bond~そして僕らは二人になった~

 紗雪の肩から手をどかした太一は、その場に腰を下ろしてそっと壁に寄りかかった。
「全てはボンドを否定するため」
 紗雪の声が太一の耳に届く。
 まただ。
 紗雪と偽りの関係を始める約束をした日。あの時も紗雪はボンドを否定したいと言っていた。太一がゼロ型だから。だからこそボンドを否定するのにもってこいだと。
「だったら、紗雪が自分で行動すればよかっただろ。友達を作って、彼氏を作って。どうして俺を巻き込まないといけなかったんだよ」
 本音が太一の口から出る。紗雪に対しての憤りが言葉になって表れる。
 紗雪は太一を一瞥すると、口を開いた。
「あなたの周りには、仲の良い友達と彼女がいたから」
 太一の脳裏に手塚や夏月、それに柊の顔が浮かび上がる。
「ボンドの結果が発表された日。私は初めて自分がゼロ型だということを知った。正直ショックだった。どうしてゼロ型なのか。今まで見つかっていないゼロ型に、どうして私が選ばれないといけないのか。そんな思いに駆られていた時に、あなたのことを思い出したの」
「俺を……」
「帰りのホームルーム前。あなたは手塚君と話していた。彼女ができたって」
「聞こえてたのか!」
「当然よ。あれだけ大きな声で話してたのだから。周りの人達は知らないけど、少なくとも一人で座っていた私には聞こえた」
 一人でいると周囲の声がよく耳に入ることがある。太一自身、それは経験済みだ。
「もしあなたみたいに友達関係に困っていなさそうな人が、ゼロ型だと知られてしまったら。周りの人達がどんな態度をとるのか。私はそれを見てみたかった。私自身で否定できないボンドを、あなたなら否定してくれるかもしれないと思ったから。だからその日の夜、あなたのデータを改ざんしたの。私のデータと入れ替えて」
 紗雪の冷めた声音に、太一は思わず息を呑んだ。ゆっくりと紗雪の一言一言を消化していく。
「改ざんは簡単だった。父がボンドのデータを自宅で打ち込んでいるのを知っていたから」
 夏月が持っていた音声データでも、森川先生は自宅で作業をしたと言っていた。
「父は昔から仕事ばかりで、仕事のためなら家族を顧みない人だった。好きなことがあると、寝ずにずっと熱中する人だった。だから眠れないことがよくあったの。そんな父は安眠するために睡眠薬をよく飲んでいた。だからその日、父に睡眠薬をいつもより多めに飲ませたの。気づかれないようにコーヒーに混ぜて」
「自分の父親にそんなことまでしたのかよ」
「……そうよ。だって私は、ボンドを否定したかったのだから」
 紗雪の行動が太一には理解できなかった。自分を生んでくれた両親に対して行うことなのか。一歩間違えれば問題が起こることくらい、紗雪なら知っていたはずだ。
「私はあなたに全てを委ねた。あなたならボンドを否定してくれる。必ず良い結果を持ってきてくれると。それに期待して、私はその日のうちにクラスメイトに画像を流した」
 有香のスマホに送られた画像。何もかも全て紗雪が仕組んだことだった。
「でもそんな簡単に物事は運ばなかった。あなたがゼロ型だとわかってすぐに、柊さんと別れてしまった。このままあなたが一人でいることはボンドを肯定することになる。それは絶対に嫌だった」
「だから俺と付き合うことにしたのか」
「……うん」
 偽りの関係。始めから紗雪は何かを隠していた。それは太一も感じていたことだ。でもあの時はそこまで頭が働かなかった。
「あなたが柊さんと付き合い続けてくれたら、私はただ傍観しているだけでよかった。でも別れてしまった。だから私自身で動くしかなかった」
 太一は悔しくて仕方がなかった。紗雪はずっと自分を守るために動いてくれていると思っていたから。でもそんな太一の甘い考えを紗雪は持っていなかった。夏月の言う通り、始めから紗雪に用意されたレールの上を進んでいただけなのだ。
「柊さんと別れて、あなたは本当に一人になると思ってた。だけど予想外なことがあった。星野さん。彼女は異性なのにも関わらず、あなたのために動いていた。そして私のついた嘘は彼女に簡単に暴かれてしまった」
