く元の生活を送れるように。そのためにできる手は色々と打っておきたい。
送信がされたことを確認した太一は身体を起こし、決意を胸に屋上を後にした。