森川紗雪の人生は、いつから狂ってしまったのだろう。
 紗雪が生まれたのは北陸の小さな港町だった。そこで診療所を開いていた父は、毎日仕事に追われていた。唯一の休みであった週末も、ボンドについての研究ということで毎週上京を繰り返す日々。そのため父は、家で過ごす時間がほとんどなかった。
 紗雪は父と遊んだ記憶がない。だから紗雪が母親っ子になるのは必然だった。そんな大好きな母は、紗雪に常々言っていたことがあった。
「紗雪のパパは凄い人なんだよ」
 最初は母の言っていることが紗雪にはよくわからなかった。ずっと家にいない。遊んでもくれない。いったいそんな父の何処が凄いのか。正直自分にかまってくれない父のことが好きではなかった。それでも父の名前がテレビで出たり、近所の顔見知りの人達に話しかけられたりするたびに、自分でも父は凄い人なんだと少しずつ自覚できるようになった。
 しかし父に対する尊敬は、年を重ねるたびに跡形もなく消えていった。

 小学生の頃、ずっと仲良くしていた友達がいた。森田久美(もりたくみ)。一年生の時、同じクラスの後ろの席だった女子。紗雪は彼女と仲良くなり、学校では常に一緒に行動していた。学校外でもお互いの家を行き来する仲で、紗雪にとって久美は初めて親友と呼べる存在だった。
 小学三年生になると、母は久美の母親と一緒のパート先で働くことになった。紗雪が久美を親友と思うように、母も久美の母親とママ友に。だからこそ同じ職場で働くことになったんだと紗雪は思っていた。
 母が働き始めて一ヶ月が経ったある日。父は母が働いていることに苦言を呈した。
 父は医者でボンドの薬を開発した凄い人。お金だって普通の家庭以上の額をもらっていたはずだ。母が働くことで、財政的な問題を抱えていると思われたくなかったのかもしれない。
 父にもプライドがある。それくらい小学生の紗雪にも何となくわかった。
 でも母は働きたいと言って聞かなかった。そんな母の気持ちは紗雪にも理解できた。ずっと家にいるだけで家事や紗雪の面倒を見ているだけなのは、母にとってストレスになるのではないかと思った。
 だから紗雪は初めて父にお願いをした。
「お母さんを働かせてあげて」
 紗雪の言葉に父はあっさりと首を縦に振ってくれた。
 父が自分の言うことを聞いてくれた。たったそれだけのことなのに、紗雪はとても嬉しかった。