「もし俺が直ぐにボンドの結果を見てたらどうしたんだよ」
「やることにかわりはなかったと思う。あなたがどんなに否定しようとも、一度はゼロ型という噂が広まる。あとは柊さん次第だけど……私はあなたと付き合うつもりだった」
 紗雪の緻密な計画に、太一は言葉が出てこなかった。
「星野さんの言っていることに間違いはないわ。私はあなたを利用しようとしたのだから。だから私はあなたに何をされようと、何も文句は言えない。それだけのことをしてしまった」
 紗雪の説明でいろんなことがわかった。でも太一にはどうしてもわからないことがある。
「結局さ、どうして紗雪はボンドを否定したいんだ」
 まだ紗雪は答えていない。ずっと濁し続けている。
「もう、どうでもいいことよ」
 紗雪はさらっと太一に告げると、ゆっくりと腰を上げた。
「本当にごめんなさい。今日であなたとの関係は終わりにしましょう」
 頭を下げた紗雪は、太一を一瞥して空き教室を出て行った。空き教室に静寂が戻る。既に一限目が始まっている時間になっていた。
 正直もっと怒りが込み上げてくるかと思った。紗雪を信じて付き合ってきたのに、全てが偽物だったのだから。でもなぜか、紗雪のことを憎むことができない自分がいた。これから紗雪が味わうかもしれない苦しみを知っているからなのかもしれない。紗雪が教室に戻ったら、酷い仕打ちが待っているはずだ。皆から変な噂をされ、それに耐え切れなくなるかもしれない。
 そんな紗雪の未来を想像する自分が、本当に情けなかった。
 紗雪の表情が脳裏をよぎる。今までの出来事が太一の脳内を支配する。
 一緒に登校したこと。
 一緒にお弁当を食べたこと。
 そして、毎日一緒に二人だけの空間で過ごしたこと。
 わずか数週間の出来事なのにも関わらず、太一の中にはたしかに紗雪が存在していた。
 それに紗雪はまだ隠していることがある。ずっとボンドを否定したい理由を明かさないのは、言えない何かを抱えているからに違いない。
 ――太一は優しすぎるんだよ。
 夏月に言われた通りなのかもしれない。騙さていたのに、まだ騙されていた相手のことを考えている。でもたとえ騙されていたとしても、紗雪が本当に苦しんでいるのだとしたら。太一にはそれを見捨てることができなかった。
 そしてこの日を境に、紗雪は学校に来なくなった。
 森川紗雪の人生は、いつから狂ってしまったのだろう。
 紗雪が生まれたのは北陸の小さな港町だった。そこで診療所を開いていた父は、毎日仕事に追われていた。唯一の休みであった週末も、ボンドについての研究ということで毎週上京を繰り返す日々。そのため父は、家で過ごす時間がほとんどなかった。
 紗雪は父と遊んだ記憶がない。だから紗雪が母親っ子になるのは必然だった。そんな大好きな母は、紗雪に常々言っていたことがあった。
「紗雪のパパは凄い人なんだよ」
 最初は母の言っていることが紗雪にはよくわからなかった。ずっと家にいない。遊んでもくれない。いったいそんな父の何処が凄いのか。正直自分にかまってくれない父のことが好きではなかった。それでも父の名前がテレビで出たり、近所の顔見知りの人達に話しかけられたりするたびに、自分でも父は凄い人なんだと少しずつ自覚できるようになった。
 しかし父に対する尊敬は、年を重ねるたびに跡形もなく消えていった。

 小学生の頃、ずっと仲良くしていた友達がいた。森田久美(もりたくみ)。一年生の時、同じクラスの後ろの席だった女子。紗雪は彼女と仲良くなり、学校では常に一緒に行動していた。学校外でもお互いの家を行き来する仲で、紗雪にとって久美は初めて親友と呼べる存在だった。
 小学三年生になると、母は久美の母親と一緒のパート先で働くことになった。紗雪が久美を親友と思うように、母も久美の母親とママ友に。だからこそ同じ職場で働くことになったんだと紗雪は思っていた。
 母が働き始めて一ヶ月が経ったある日。父は母が働いていることに苦言を呈した。
 父は医者でボンドの薬を開発した凄い人。お金だって普通の家庭以上の額をもらっていたはずだ。母が働くことで、財政的な問題を抱えていると思われたくなかったのかもしれない。
 父にもプライドがある。それくらい小学生の紗雪にも何となくわかった。
 でも母は働きたいと言って聞かなかった。そんな母の気持ちは紗雪にも理解できた。ずっと家にいるだけで家事や紗雪の面倒を見ているだけなのは、母にとってストレスになるのではないかと思った。
 だから紗雪は初めて父にお願いをした。
「お母さんを働かせてあげて」
 紗雪の言葉に父はあっさりと首を縦に振ってくれた。
 父が自分の言うことを聞いてくれた。たったそれだけのことなのに、紗雪はとても嬉しかった。
 その嬉しさも束の間、母が働き始めて三ヶ月が経ったある日。唐突に事件が起きた。
 母が久美の母親を殺したのだ。
 最初は何が起こったのか理解できなかった。ただ、大好きだった母が人を殺した。その事実だけがずっと紗雪の脳内を徘徊し続けていた。
 そんな紗雪の運命は、翌日から大きく変わった。
 学校に登校した紗雪はいつもと違った変化に気づく。教室に入った瞬間、皆が話すのをやめて紗雪から一斉に視線をそらした。いつもなら挨拶を交わすはずなのに、誰も話しかけてこない。そんな不気味な雰囲気が続いた数日後に、久しぶりに久美が登校してきた。
 紗雪は久美を見つけると、真っ先に声をかけた。
「久美ちゃん、おはよう」
 いつもと同じように接したつもりだった。紗雪にとって一番の親友。久美ならいつものように声をかけてくれる。そんな悠長な考えを持っていたのが、いけなかったのかもしれない。久美が紗雪に向けて、とんでもない言葉を言い放った。
「人殺し。私のお母さんを返して」
 強い口調で紗雪に告げた久美はそのまま紗雪を押し倒して、これでもかというくらい紗雪に拳を振り下ろした。
 豹変した久美の拳を、紗雪はただ受け止めることしかできなかった。久美の言っていることは紛れもない事実。母は紗雪の大切な友達に、取り返しのつかないことをしてしまったのだから。
 身体も心も傷ついた紗雪は、家に帰ってからとにかく泣いた。そして再度考えさせられた。
 どうして優しかった母が人を殺してしまったのか。
 どうしてこんな目に合わないといけないのか。
 家に帰ればいつも笑顔で出迎えてくれた母は、今やどこにもいない。母は殺人罪として懲役十年を言い渡された。だからずっと刑務所の中。いつも母の温もりがあった家が、紗雪一人の空間になってしまった。父は仕事が忙しくて、いつも家に帰ってこない。週末はボンドの話し合いで上京してしまう。
 これから家ではずっと一人なんだ。そう思った瞬間、久美の顔が紗雪の脳裏をよぎった。そして紗雪は気づく。
 もう久美のことは親友と呼べない。家だけでなく、学校でも一人なんだと。
 その事実がすべてだった。紗雪はその日、疲れ果てて寝るまで涙が止まらなかった。
 母が家からいなくなって以降、登校するたびに紗雪の心は擦り減っていった。
 人殺し。
 紗雪が教室に入る度にクラスメイトがひそひそと声を上げる。直接言ってこないのが、本当に嫌らしいと思った。だけど紗雪は言われても仕方がないと思っていた。事実である以上、その罪を背負って生きていかないといけない。久美のほうが、紗雪よりもずっと苦しいはずなのだから。
 しかし時間が経つにつれ、紗雪に対する罵詈雑言は徐々になくなっていった。母の事件は過去の出来事と扱われ、紗雪は比較的穏やかな学校生活を送れるようになっていた。その代わり一人も友達ができないまま、紗雪は中学校に進学した。

 中学生になった紗雪を待っていたのは少しの幸福だった。
 紗雪は母親譲りの美貌の持ち主だった。意志を感じさせるキリッとした大きな目。スッと通った高い鼻。そして腰まで伸びた艶やかな黒髪。教室の隅で静かにしていても、むしろ目立っているくらいだった。
 そんな美少女になった紗雪を、思春期真っ盛りの男子達は放っておかなかった。
「付き合ってください」
 紗雪に告白をする男子が後を絶たなかった。しかし紗雪は当然のように断っていた。
 紗雪の中学校は二つの小学校の生徒が通っていた。そして紗雪に告白をしてくる男子は、別の小学校に通っていた男子。同じ小学校に通っていた男子は、一人も告白をしてこなかった。
 こうなれば嫌でもわかってしまう。紗雪の過去を知った瞬間、告白してくる男子は一人もいなくなると。紗雪自身、告白されるのは嬉しかった。自分を見てくれている人がいる。小学生の時とは違って、誰かに存在を認識してもらっていると思えたから。だから少しだけでも、今感じている幸福を大切にしたい。そう思っていた。
 しかし紗雪の運命は、最悪な方向に進んだ。
 紗雪の男子人気に腹を立てた一部の女子が、紗雪の過去について話し始めたのだ。その話は紗雪とは別の小学校に通っていた生徒にも広まっていき、次第に嫌がらせをする女子が増えていった。
 それでも紗雪は気にしないようにしていた。小学生の頃、同じような仕打ちにあったことがあったから。紗雪にとって、ひそひそと噂されるのは慣れっ子だった。
 しかし紗雪に対するいじめは、日を追うごとにエスカレートしていった。
 下駄箱には「死ね」「人殺し」と書かれた手紙が溢れ、上靴の中には見てわかるくらいの画鋲が敷き詰められていた。教室に着くと机と椅子がいつもの場所になくて、教室の一番隅に置かれる日々。机にはマジックペンで「人殺しの子供」と書かれ、机の中には水で濡れたプリントが投げ込まれていた。
 最初は我慢しようと思った。これも全て自分が背負わないといけない罪だと。
 でも紗雪の心は既に限界がきていた。学校で話してくれる友達もいない。告白してくる男子もいなくなった。ただ学校に登校して、授業を受けて帰るだけ。いつしか紗雪の心は小学生の時よりも、深い闇に閉ざされていった。
 それでも紗雪が学校に行かないことはなかった。紗雪にとって、少しの希望があったから。それは担任の石川(いしかわ)先生の存在だった。
 毎日続いていた紗雪に対する嫌がらせに対して、最初の頃は生徒に注意をしてくれた先生。でも次第に誰も聞かなくなり、いつしか石川先生は生徒を注意しなくなっていった。
 小学生の時の先生は、何も口出しせずにただ時間が過ぎるのを待っていた。実際に時間が解決してくれた部分もあった。だけど紗雪は友達を失った。平穏を得たのかもしれないけど、あまりにも失った代償が大きかった。
 どうせ石川先生も、小学生の時の先生と同じだと紗雪は思っていた。
 だけど石川先生は違った。生徒に注意をすることをやめた石川先生は、紗雪に積極的に話しかけてきたのだ。
「大丈夫か?」「何か困ったことはないか?」
 毎日耳にたこができるくらい、同じ言葉をかけられた。他の生徒の前でも大きな声で話しかけてくる石川先生に、嫌悪感を覚えた紗雪は距離をとった。それでも石川先生は話しかけてくることをやめなかった。
 朝と帰りの二回。必ず石川先生は話しかけてきた。
 その効果があったのかはわからない。それでも石川先生に話しかけられてから、紗雪に対するいじめは少しずつ減っていった。
 この先生なら信頼できるのかもしれない。次第にその気持ちが高まった紗雪は、石川先生にとあるお願いをしてみた。
「母に会いに行きたいです」
 父には頼みたくても頼めないことだった。父が仕事で忙しいのは知っていたから。一人で行くこともできたかもしれない。だけど紗雪は一人では行けなかった。刑務所の母と二人きりで会う勇気を持てなかったのだ。
 紗雪の知っている母は、いつも笑顔で明るい人だった。そしてとても温かい包容力で紗雪を迎えてくれる。そんなイメージが強かった。だけど今の母は、紗雪の思っている通りの母なのか。もし紗雪の思っていた母と正反対の母に変わっていたら。そう思うだけで紗雪は震えが止まらなかった。
 そんな紗雪の気持ちを石川先生は受け入れてくれた。そして石川先生に連れられて、およそ五年ぶりに母と会うことになった。
 母との面会時間は十分間。警察に連れて来られた母の姿を見た紗雪は、あまりにも変わり果てたその姿を直視できなかった。そして言いたかった言葉も中々出ずに、ただガラス越しで対面するだけ。このまま時間が過ぎてしまうのではないかと思うくらい、話し出すことができなかった。それでも何とか母と向き直って、紗雪は学校での出来事を話した。
 元気でやっていること。友達もたくさんいて毎日が楽しいということ。勉強も頑張っていること。
 全て嘘でかためられた言葉が、紗雪の口から放たれていた。今の自分がどんな状況にあるのか、紗雪は母に真実を伝えられなかった。
 そんな紗雪を見た母は、紗雪に向かって何度も頭を下げてきた。
「ごめんね。ごめんね、紗雪」
 紗雪は母から顔をそらしてしまった。必死で溢れる思いを噛み殺し、自分を落ち着かせることだけを考えた。
 母は言わなくてもわかっていたのかもしれない。紗雪が学校でどんな目に遭っていたのか。
 最初の面会はそのまま時間切れとなり、先生と共に刑務所を後にした。
 家に帰った紗雪は、前よりも気持ちが楽になっていることに気づいた。学校での嫌なことが全てどうでもよくなった。そう思うことができるのも、母と会えたからなのかもしれない。
 そして紗雪の中で欲が生まれた。
 また母に会いに行きたい。
 今度は一人で。
 いつか母に、嘘ではない報告ができるように。
 紗雪は一人で母に会いにいく機会を増やした。母も次第に笑顔を見せてくれるようになり、少しずつだけど良い方向に進んでいると思っていた。

 紗雪が中学二年生になった日の朝。久しぶりに顔を合わた父が話しかけてきた。
「お前、母さんに会いに行ってたのか」
 父の発言は、まるで会いに行くなとでもいう発言だった。
「そうよ。だって私のお母さんだもの。会いに行って何か悪いの」
 父に対する初めての反抗だったかもしれない。元からほとんど話していなかったから、機会がなかったということもあるが、紗雪が覚えている限りでは初めての反抗だった。
「母さんとはすでに離婚したんだ。だからもう会いに行くな」
 父が告げた言葉が衝撃的すぎて、紗雪は開いた口が塞がらなかった。
「離婚……って、どうして私に話してくれなかったの」
「子供のお前にはまだ早い。だから話さなかった」
 父はそう言うと、話を切り上げて仕事へと行ってしまった。
 紗雪は父の言葉が許せなかった。
 どうして離婚することについて、一言も相談がなかったのか。
 どうして母に会いに行ってはいけないのか。
 父の言い分は、当然納得できるものではなかった。だから紗雪は父への反抗を含めて、母に会いに行くことにした。
 本当に離婚したのか。
 父が一方的に言っているだけではないのか。
 その真意を確かめるために。
 しかしこの日の刑務所はいつもと様子が違った。いつも通りなら直ぐに母と会わせてくれるはずなのに、紗雪は一時間も待たされていた。早く母に会いたいと思う気持ちとは別に、紗雪の脳裏に不安がよぎる。
 もしかしたら母に何かあったのかもしれない。
 紗雪の不安は刑務所に来てから二時間後、現実のものとなった。
 母が刑務所内で自殺した。
 刑務所内で着ていた長袖のシャツを、天井近くに設置されたトイレタンクの配管にくくりつけ、首を吊って自ら命を絶ったのだ。
 その事実を知らされた紗雪は、目の前が真っ暗になった。
 今まで紗雪を支えてきたのは母だった。いつも紗雪のことを考えてくれている母がいた。だからこそ紗雪は、どんなに酷いことがあっても頑張ろうと思えた。
 母が笑顔になるような報告をしたい。そのためにこうしてずっと会いに来ていたのだから。よりにもよって父の言っていた真意を確かめに来た日に、心の支えだった母が亡くなるなんて。
 家に帰ってからも涙はずっと止まらなかった。どうして、何故といった思いだけが紗雪の中で膨れ上がっていく。昔から母親っ子だった紗雪は、これから何を支えに生きていけばよいのか。
 ふと父の顔が脳裏をよぎった。
 これから父と二人で生きていくことになる。それが不安で仕方がなかった。